第110話 地図と碁石
宵が白い
「
「まさか。この大雨の中、悪路である山道を通るような危険を冒すでしょうか?」
この男は、
本来は副官に留まる器ではないが、姜美を慕って副官の座から離れようとしない忠誠心の塊のような男だ。
「一般的に、朧軍は雨季の山道の行軍は避け、平地の椻夏を攻めると考える。そうなれば、私達
「ええ……それが当然です……」
自信なさげに答えた田燦の視線を宵は見逃さなかった。
「でも田燦殿。今私の話を聞いて、“もし朧軍が山道を通って椻夏の背後に回ったら”と、想像しましたね?」
田燦は小さく頷く。
「はい。もしも、軍師殿の言うような事があれば、我々はすぐに対処出来ません。椻夏の背後に回られたら葛州は混乱するでしょう。ましてや、今は椻夏に
「その通りです。不測の事態を起こして敵を混乱させる。それが兵法です。軍師を手にした朧軍が、正攻法のみで戦うはずがない」
「……なるほど」
「以上の事から、朧軍は椻夏に大軍を向け、私達が椻夏を守っている隙に山道を迂回し椻夏の背後を取り、北と南から挟撃して来る可能性が高いと考えます。洪州と葛州の交通の要衝である椻夏を放っておくはずありませんから」
「なるほど」と、姜美も頷く。
「さすがは軍師殿。見事に敵の動きの裏を読んでおられる。
姜美はどこからともなく指揮棒を取り出すと、地図上の椻夏の東の山道を指した。
「そうですね。朧軍の本隊が椻夏の東の山道へ動いてもいいように、この道には姜美将軍に2千の兵を率いて布陣てもらいましょう」
「2千? たった2千ですか? この山道は、敵の本隊が来るのではないのですか?」
「確かに、朧軍の本隊は、この山道を通るつもりでしょうが、初めから数万の軍が道を塞いでいたら通るのを諦めてしまいます」
「諦めてくれればこちらとしても好都合なのでは?」
「山道を通らなければ、朧軍は別の策を講じて椻夏を落としに掛かるでしょう。そうされると、こちらとしては少し面倒なのです。どうせ討つなら、この山道という
「……軍師殿の仰る事が分かりません……」
姜美が腕を組んでシュンとして言うと、田燦も
「つまり、宵が言いたい事は」
黙って話を聞いていた光世は床に両膝をつけると、右耳に髪を掛け、地図の上で両手を突いた。
そして部屋の入口に控えていた兵士に
「例えば、最初から椻夏の東の山道を大軍で固めてしまうと、朧軍がこの道を進軍するという選択肢がなくなります。この雨の中、
光世が解説する横で、宵は羽扇を胸の前で握り、自信に満ちた顔でスっと息を吸い込む。
「『
「……などと宵は小難しい事を言っていますが、つまり、朧軍に軍師がいるなら絶対この道を通りません。なら、次はどうするか、鄧平殿」
光世は宵の呪文の詠唱のような孫子の暗唱をスルーして、白石を人差し指でちょんちょんと叩いて鄧平を見つめる。
「椻夏の城を正面から全軍で攻撃します!」
「そうです鄧平殿! 城を全力で攻めてきますね。そうなると、城への被害が出るのはもちろん、長引けば朧軍は、私達の仲を割く“
「しかし……」
不安そうな視線を姜美が光世に向ける。
「2千では
「よいしょ」
姜美が混乱しているその隣で、宵は
「だから、伏兵を置きます」
「伏兵……ですか、なるほど。初めからそれが狙いだったのですね! それなら得心がい……」
宵は姜美が話している横で、次から次へと黒い碁石を置きまくる。
その数、10個。
「敵の本隊はきっと有能な将軍がいるでしょう。もしかしたら、朧軍の軍師も。もしそうなら、全員生け捕りにしたい。“
自信満々の策に、宵の満面の笑みが溢れ出した。
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