第7章 洪州奪還戦

第109話 将軍

 雨音をかき消すかのように、優雅な琴の音色が響いていた。

 それは宵の白く細い指から奏でられている。

 1音ずつ、とてもゆっくりではあるが、その指はしっかりと曲を奏でている。宵達の世界の曲ではなく、閻帝国えんていこくの曲。そう、義姉の劉飛麗りゅうひれいから教わった曲である。

 考えがまとまらない時、モヤモヤする時、宵は琴を弾くようにしていた。この琴の音色はとても心を穏やかにしてくれる。心がスッキリとする。まるで魔法のような音色。

 昨夜見た不思議な夢の事はハッキリと覚えている。もしかしたらこの世界と元の世界では夢の中で繋がれるのかもしれない。そういう仮説を考え出したが、だからと言って何かが出来るわけではない。そんな事を考え始めると、今度は貴船桜史きふねおうし並びに洪州こうしゅう奪還の為の策がまとまらなくなる。

 宵は部屋で1人、平静を取り戻す為、琴の演奏を続けた。


「軍師殿。鄧平とうへいです」


 部屋に訪ねて来たのは副官の鄧平だった。

 鎧兜を纏った鄧平は気持ちの良い笑顔で宵を見ていた。


「どうしましたか?」


 気持ちの良い笑顔ではあるが、宵は鄧平があまり好きではないので、すぐに目を逸らし、琴の演奏を続けた。

 時折、鄧平は宵の部屋にやって来ては宵の容姿を褒めちぎり、食事や夜の散歩などに誘ってくる。もちろん、全て断り続けているのだがそれでも鄧平は諦めずにやって来る。自分を好いてくれているのだからあまり酷い扱いをするのも不憫なので、鄧平の上官である姜美きょうめいには相談していない。相談したらきっと何かしらの罰が与えられるだろう。

 鄧平の行為を光世みつよ清華せいかにも話した事はない。そもそも、鄧平は宵が1人きりの時にしか口説いてはこない。光世や清華に見付かれば邪魔して来る事を理解しているのだろう。


「あまりに美しい琴の音色につられてやって来てしまいました。今日も相変わらずお美しいですね、軍師殿」


「ありがとうございます。褒めてくれるのは嬉しいですが、何度頼まれても2人きりで食事も散歩も致しませんよ」


「はぁ……そんなつれない事を。ま、私は何度振られても諦めませんがね」


「……用がないなら下がってください」


「いえ、今日は用があります。先程、洪州こうしゅうに放っていた間諜から報告がありました。共有するので広間に集まるようにと、姜美殿が」


「え!? 何でそれを早く言わないのですか?? 私を口説いている場合ではないでしょう??」


 宵は琴の弦から手を引くと、慌てて羽扇を手に取って立ち上がった。


「軍師殿を口説くのは私の日課なので」


 悪びれる様子もなく鄧平はふざけた事を口にする。


「もお! いい加減にしないと怒りますよ!」


「怒ったお顔もお声も可愛いので問題ありません!」


 いくら宵が叱責しても効果がない。さすがに姜美に言いつけてやろうか。

 宵はプンプン怒りながら、大柄な鄧平を引き連れて広間へと向かった。



 ♢


 広間にはすでに姜美、光世、田燦でんさんの3名が椅子に腰を下ろしていた。


「遅れてすみません」


 宵が申し訳なさそうに頭を下げて席に着くと、鄧平は宵の隣の席に腰を下ろした。

 宵の向かいに光世。鄧平の向かいに田燦。そして宵の右手側の上座に姜美が座る。


「副官なんて連れちゃって〜宵、益々偉い人に見えるねぇ」


「偉くないよぉ、別に」


 人の気も知らないで光世は宵と鄧平が2人で現れた事を茶化す。宵はムッとしたが、鄧平は嬉しそうにニヤけている。


「さて、皆集まったところで、間諜からの報告を共有し、今後の作戦について話し合いたいと思います……が、その前に、先程陛下からのみことのりがありましたので改めて報告しておきます」


「え? 詔?」


 琴の演奏に夢中になっていた宵は朝廷から使者が来た事にまるで気が付かなかった。


「はい。光世殿が新たに“軍師校尉ぐんしこうい”の位を拝命致しました」


 姜美の発表に光世はぺこりと会釈をした。


「凄い! まだろうから来て間もないのに、もう朝廷は光世を認めてくれたんですか! おめでとう、光世!」


「いやぁ、ありがとう。これは益々頑張らなくちゃね〜、色々と」


 宵はまるで自分の事のように、親友の昇進を喜び、光世はその賛辞に嬉しそうに微笑む。


「そして、私は……“鎮東将軍ちんとうしょうぐん”を拝命しました」


「おお! 姜美殿も……え? しょうぐん?? え!!?」


「「「おめでとうございます! 姜美将軍!!」」」


 宵は驚きのあまり動揺していると、光世と鄧平、田燦が拱手して祝辞を述べた。

 さらにそれに同調するかのように、広間の内外に控えていた衛兵達が一斉に整列。姜美に向かって拱手する。


「「「姜美将軍! おめでとうございます!!」」」


 広間を揺るがす程の大声で、姜美の将軍昇進を祝った。


「ありがとう。みんな……ありが……」


 姜美の言葉が詰まる。皆から祝辞を受けた事により、抑えていた嬉しさが涙となって瞳から零れ落ちた。涙を流す姜美を、宵は初めて目の当たりにした。


「姜美将軍・・、おめでとうございます。悲願の将軍位ですね! しかも、いきなり鎮東将軍だなんて」


 鎮東将軍。その地位は古代中国史にも登場する実在の将軍位である。三国志でもその地位は登場しており、例えば、蜀の五虎将軍ごこしょうぐんで有名な趙雲ちょううんが任命された事がある。数多くある将軍位の中でも上位に位置する四鎮将軍しちんしょうぐんの内の一角。方面軍防衛司令官と言った位置付けだ。言わずもがな、大出世である。


景庸関けいようかんを奪還した功績を、朝廷が評価してくださったようです。しかし、あの功績は私1人の力ではありません。軍師殿の策、命懸けで朧軍ろうぐんに潜入してくれた間諜、そして将兵皆の力があってこその勝利。私は、皆に感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとう」


 姜美は袖で涙を拭いながら言った。

 感極まった姜美の顔を見ていると、宵の目からも涙がポロリと零れた。将軍になる為の努力を積み重ね、その努力が実った瞬間。元の世界では、本気で何かを頑張った記憶のない宵には、姜美の姿があまりに輝かしく見えた。


「さあ! この話は終わりです! 早速、間諜の手に入れた情報を話します」


 スっと切り替えた姜美の言葉に、田燦は集まっていた兵達を解散させた。

 再び部屋には5人だけになった。


「洪州に入った間諜の報告によれば、朧軍はこの長雨の為に攻撃を延期するつもりはないようで、着々と武器兵糧を整え、頻繁に軍議を行っているとの事」


「洪州は山地が少なく平地が多い。雨が降っていようと行軍には山越え程の致命的な影響は出ない。兵糧も洪州内では潤沢にありますからな。雨季が明けるのを待つ必要もない。むしろ、こちらが油断している今攻撃を仕掛けるのは、敵にとって上策かもしれませんな」


 姜美の報告に田燦が冷静な分析のもと補足する。


「では敵の狙いは、李聞りぶん殿のおられる椻夏えんかでしょう。椻夏を突破せねば、葛州南部の山道を越えなければ北上は出来ませんから」


 今度は宵の隣の鄧平が堂々と発言した。


「狙いは椻夏。それは間違いないでしょう。軍師殿。椻夏には太守の王礼おうれいの1万5千と李聞殿の3万の計4万5千しかいません。間諜の報告によれば、洪州には8万の元閻軍と、朧軍およそ6万が駐留しているようです。我々麒麟砦きりんさいの兵力5千が援軍に行ったところで到底適うとは思えません。何か良い策はありませんか?」


 縋るような目で姜美は宵を見つめる。

 宵は白い羽扇をパタパタと振って顔を扇ぐ。


「鄧平殿、地図を」


 宵が隣の鄧平に指示を出すと、鄧平はすぐさま部屋の隅に丸めてあった大きな地図を持って来て、部屋の中央の床に広げて置いた。


「ありがとうございます」


 宵はそう言って立ち上がり、地図のところへ行くとしゃがみ込んだ。

 姜美や光世、田燦に鄧平も一様に宵の元へと集まった。


 宵の羽扇が葛州の椻夏と洪州の各城をなぞる。そして今度は地図上の河をなぞると「ふむ」と言って立ち上がった。


「それでは、僭越ながら申し上げます」


 羽扇を持った手で、宵は恭しく拱手した。

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