第114話 愛しき清華
降り続く雨は、もはや
重い雲が支配する暗い空からは明かりはなく、最後に日を見たのが遠い昔のように思える程に、閻帝国の雨季は続いている。
深夜。
光世の使命は
親友・
どちらも生半可な相手ではない。朧軍トップの将軍と、実質閻帝国のトップの政治家。宵も光世も兵法をかじっただけのただの大学生。普通なら勝ち目などない。だが、勝たなければいけない。多くの人の命が懸かっている。他に出来る者はいないのだから。
「光世様、
「どうぞー」
下女の清華は湯呑みを乗せたお盆を持って入って来た。そして光世が向かう資料だらけの卓にコトンと置いた。
「ありがと」
「こんな遅い時間までお疲れ様です。宵様はもうお休みになられましたよ?」
光世は清華の顔をチラリと見ると湯呑みを口に運んだ。
温かいお茶が身体にしみる。
「私はさ、宵と違って才能ないから。あの子よりも頑張らないといけないんだよね」
「何を言ってるんですか? 光世様も宵様と同じくらい凄い人ですよ?」
「ありがとう」
そんな事はない。自分に宵と同じくらいの能力があるとは思えない。宵と4年間大学で共に勉強してきた光世にはそれが誰よりも分かっている。
「本当はさ、私に閻帝国の
清華は光世の話に黙って耳を傾ける。
「素人の小娘が、董炎という何年もこの大国に君臨し続けた男に敵うはずない。私如きがこの国の
「光世様……」
清華は悲しげな瞳で光世を見る。
「こんな泣き言、宵には言えない。あの子、凄く成長してた。私が知ってる弱っちい宵はもういなかった。ヘタレになっちゃったのは私なんだ……」
光世は清華から顔を背け、また茶を啜る。
「ごめんね、清華ちゃん。今の話は聞かなかった事にして。宵にも絶対言わないで」
光世が微笑むと、清華は持っていたお盆をギュッと抱き締めた。
「光世様は宵様に劣ってなどいません」
「え?」
「光世様は、貴女が凄い人だと言っている宵様に頼られていますよ」
清華の潤んだ瞳には光世が映っている。
「確かに、兵法では光世様は宵様に敵わないのかもしれません。それでも、宵様が光世様を頼りにしているのは何故だと思います? 貴女が
「……私が……私だから?」
「そうです。宵様は兵法の天才ですが、この戦乱の世界で軍に所属するにはあまりにも優し過ぎます。お人好しで優柔不断でナヨナヨしてて臆病者です」
「あ……うん」
「でも、そんな弱い宵様が、最も信頼を寄せているのが光世様です。宵様は弱虫ですが、人を見る目は確かです。光世様は宵様に足りない部分を補ってくれる。元の世界でもきっとそうだったのでしょう。宵様が光世様にお仕事を任せたという事は、それが光世様に出来るからです。むしろ、光世様にしか出来ないのだと、私は思います。でなければ、こんな重要な任務を貴女に任せたりしません」
光世は俯きながらサイドの茶色の髪を撫でる。
「それに、先程『自分に変えられるなら、とっくに誰かが変えてる』と仰いましたが、そもそも、この国の人達は国を変えようとも思わなかったんです。国を変えようと思えたのは朧軍にいた光世様がいたから。朧軍の方々の想いを聞いていたから。宵様が敵を朧国ではなく、董炎だと思えたのは光世様がいたから。この革命的な考えをもたらした光世様が何を弱気な事を仰るのですか。
清華の話を黙って聞いていた光世はコクリと頷く。閻の為に散っていった恩人達を想うと、何もしないうちから弱気になっていたのが馬鹿らしく思えた。
「清華ちゃん、ありがとう。そうだった。私、泣き言なんて言ってる場合じゃなかった。徐畢将軍や陸秀将軍の為にも閻帝国を変えなくちゃいけないよね。あの宵が私に出来ると期待してくれてるんだから、頑張らなきゃ!」
「そうですよ! 頑張ってください!」
元気を取り戻した光世に清華は笑顔を見せた。
「あ……でもねー。いまだにどうしたらいいのか、策が浮かばないんだよね。今、朝廷の役人達の資料見てるんだけど、資料だけだと董炎の子供達が高官になって家族経営みたいになってる……って事くらいしか分からないし……」
「なら、あたしが朝廷に潜入して情報を集めてきますよ」
不意に口走った清華の提案に、光世は持っていた湯呑みを慌てて卓に置いた。勢い余って中の茶が湯呑みから僅かに溢れ卓を濡らす。
「え!? ちょ、私そんなつもりで言ったんじゃ……」
「あたしが勝手に言い出した事です。実はあたし、宵様に洪州への間諜として志願していたんです」
「え!? そうなの??」
光世の動揺とは対照的に、清華は冷静に卓に溢れた茶を懐から取り出した麻布で拭く。
「はい。ですが、朧軍にはあたしとの顔見知りがいるという理由で却下されました」
「そりゃそうだよ。
「何故ですか? あたしがほとんど情報を持ち帰れない無能な間諜だったからですか?」
清華は間諜として無能ではない。あの時は自分がいたから、たまたま清華に目を付けたから上手く仕事が出来なかったのだと、光世は思った。
だが、光世が怪しんでからというもの、結局清華はボロを出さなかった。それどころか、光世と宵の繋がりに気付き、敢えて正体をばらす事で光世と宵を繋いでくれた。無能どころか、有能過ぎる間諜だった。
「違うよ。貴女は私と宵の妹も同然だからだよ。身内を危険な目に遭わせられない」
「あたしは、お2人のお役に立ちたいです。大丈夫ですよ、朝廷には光世様みたいな勘の鋭い人間はいません。あたしを間諜だと疑う事なんて出来ません」
光世は首を横に振る。
「でも……朝廷には董炎がいるんだよ? 董炎はきっと有能だよ? 清華ちゃんが間諜だと見破ったら多分……殺されるよ?」
「大丈夫です。怪しまれそうになったらまた……ただの痴女を装います」
「……私が見てた事気付いてたの?」
「はい。あたしが朧軍に潜入していた時、光世様は毎晩1人になったあたしを追って来るから、毎回演技しなきゃいけなかったので大変でしたよ。そういう気分でない時も痴女を装って……お外で1人でする女を演じました」
恥ずかしそう話す清華を見て、光世は眉をひそめた。
確かに、清華の危機察知能力は高そうだ。自分が疑われてると悟れば機転を効かせて切り抜ける。その手段がどうであれ、敵に情報を漏らさず、生きて本国に帰還する。それは間諜に求められる必須スキルである。
「そっか、でも、演技じゃないでしょ? 情報は漏らさないけど喘ぎ声は漏らしてたじゃん。いつも本気で──」
「そういう光世様だって、私がしてるのをおかずに──」
「言うなー!! って、してないわー!!」
顔を真っ赤にした光世は慌てて立ち上がる。
「じゃあ間諜やらせてください!」
「ふざけ……どんな交換条件なのよ!」
「宵様にバラしますよ??」
「いいよ?? 別に?? 清華ちゃんが危険な目に遭うよりはマシ!!」
「……むむ〜!」
清華は頬を膨らませ納得のいかない様子で光世を睨み付ける。
光世としても妹のような清華を、董炎のお膝元である閻朝廷に潜り込ませたくはない。宵が洪州へ行きたいと言った清華の申し出を断ったのも真っ当な判断だ。
「私からも許可は出せません。気持ちは嬉しいけど、清華ちゃんを失う可能性がある事は絶対させない。貴女は私達のそばにいて」
「……分かりました」
案外あっさりと清華は引いた。光世はあまりの呆気なさに目を
「……あの、あまり遅くならないうちにお休みになってくださいね」
「分かってるよ。清華ちゃん、おやすみ」
光世が手を振ると、清華は一礼して部屋を出ていった。
その後ろ姿を見届けると、光世はまた竹簡に目を落とした。
♢
翌朝。
光世は兵士の男に起こされ、宵の部屋に来るように告げられた。
結局光世は卓に突っ伏したまま眠ってしまっていた。寝ぼけ
「光世先生。軍師殿には至急先生を連れて来るように命じられております。洗顔は後にして頂けませぬか?」
もたもたしている光世に兵士は困り顔で言う。
「えー? 顔も洗わず外を歩き回れって? そんな急用なの? 分かりました」
手櫛で髪を梳かしながら、光世は兵士と共に宵の部屋へと向かった。
♢
宵の部屋。そこには宵がただ1人、深刻そうな顔で1枚の絹の切れ端を凝視していた。宵も髪には寝癖がついたままで、服も寝衣のままだ。
自分の部屋にいなかった清華は、てっきり宵の部屋にいると思っていたがその姿はない。
案内してくれた兵士はすぐに退出した。
「宵、どうしたの?」
光世が声を掛けると、ようやく宵は光世の存在に気付いた。
「光世、清華ちゃんと昨日何か話した?」
「え? いや、別に」
話はしたが、宵には話せないような泣き言や恥ずかしい話だったので、光世は
「これ読んで」
席を立ち光世のところへやって来た宵は先程まで凝視していた絹の切れ端を渡した。
悲しそうな目で宵は光世を見つめてくる。
まさかと思い、光世はすぐにその絹の切れ端を見た。
『宵様。光世様。突然おそばを離れる事をお許しください。あたしはお仕事の為、
文章を読み終えた光世は手を震わせ宵を見る。
「駄目だって言ったんだよ!? 私、危険だから絶対駄目だって……」
「やっぱり、話してたんだ……」
宵はため息をついて光世から目を逸らした。
「私のせいだ、ごめん。私が朝廷の情報が分からないなんて言ったから」
「光世のせいじゃないよ。この手紙は私の枕元に置いてあったの。深夜には出発してしまったみたい……」
「連れ戻そう、朝廷に潜り込むなんて」
「いや、考えたんだけど、私は清華ちゃんの覚悟を尊重しようと思う」
「え!? 宵らしくないじゃん?? どうしたの??」
動揺する光世を横目に、宵は覚悟を決めたような落ち着いた様子で話し始めた。
「あの子は馬鹿じゃない。全て覚悟の上で出て行ったんだよ。私が洪州の間諜を断った理由を受け、朝廷への潜入なら、その心配がないと理解した。それに、私達に相談したら必ず止められる事も理解しながら、情報は1日でも早く必要な事も理解して深夜のうちに手紙だけ残し出発した」
「だからって……あの子は私にとっても、宵にとっても妹みたいに大切な子じゃないの?」
「だからこそ、私はあの子の覚悟を尊重するの」
「……宵」
「この件はすでに
「そう……」
宵の瞳は涙でキラキラと光っていた。きっと本当は光世と同じで清華の事が死ぬ程心配なのだ。しかし、その気持ちを何とか押し殺し、清華の覚悟を受け入れ、清華が安全に任務遂行出来るように動く事にした。
やはり、宵は光世の知る弱い宵ではなく、私情を抑えられる指揮官であり軍師へと成長していた。
光世は宵に拱手した。
突然の行動に驚いた目を丸くした宵は光世を見つめる。
「私は、軍師殿に従います。清華ちゃんの持って来てくれる情報をもとに、必ず、必ず董炎を失脚させる策を見付けます!」
ポロリと、光世の目尻から一筋の涙が零れ落ちた。
宵は微笑み、光世の拱手した両手を優しく握る。
「大丈夫。絶対、上手くいくよ」
光世は親友を抱き締めた。
強くなった宵。自分が宵を支える存在なのに、宵に支えられているではないか。それではいけない。宵が成長しているなら自分も同じくらい成長しなければ宵を支えられない。
清華も頑張っている。私も──
「うん! 上手くいく! 上手くいかせて見せる!」
光世の心から迷いは消えた。
微笑んでいた宵の瞳からも涙が零れた。
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