第116話 退却

 朧軍ろうぐん1万が椻夏えんかの東の山道に向かっているという報せは姜美きょうめい率いる山道の防衛軍にも届いた。

 朧軍はもう葛州に入っており、僅か20里 (約8km)の位置まで進軍して来ているという。


 姜美は、かさを被りみのを纏った騎兵部隊を道の真ん中に整列させた。その数僅か2千。ただ、この2千の騎兵は姜美が直々に調練した精鋭部隊である。例え敵が5倍といえど、敵が完全に山を登る前に逆落さかおとしの如く攻め掛かれば寡兵でも負けないだろう。

 だが、軍師・宵の指示は逆落としで敵を打破る事ではない。山道の両脇の森に潜ませている10部隊に分けた3千の伏兵での十面埋伏の計。姜美が後退しながらその伏兵達が次々と敵に襲い掛かれば、必ず朧軍を混乱させ包囲する事が出来るというものだ。

 逆落としで敵兵を殺してしまった方が早いのだが、宵は敵だとしても殺す事を嫌い生け捕りを命じた。

 姜美は宵の言う事に背くつもりはない。宵がやれと言うから従うまでだ。これまでも宵の計略は成功している。景庸関けいようかんの火攻めが良い例だ。兵法の専門家の言う事は聞くべきである。ましてや相手が宵の友人の軍師と閻仙えんせん楊良ようりょうなのだから、兵法を知らぬ自分がでしゃばるべきではない、と姜美は思った。


 雨は1日たりとも止む事はなく、呆れるくらいに降り続いている。

 身体が冷え、兵達の士気も決して高いとは言えない。それだけが、姜美にとって不安要素だった。


 ふと、姜美は異変に気付いた。地面が揺れている。

 音は雨音で掻き消されているが、微かに地響きを感じた。


「来るぞ!」


 姜美の声に背後の騎兵部隊は武器を構えた。


 斜面の先へと目を凝らす。

 全神経を一点に。


 すると、地平線から騎兵が単騎で現れた。

 姜美は槍を掲げようとしたが、その騎兵が閻軍の兵だと分かるとすぐに槍を下ろした。


姜将軍きょうしょうぐん! 報告いたします!」


 それは斥候に放っていた兵だった。


「どうしました?」


「1万の朧軍が、麓で軍を3つに分けました。1つは麓に留まり陣を敷いています! 数はおよそ5千! 残りの2つは東西に分かれて北上した模様!」


「軍を分けた!? 東西に!? ここ以外、道などないはず……」


 予想外の動きに姜美は急に恐怖に襲われた。

 宵からはこの場合の対処法を聞いていない。恐らく宵でさえ想定していない事態なのではなかろうか。

 朧軍の北上を阻止する事が出来なければどうなる?

 ここを抜かれれば最初にあるのは麒麟砦きりんさいよい光世みつよと3千の兵しかいない。


「姜将軍、どうされます!?」


 隣の部曲将ぶきょくしよう典瓊てんけいが訊く。

 判断を下せるのは自分しかいない。この道を通らずに北上するとなると、恐らくこの山の森の中の道なき道を通るという事。


「もしかして……」


 姜美が朧軍の狙いに目星をつけたその時。

 朧軍側の山の麓の方から太鼓の音が鳴り出した。


 ドン、ドン、ドンドンドン!

 ドン、ドン、ドンドンドン!


 その音は朧軍の指揮を上げると同時に、こちらの動揺を誘う恐ろしい音に聴こえた。

 太鼓の音は確実に姜美の軍を動揺させた。

 兵達がざわつき始めた。

 斥候の騎兵の馬も落ち着かない様子でその場でクルクルと回っている。


 宵がいればどんな判断を下すだろう。


「……軍師殿……」


 宵の身になって考えても、兵法の知識のない姜美には何も案は出ない。


 太鼓の音は同じ大きさ、同じ律動リズムで鳴り響く。


 ドン、ドン、ドンドンドン!

 ドン、ドン、ドンドンドン!


 ザワつく兵達。

 不味い状況という事だけは姜美にも分かる。


「退却……退却します! 各伏兵部隊にも伝令! 山を下り、麓から10里 (約4km)の場所に陣を敷き防衛線を張ります!」


 姜美は退却を選んだ。万が一作戦が上手くいかない時はそうするようにと宵から指示を受けている。まだ作戦が上手くいっていないわけではないが、姜美にはその指示に従うしかなかった。

 斥候の騎兵は「退却せよ!」と叫びながら姜美の軍の後方へと向かった。

 典瓊てんけいも他の兵達に退却を指示している。

 悔しい。情けない。怖い。様々な感情が交差する中、姜美はとにかく軍を纏め、迅速に退却を開始させた。

 後方からは太鼓の音が恐怖を煽ってくる。

 景庸関で徐畢じょひつと戦った時を思い出した。あの時は死ぬ覚悟が出来ていたから襲い来る炎も、槍も何も怖くなかった。

 しかし、今は違う。徐畢に想いを託された。光世を護り、閻の民を救うようにと。故に死ぬ事は出来ない。光世を宵と会わせて一緒にする事は出来たが、閻の民を救うにはまだかなりの道のりがある。ここで自分が死ねば、この志は潰える。宵も光世も危険な目に遭うかもしれない。


「退却! 退却! 麓まで退却せよ!」


 太鼓と雨の音に負けない大声で姜美は叫び続けた。先頭は部曲将や伯長はくちょう達に任せ、自分は殿しんがりを務めた。


 だがその時、何故か左右の森の中から喊声かんせいが聞こえてきた。

 姜美はギョッとした。瞬時にその喊声の正体を見抜いた。東西に分かれ北上して来た朧軍が森に隠れていた伏兵部隊を強襲したのだ。

 つまり、伏兵は初めから朧軍に勘づかれてていたという事だ。


「おのれ……!」


 伏兵部隊を放ってはおけない。

 自分達だけ帰還など出来るはずがない。

 左右にはそれぞれ鄧平とうへい田燦でんさんを配置している。2人に他の伏兵部隊の校尉達の統率も任せている。2人なら上手く切り抜けてくれるだろうが、奇襲された伏兵部隊は本来の力を発揮できない。救援に向かわなければならないが、姜美の身体は1つしかない。左右どちらか一方しか救援に行けない。


典瓊てんけい! 貴方は騎兵千を率い左側の鄧平の部隊の救援に向かいなさい! 私は田燦を助けに向かいます!」


「御意!」


 そばにいた部曲将の典瓊てんけいに鄧平達の救援を任せると、姜美は道の脇の森の中へと馬で飛び込んで行った。騎兵部隊がそれに続く。

 敵の奇襲部隊は1万の半分、それを更に半分に分けただろうから2千5百。ちょうど姜美と片側に伏していた田燦達の部隊の兵力と互角。ただ、奇襲を受けたこちら側の方が圧倒的に不利である事には変わりない。

 森に入ってすぐに、歩兵同士が戦闘しているのが見えた。

 姜美は槍を構え馬の腹を蹴った。


「加勢する! はぁ!」


 女であっても決してか弱くない号令と勇敢なその突撃は、後方から従ってくる部下達に勇気を与え、恐れる事なく森の中の朧軍を突き崩した。


「田燦! 田燦は無事か!?」


 真っ先に探したのは田燦。槍を振り回しながら朧兵を蹴散らし、田燦の姿を探す。


「姜将軍! 私は無事です! 加勢感謝いたします!」


 視界の端で戟を振り回して応戦していた馬上の田燦が応えたので姜美はほっと胸をなで下ろした。


「よし! 田燦! 兵を纏めたら退却し──」


 言いかけた姜美だったが、突如胸に激痛を感じ言葉を止める。

 激しく動いたせいで徐畢に受けた傷口がまた開いてしまったようだ。

 異変に気付いた田燦は真っ先に姜美のもとへ駆け付け周りの朧兵を薙ぎ払った。


「姜将軍! 傷口が痛むのですか??」


「大した事はありません。それより、早く退却しなさい! 殿軍は私が……」


「いえ、殿軍はこの田燦が引き受けます! 誰か! 姜将軍をお連れしろ! 退却だ!」


 田燦の大声に反応した1騎の騎兵が、胸の痛みに顔を歪めた姜美の馬の手綱を曳いて森の外へと退却を始めた。


「何をしている! 私は平気だ! 田燦! おい、田燦!」


 姜美の声が届いたのか分からないが、田燦は振り向く事はなく、朧兵を何人も斬り倒していた。


「田燦! 田燦!」


 大声で叫ぶと胸の傷口からさらに血が滲んでくる感じがしたが、構わず田燦の名を呼び続けた。

 姜美の馬を曳いて森を出た兵士は、そのまま山道を麒麟砦方面へと引き返して行った。

 後ろからは数十騎の騎兵と、何百もの歩兵が一緒に退却して来ていた。

 田燦の姿はない。


「姜将軍!」


 声を掛けてきたのは、突然横の森の中から飛び出して来た鄧平だった。


「鄧平! 無事でしたか、良かった! すみません、私は田燦を助けに戻ります。この兵達と共に退却してください」


 しかし、鄧平はちらりと後方の様子を見ると、また姜美へと視線を戻した。


「なりません。田燦が上手く朧軍を食い止めています。我々はこの隙に退きましょう。田燦の覚悟を無駄にしてはなりません」


「指揮官は私です! 私の命令が聞けないのですか!? 鄧平!」


「あなたに死なれては困る者が大勢います。軍師殿も、費叡ひえい将軍も」


 そう言った鄧平は、姜美の馬の手綱を曳いていた兵から手綱を譲り受けると、さらに速度を上げ山道を駆け下りていった。

 右手で胸の出血を押さえている姜美には、もう鄧平が曳く自分の馬の進路を自分の意思で変える事など出来ない。


「田燦……」


 姜美は馬上で何も出来ない悔しさに拳を握り締め、唇を噛み締めた。

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