第115話 呂郭書と孫晃

 清華せいかみやこ秦安しんあんへ旅立ってから5日後。

 朧軍の本隊が椻夏えんかに迫っているという情報が届いた。

 雨はまだ降り続いている。

 やはり朧軍は雨の中攻めて来たようだ。

 葛州かっしゅう麒麟砦きりんさいの自室でその報せを聞いた宵は自分の読み通りになりほっと一息をついた。

 椻夏の李聞りぶんからは快く3千の兵を借りられ、椻夏の東側の山道に姜美きょうめいの本隊2千と10隊3千の伏兵を置く事が出来た。


「椻夏に侵攻中の朧軍の兵力はどのくらいですか?」


「はっ! およそ3万余。指揮官は黄旺こうおうです!」


 片膝を突いた兵士が拱手して答えると、宵の隣にいた光世みつよが苦い顔をする。


「知り合い?」


 親友の異変を察知した宵は心配そうに訊く。

 光世は悲しそうに頷く。


「朧国の前将軍。60過ぎくらいのおじいちゃんだけど、老いを感じさせない迫力があって……そう、それこそ、三国志の黄忠こうちゅうみたいな感じ」


「え!? 黄忠……!? 老いて益々盛んじゃん! だとしたら椻夏城も本気で攻める気なのかも……」


 宵は光世の話を聞き顔を曇らせた。

 宵は兵士に問う。


「椻夏の東へ向かう朧軍はいましたか?」


「いえ、今のところ椻夏へ正面から向かう軍のみです」


「分かりました。下がっていいですよ」


 宵は伝令の兵を下がらせると白い羽扇で顔を扇ぎながら部屋の壁に貼っておいた閻の地図を眺めた。光世も同じく腕組みをして地図を見る。


貴船きふね君と楊良ようりょうがいて、東の山道を見逃すはずがないよね、光世」


「だね。見逃してるわけじゃなく、こっちの伏兵を見抜いていると考えるべきじゃないかな。雨の中伏兵がいるかもしれない隘路の山道に進軍しないのは妥当な考えではあるし……それに、洪州こうしゅうの朧軍は降伏した閻軍を合わせて14万もいるのに、4万強いる椻夏に3万しか寄越さないのも解せない」


「貴船君と楊良がいなければ怖くないのに、2人がいるとなると……何企んでるのか分からなくて怖いね……」


「ほら! シャキッとせんかい!」


 宵の自信のない言葉に光世の右手が容赦なくその尻を叩いた。


「ひゃっ!?」


「自信なさそうな発言はダメだよ、軍師殿。『兵を用いるの害は、猶予、最大なり』だよ?」


「はい……ごめんなさい」


 確かに光世の言う通りだ。葛州かっしゅう防衛及び洪州奪還の作戦、戦略は宵が立案する立場。それに、姜美きょうめい達が出陣してしまった今、麒麟砦にいる指揮官で最も立場が上なのが宵。次点で光世という状況である。将兵に不安を与えてはならない。

 ただ、『孫子』ほど日本に浸透していない『呉子』の言葉をしれっと引用してくるあたり、光世も相当な兵法オタクではないだろうか。宵はオープンオタクだが、光世はムッツリオタクといったところか。


 と、その時。


「報告します!」


 先程とは別の兵士が宵の部屋に飛び込んで来た。


「何事ですか?」


「朧軍の別働隊が椻夏の東の山道へ向けて進軍しているとの情報です。その数1万。指揮官は逢隆ほうりゅうという将軍です」


 兵士の報告に宵と光世は顔を見合せた。

 やはり予想通り東の山道へも朧軍が攻めて来た。1万程度なら5千の十面埋伏の計で包囲し無力化する事は出来る。ただ1つ、宵には懸念があった。


「光世、逢隆って将軍知ってる?」


「いやぁ……知らないなぁ。聞いた事もない」


 光世がかぶりを振ったので宵は口元に羽扇の羽根先を当てうーむと唸る。


「逢隆っていう将軍は、間諜からの報告にもなかった。無名の将軍を別働隊にあてたって事かな? 光世?」


「朧軍が伏兵を見抜いていたなら、それに対処出来るだけの有能な将軍を送るよね。じゃなきゃ囮」


「囮……敢えて無名の将軍を送り込みこちらの出方を窺っているのか、それとも、逢隆は陸遜りくそん的な隠れ名将という可能性も……」


 陸遜も三国志に登場する呉の将軍で、登場当初は無名な人物であったが、その無名を利用して勢いに乗っていた軍神関羽かんうを油断させ、関羽率いる荊州けいしゅうの軍を打ち破った。

 実際の戦場ではこうした教科書通りにいかない展開が起こる。それは戦に限った事ではないが、こうした計略のやり取りは素人である宵と光世にはまだ早かった。この時の判断が、味方の将兵の命に関わる事になるのだから、一介の女子大生である宵や光世に即決など出来ない。


「別働隊の件は姜美将軍には伝えてありますか?」


「はい、別の者が報告に向かいましたので」


 兵士の的確な受け答えに伝令はしっかりと機能している事を確認し宵は頷く。

 いずれにせよ、決断するのは宵である。

 胃がきゅっと締め付けられるような痛みが襲う。宵は目を瞑り、呼吸を整える。謝響しゃきょうに貰った羽扇を握り締め、劉飛麗りゅうひれいに貰った綸巾かんきんを優しく触ってみる。そしてゆっくり目を開き、親友光世の顔を見て決断する。


「姜美将軍に伝令を。予定通り十面埋伏にて逢隆の軍を攻撃。可能な限り将兵は生け捕り。敵が手強く捕縛出来なかったり、または新たに援軍が来るなどして形勢が不利になった場合はすぐに撤退し下山。山の麓から10里 (約4km)の場所に態勢を立て直し防衛線を張る事」


「御意!」


 兵士は返事をすると勢い良く部屋から飛び出して行った。


「さすがは軍師殿」


「あ、ありがとう、光世」


「きっと上手くいくよ。宵の兵法オタクっぷりに敵う人なんていないから」


 光世は笑顔で宵の肩をポンと叩いた。


「光世が私のお尻を叩いてくれたから決断出来たんだよ」


 宵の言葉に光世は照れくさそうに顔を逸らす。


「そんなにお尻叩いて欲しいならいつでも叩くし。まったく、宵ちゃんはドMなんだから」


「ふふ」


 あからさまな光世の照れ隠しに、宵は思わず笑い声を漏らす。

 光世と一緒ならまだまだ頑張れそうだ。

 宵はそう思いながら、光世の照れ隠しからの宵への暴言の数々を優しく聞き流した。



 ***


 土砂降りの雨が幕舎の屋根を激しい音を鳴らしながら叩いている。

 閻帝国・靂州れきしゅう秦安しんあん郊外の天譴山てんけんざんを臨む、呂郭書りょかくしょ大都督の陣営。80万もの大軍がここにはいる。


 こんな土砂降りの中、呂郭書の幕舎を訪れたのは太尉の孫晃そんこうだった。

 びしょ濡れの笠とみのを外し側近の兵士へと渡すと無遠慮にズカズカと幕舎の奥に座っている呂郭書の元にやって来た。

 孫晃の眉間には深いシワが刻まれている。


「どうしたというのだ。朝廷の太尉ともあろうお方がわざわざこの雨の中をこんな所まで。昔話でもしに来たか? 我が友、孫晃殿」


 太尉であり、旧友でもある孫晃の訪問に、呂郭書はあまり驚いてはいなかった。大方、孫晃の訪問の理由に心当たりがあるからだ。


「大都督。分かっているであろう。丞相がお怒りだ。すぐに軍を動かしてくれ。頼む」


 孫晃は拱手すると率直に用件を伝えた。

 すると呂郭書は呵呵と笑った。


「まあ季達きたつ殿、せっかくお越し頂いたのだ。酒を飲みながら話そうではないか。何をそんな怖い顔を。おい、酒を持て!」


 親しみを込めてあざなで呼ばれた孫晃だったが、酒を取りに行こうとした幕舎内の兵士を手で制した。


「酒を飲みに来たのではない。仲宣ちゅうせん。俺はお前に軍を動かすようにとの丞相からのめいを伝えに来た。聞かぬならお前を斬れと命じられている。頼む、俺の顔を立ててすぐにかっ州へ向かってくれ」


「それは難儀な事になったな。だが、季達殿。其方も軍を率いた事があるなら分かるであろう。この大雨の中、これだけの兵をあの山に入れるのは愚かな行為だ。天譴山は険しい。故に雨が止んでから動く。それでも俺を斬ると言うなら斬れば良い」


「仲宣! ならば天譴山の南に迂回すれば良いであろう! 1日も早く葛州の軍に加勢し、洪州の朧軍と閻の裏切り者を討伐せねばならぬのだぞ! 閻仙楊良えんせんようりょうが朧軍に寝返ったのは聞いたであろう?」


「季達殿、この80万の兵には大きな問題がある。それは練度不足。長年戦から遠のき調練もまともにやって来なかった兵士を葛州に送り込んだとて練度の高い朧軍には勝てないだろう。いくら兵力が多くてもな。だから俺はこの雨の為の立ち往生は、天が兵を鍛える時間をくださったものだと思っているのだ。ここで鍛えた兵が、雨季の終焉と共に天譴山を越え朧軍を討つ。それが俺の計画だ」


「詭弁だ。丞相の命は早急に葛州の救援へ向かう事。とにかくいかなる理由があろうと、今すぐ軍を葛州へ動かさなければ、其方は丞相の命に背く事になる。俺は其方を斬りたくない。仲宣、其方国を護る気はあるのか?」


「笑わせるな、季達殿。俺は国を護る為に軍に入ったのだ。だが、急いては事を仕損じる。時が来るのを待っているだけだ。この軍の全ての権限は大都督である俺にある。丞相でも陛下でもないのだ。現場での判断は俺がする。分かったらお引き取り願おうか」


 呂郭書は方針を変えるつもりはない。旧友である孫晃の説得もまるで効き目がない。


「ならば、仕方がない。其方の軍権を剥奪し、俺が軍を引き継ぐ!」


「1つ聞かせてくれないか、季達殿。其方にとって“国を護る”とは何なのだ?」


「なんだと?」


 落ち着き払った呂郭書の唐突な質問に孫晃は首を捻った。


「朧軍からの宣戦布告の言葉を知っているか? 『民を苦しめる閻帝国を滅ぼし、民を解放する』。そういう趣旨の発言をしたと聞いている。民が苦しんでいるなどという話を其方は知っているか? 俺は聞いた事もない」


「俺も知らん。そんなものは奴らのデタラメの大義名分であろう」


「俺も初めはそう思った。だが、俺は何故朧軍がそんなデタラメを言うのか疑問に思い調べた」


「調べた?」


「そうだ。この滞在中の期間を利用して部下に調べさせたのだ。するとどうだろう。民の生活は俺の想像を遥かに下回っていた。民にはほとんど財産もなく、娯楽もない。あるのは餓死しない程度の食糧の定期的な配給のみ。さらに問題なのは、その事を民が苦痛だと感じていない事だ」


 孫晃は黙って呂郭書から目を逸らした。


「その様子だと、其方は知っていたようだな、季達殿。朝廷に仕えるものなら当然か」


「だからどうしたというのだ。今は民の生活など関係ない。軍を動かせ! このままでは俺は朝廷に戻れない。頼む、仲宣」


 その言葉に呂郭書は目の前の卓を思い切り叩いた。


「国を護るという事は民を護る事である! 人としての生きる喜びを忘れた民を作り出した朝廷は悪の権化ではないか!」


 突如響き渡る呂郭書の怒声に、孫晃は一瞬身体を震わせた。


「貴様……! 止むを得ん、ならば其方には死んでもらう! 呂郭書を捕らえて斬れ! 逆賊だ!」


 孫晃の指示にすぐにその側近の兵士が6人ほど集まって来て剣を抜いた。

 しかし、呂郭書は尚も落ち着いた様子で椅子から立ち上がろうともしない。


「季達殿。考え直せ。民の幸せと其方の地位はどちらが大事なのだ」


「構わん! 斬れ!」


賈循かじゅん!」


 呂郭書が呼ぶと、幕舎の外から副官の賈循が飛び込んで来て剣を持った兵士達を次々に素手で殴り倒し、頭を蹴り飛ばし、あっという間に孫晃を捕らえて跪かせていた。


「素晴らしい手際だ賈循」


「大都督。本当に良かったのでしょうか、これで」


「無論だ」


 賈循に押さえられた孫晃は顔を真っ赤にして呂郭書を睨み付けている。


「昔のよしみだ季達殿。命は助けてやろう。他の者は全員斬れ」


「御意!」


 呂郭書の命令で、倒された孫晃の側近達は呂郭書の兵士に連れて行かれた。

 そして賈循が孫晃を立ち上がらせる。


「逆賊め!」


「俺は国を護る為に戦っている。逆賊ではない。連れて行け」


 賈循は頷き孫晃を幕舎から連れ出した。


「友を1人失ったか」


 そう呟いた呂郭書は、椅子に座ったまま静かに目を閉じた。

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