第118話 姜美、軍を預ける

 姜美の胸の傷は、姜美の身体の事情を知る軍医が迅速に処置した為に大事には至らなかった。しかし、その傷の影響か、あるいは降り続く雨のせいなのか、はたまた敗戦した精神的苦痛からなのか、姜美は体調を崩し、威峰山いほうざんから10里 (約4km)の平地に簡易的に設営された幕舎の中で寝込んでしまった。起き上がれない程の高熱で、姜美は将兵達から隔離される事となった。

 そばにいるのは軍医の老人だけである。


「軍医殿、昨日より飲んでいる飲み薬が一向に効きません……ほ、他に効く薬はないのですか? このままでは、指揮を執る事はおろか、身体を動かす事もままなりません」


 寝台の上で弱々しくなった姜美は、もはや勇壮な武将モードを保つ事は出来ず、熱に魘されるカヨワイ女の子になっていた。


「姜将軍。熱を下げる薬はあるにはあるのですが、熱が下がったからとてすぐに軍の指揮を執るのはおやめになった方が宜しいかと。また傷が開き傷口から化膿すれば今度は命の危険もあるやもしれません」


「私は将軍です。前線でいつまでも休んでいるわけにはいきません。例え……この身体が朽ちようとも、私は戦わねばならぬのです……未だ戻らぬ……田燦でんさんや校尉達の為にも……」


「姜将軍、鄧平とうへい殿が命懸けで貴女をここまでお連れしたのは貴女の命を救う為であります。その命を粗末にしてはなりません。私は罰を覚悟で諌言かんげん致します。どうか麒麟砦きりんさい、いえ、胡翻こほんまでお戻りになり、お身体を労わってください」


「ありがとうございます、軍医殿。その忠言に罰など何故与えられましょうか。さりとて、私は李聞りぶん殿からわざわざ兵を借りたのです。その兵を半分近く失っては申し訳が立たない。私にはまだ生きてやるべき事がたくさんあるのです」


「なればこそです。お身体が万全になられてからでも遅くはありますまい。今無理して、もしもの事があれば、将軍のやり残した事はどうなるのですか?」


 軍医の必死の説得に、姜美は言葉を詰まらせた。反論するのも辛いからではない。単に軍医の意見が正論だったからだ。ここで自分が死ねば全てが終わる。自らの悲願である『将軍昇格』は果たした。しかし、まだまだ生きてやるべき事は山積している。


 姜美が虚ろな目で思案していると、幕舎の入口に人の気配がした。入口の垂れ幕は降りているので誰が来たのかは分からない。


「姜将軍! 田燦殿がお戻りになりました! 是非面会したいと!」


「何!? 田燦が!?」


 垂れ幕越しの兵士からの報告は、姜美の胸のつかえを1つ吹き飛ばすものだった。その吉報に虚ろな目はカッと見開いた。


「姜将軍。まだ具合が宜しくない故、後にしてもらいましょうか?」


「いえ、会いたい。今会いたい。すぐに通してください」


「承知いたしました」


 軍医は枕元から立ち上がると小さく溜息をついて入口へと向かった。


「あ、軍医殿。熱を下げる薬を置いていってください」


「……分かりました」


 姜美の願いを渋々受け入れた軍医は、薬箱から小さな赤い箱を取り出すと枕元の卓に置いた。


「この薬は解熱鎮痛剤。熱を下げ、身体の痛みを取ります。即効性はありますが、くれぐれも無理なさらず。熱が下がってから5日は安静になさいませ。急に熱を下げる薬故、一時的に目眩や吐き気などの副作用があるかもしれません」


「ありがとうございます。肝に銘じます」


「それと、これは飲み薬ではありません。直腸に塗り込む塗り薬にございます。適量指先で掬い、そのまま肛門に挿れ、よく塗り込んでください。くれぐれも口になさいませんように。……もし、ご自身での塗布が難しければ、恐れながらこの老骨がお手伝いしますが……出来ればご自身でやっていただきたい。こんな老いぼれに尻など触られたくはないでしょうから」


「直腸? 塗り込む?」


 姜美が不安そうな表情をしていたが、軍医は一礼すると外から田燦を中に招き入れ、自分は部屋から出て行ってしまった。


 軍医と入れ替わるように、姜美の目の前には血と泥塗れの田燦が鎧兜を身に付けたままの姿で現れた。


「田燦……! 生きててくれて良かった。心配したのですよ」


 ぱあっと明るい笑みが戻った姜美の顔を見て、田燦もホッと胸を撫で下ろした。しかし、姜美は身体の痛みのせいで田燦へ顔を向けるだけで精一杯だった。


「姜将軍。ご心配をお掛けして申し訳ございません。朧軍から逃げる途中、私は山道から足を滑らせ道に迷っておりました。ですが、何とか明け方頃、威峰山いほうざんから抜け出す事ができ、ようやくここへ戻って来れたのです。血塗れではありますが、これは敵の返り血ですのでご安心を」


「そうでしたか。貴方が無事帰って来てくれただけで私の心も少し落ち着きました。貴方が守ってくれた兵達も全員ではありませんが戻っていますよ」


「……やはり、全員ではありませんでしたか。犠牲はどのくらい出たのでしょう?」


「兵の犠牲は千人余。校尉達は、郝性かくせい臧遼ぞうりょう 曹萌そうぼう成覇 せいは侯廉こうれんの5名がまだ戻っていません」


「……5人は……死にました。臧遼ぞうりょう郝性かくせいは敵に討たれるのをこの目で見ました。他の3名は私がここへ来る途中で合流した兵が報告に来ました」


 悔しそうに拳を握り締め俯く田燦。そんな田燦に姜美は静かに言う。


「敵の奇襲を受けたのに半分以上が生きて帰って来られたのは田燦や鄧平、そして校尉達のお陰です。特に貴方がいなければ、私も死んでいました。貴方は良くやってくれました。落ち込む事はありません」


 田燦は無言でコクリと頷いた。


「姜将軍……その胸の傷は如何ですか? かなり具合が悪そうに見えますが」


 田燦は姜美の薄着のせいで主張の激しくなっている胸の膨らみを見て言った。高熱のせいで胸の谷間に汗の雫がポロポロと零れ落ちている。

 田燦には姜美が女だと言う事はバレている。故に大きな胸の膨らみを隠す必要はない。ただ、こうして見られるのはやはり女として照れくさい。


「傷口が開いてしまいましたが、また軍医が治してくれました。それと、少し風邪を引いたようで熱がありますが、この通り元気ですよ」


 笑顔を作り、元気を装ったが、上体を起こす事さえ出来ない程に身体が重く、とても元気とは言えない。だが、姜美は田燦を心配させまいと必死に元気を装った。


「田燦、そこの湯で顔を拭きなさい」


 姜美は自分の為に用意されていた木桶に視線を送り指示を出した。

 田燦は素直に頷くと、兜を脱ぎ、木桶の縁に掛かっていた麻の手ぬぐいを湯に浸し、血と泥塗れの顔を拭った。


「姜将軍、この後はどうするのですか? その状態では、とても指揮が執れるようには見えません」


 手を洗いながら、田燦は言った。


「そんなに具合が悪そうに見えますか」


「私が入って来てから、一度も身体を動かしておられません」


「なるほど、鋭いですね。ならば、正直に言いましょう。実は胸の傷口の痛みもそうですが、高熱による全身の倦怠感と関節の痛みが酷く動く事もままならないのです。本当は無理をしてでも指揮を執り続けようかと思っていましたが、軍医殿に叱られました」


「そうでしたか。それはお辛い……。ならば、一旦麒麟砦きりんさいまで退きましょう。麒麟砦にはまだ3千の精鋭部隊がいます。それに軍師殿達も」


 田燦の提案を聞いた姜美はゆっくりと首を横に振る。


「退却はしません」


「なりません、姜将軍! そのお身体では軍の指揮など執れないばかりか、せっかく残った兵も失う事になります」


「そうですね。私では指揮を執れません。だから貴方にこの軍を引き継いでもらいたい」


「え!? 私に!?」


 目を見開いて驚く田燦に、姜美は静かな口調で続ける。


「そうです。この防衛線がなくなれば、威峰山の朧軍は真っ直ぐに麒麟砦を攻撃する事が出来ます。麒麟砦を盗られれば、椻夏えんか洪州こうしゅうの朧軍と麒麟砦の朧軍で挟撃されてしまいます。麒麟砦だけは死守しなければなりません。この防衛線はその為の最後の砦なのです。ここを放棄する事は何があっても出来ないのです。貴方に頼めるのなら、私は麒麟砦へ戻り身体を休められます」


「理屈は分かりますが……しかし……」


「頼めるのは貴方しかいません。貴方にはその才があります。それに、鄧平も残していきます。2人で協力して守り抜いて欲しいのです。もちろん、私が麒麟砦へ戻った後、援軍、武器、兵糧は送ります。どうか引き受けて欲しい。これは軍令ではないので強制はしません」


「断れば?」


「私がここに残り指揮を執るまでです」


 田燦は溜息をついた。


「それを強制というのですよ、姜将軍。ですが、姜将軍がそこまで仰るなら、不肖田燦、軍を引き継ぎここを死守いたします」


「良かった。これで安心して麒麟砦へ戻れます。ありがとうございます」


 田燦の説得に成功した姜美はやっと肩の力を抜いた。


「どうかご自愛なさってください」


「もう1つお願いがあります」


「何でしょう?」


「その小さな赤い箱の中の薬を私に塗ってください。これは……軍令です」


「軍令でなくともそのくらいやりますよ」


 何も知らない田燦は素直に小さな赤い漆塗りの箱の蓋を開いた。

 姜美は羞恥からか、胸の鼓動が速まり、熱もさらに上がっているような気がした。

 しかし、今は田燦にしか頼めない。

 姜美は軍と自分の身体を田燦に託した。



 ***


 靂州れきしゅう秦安しんあん


 閻帝国の都も未だ雨は降り続いている。

 司徒しと董陽とうようはこの日の仕事を終えると、ご機嫌な様子で新しく手に入れた、感じの良い下女を連れ自宅の門を潜った。

 ただの下女だというのに、董陽は手まで繋いで鼻歌交じりに屋根のある庭の小路こみちへと足を踏み出した。


「姉上!」


 すると、突然背後から呼び止められ、董陽は振り向いた。


「あら、げっちゃん。どうしたの? またそんな怖い顔して」


 ニコニコとしている董陽とは対照的に、眉を吊り上げた見るからに機嫌の悪そうな女、董陽の妹、尚書令しょうしょれい董月とうげつが、門の前に停めた馬車の中からこちらを睨むように見ていた。


「また新しい下女なんか貰ったの? 下女なんて売るほどいるのに」


「紹介するわね。今日からうちで働いてもらう下女の霜華そうかちゃん」


 霜華は礼儀正しく拱手し頭を下げた。


「ソウカ? “曹家そうけ”の女??」


「違うわ。しもはなと書いて霜華そうかだそうよ。素敵な名前でしょ?」


「そんな事どうでもいいわ。それより、聞いた? 孫太尉そんたいいからの連絡が途絶えたって。父上がお怒りよ」


「聞いたわ。けれど、私がどうこう出来る話ではないわ。軍の事は太尉府たいいふで何とかしてもらいましょう」


「そうやって姉上は他人事ひとごとだと思って! 貴女も三公の1人だという事を自覚しなさいよ!」


 董月の怒気のこもった言葉にまるで臆する事もなく、董陽は穏やかな口調で応える。


「そう言われても、役所はお仕事毎に別れているのだから、私の管轄外のお仕事は出来ないわよ」


「姉上もせいも呑気よね! ほんっとに大っ嫌い!!」


「そんな、腹を立てないで。私の役目は父上に逆らう役人の監視。そのお仕事は政務の合間にもちゃんとこなしているわよ」


「それは当たり前の事よ! あぁ! もう苛つく! 私が忙しい中わざわざ来てやったんだから、ちゃんと話を聞いてもらうわよ!」


「どうぞ。霜華ちゃん、早速お茶をお願いしていいかしら?」


「そんなもの要らないわ! 下女は邪魔だからどっか行ってなさい!」


 馬車から飛び降りて来た董月は、まるで犬でも追い払うかのように霜華を突き飛ばすと、董陽を連れて屋敷の庭を歩いて行ってしまった。


 強制連行されていく董陽は、霜華に「ごめんねー」と謝罪の言葉を述べていたが、結局口うるさい董月と共に屋敷の中へと消えてしまった。


「あの妹ムカつく。アレが尚書令しょうしょれいだなんて世も末ね」


 “霜華”。新たに名前を変えた間諜の清華せいかは、小声でそう呟くと、人の目に注意しながら董陽と董月を追って屋敷の中へと入った。

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