第110話 地図と碁石

 宵が白い羽扇うせんを床に広げてある地図へと伸ばすと、その羽根の先に将校達の視線が集まる。


洪州こうしゅうから葛州かっしゅうを攻めるには、確かに椻夏えんかを落とした方が早いです。地図を見れば誰もがそう思うでしょう。ですが、朧軍ろうぐんは私達の予想の裏をかき、椻夏へは城攻めに見せ掛けた囮の軍を送り、手薄である椻夏の東の山道を密かに迂回する。と、私は思います」


「まさか。この大雨の中、悪路である山道を通るような危険を冒すでしょうか?」


 田燦でんさんは目を丸くして言う。

 この男は、姜美きょうめいと共に景庸関けいようかん奪還に出陣し、負傷した姜美を連れ帰った勇将だ。戦を知る田燦の指摘は正しい。

 本来は副官に留まる器ではないが、姜美を慕って副官の座から離れようとしない忠誠心の塊のような男だ。


「一般的に、朧軍は雨季の山道の行軍は避け、平地の椻夏を攻めると考える。そうなれば、私達閻軍えんぐんは椻夏のみに兵を集中させ、城を守りきるという一択になります。葛州全軍の目も椻夏にだけ向きます。敵も味方も戦場は椻夏だけだと思う」


「ええ……それが当然です……」


 自信なさげに答えた田燦の視線を宵は見逃さなかった。


「でも田燦殿。今私の話を聞いて、“もし朧軍が山道を通って椻夏の背後に回ったら”と、想像しましたね?」


 田燦は小さく頷く。


「はい。もしも、軍師殿の言うような事があれば、我々はすぐに対処出来ません。椻夏の背後に回られたら葛州は混乱するでしょう。ましてや、今は椻夏に李聞りぶん殿の軍も駐留して洪州を警戒しています。背後など気にはしておられぬでしょう」


「その通りです。不測の事態を起こして敵を混乱させる。それが兵法です。軍師を手にした朧軍が、正攻法のみで戦うはずがない」


「……なるほど」


「以上の事から、朧軍は椻夏に大軍を向け、私達が椻夏を守っている隙に山道を迂回し椻夏の背後を取り、北と南から挟撃して来る可能性が高いと考えます。洪州と葛州の交通の要衝である椻夏を放っておくはずありませんから」


「なるほど」と、姜美も頷く。


「さすがは軍師殿。見事に敵の動きの裏を読んでおられる。しからば、椻夏の東の山道に我が軍が赴き、朧軍の北上を食い止めましょうか」


 姜美はどこからともなく指揮棒を取り出すと、地図上の椻夏の東の山道を指した。


「そうですね。朧軍の本隊が椻夏の東の山道へ動いてもいいように、この道には姜美将軍に2千の兵を率いて布陣てもらいましょう」


「2千? たった2千ですか? この山道は、敵の本隊が来るのではないのですか?」


「確かに、朧軍の本隊は、この山道を通るつもりでしょうが、初めから数万の軍が道を塞いでいたら通るのを諦めてしまいます」


「諦めてくれればこちらとしても好都合なのでは?」


「山道を通らなければ、朧軍は別の策を講じて椻夏を落としに掛かるでしょう。そうされると、こちらとしては少し面倒なのです。どうせ討つなら、この山道という狭隘きょうあいな地形を利用した方が遥かに有利です。『いにしえ所謂いわゆるく戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり』です」


「……軍師殿の仰る事が分かりません……」


 姜美が腕を組んでシュンとして言うと、田燦も鄧平とうへいも首を横に振った。


「つまり、宵が言いたい事は」


 黙って話を聞いていた光世は床に両膝をつけると、右耳に髪を掛け、地図の上で両手を突いた。

 そして部屋の入口に控えていた兵士に碁笥ごけを用意させると中から黒の碁石を2つ、白の碁石を1つ取り出し、椻夏と山道に黒石を置き、洪州に白石を置いた。


「例えば、最初から椻夏の東の山道を大軍で固めてしまうと、朧軍がこの道を進軍するという選択肢がなくなります。この雨の中、隘路あいろに既に布陣している大軍相手に攻撃を仕掛けるのは兵法では愚策中の愚策です」


 光世が解説する横で、宵は羽扇を胸の前で握り、自信に満ちた顔でスっと息を吸い込む。


「『隘形あいけいにては、我ずこれに居り、必ずこれをたしもって敵を待つ。し敵ずこれに居り、てば従うなかれ、たざればこれに従う』」


「……などと宵は小難しい事を言っていますが、つまり、朧軍に軍師がいるなら絶対この道を通りません。なら、次はどうするか、鄧平殿」


 光世は宵の呪文の詠唱のような孫子の暗唱をスルーして、白石を人差し指でちょんちょんと叩いて鄧平を見つめる。


「椻夏の城を正面から全軍で攻撃します!」


「そうです鄧平殿! 城を全力で攻めてきますね。そうなると、城への被害が出るのはもちろん、長引けば朧軍は、私達の仲を割く“離間りかんの計”を仕掛けたり、間諜を使って内から開城させるという計略を仕込んで来るかもしれません。そうなって来るといよいよ厄介ですよね? だから宵は、城から離れた山道でこちらに有利な戦いが出来るなら、朧軍本隊をそこで倒してしまおうと言っているのです」


「しかし……」


 不安そうな視線を姜美が光世に向ける。


「2千では心許こころもとない。我々は5千も動かせるのだから全軍で山道に布陣した方が良くないでしょうか? ……万が一、1万、2万という大軍が押し寄せて来たらどうするのですか? 2千ではいくら私でも勝ち目はありません……」


「よいしょ」


 姜美が混乱しているその隣で、宵は碁笥ごけから黒石を掴み、既に置かれている山道の黒石の脇にパチンと置いた。


「だから、伏兵を置きます」


「伏兵……ですか、なるほど。初めからそれが狙いだったのですね! それなら得心がい……」


 宵は姜美が話している横で、次から次へと黒い碁石を置きまくる。

 その数、10個。


「敵の本隊はきっと有能な将軍がいるでしょう。もしかしたら、朧軍の軍師も。もしそうなら、全員生け捕りにしたい。“十面埋伏じゅうめんまいふくの計で”」


 自信満々の策に、宵の満面の笑みが溢れ出した。

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