第104話 生まれて初めて愛した人

「やあ……、久しぶり、鍾桂しょうけい君」


「お、おう……」


 鍾桂は言葉を失った。

 久しぶりに会った宵の姿は鍾桂の知る弱々しい宵とはあまりにもかけ離れていた。頭には紺色の綸巾かんきん。手には真っ白な羽根を束ねた羽扇。綺麗な桃色と薄い紫色の閻服えんふく。そして丸い窓から射し込んだ光が、まるで後光のようにその立派な姿を照らし出す。

 艶やかな黒髪と羽扇が宵の口元を隠し、どんな表情をしているのか読み取れないが、クリっとした綺麗な紫紺の瞳は時折光を反射してキラキラと光り、心做しか頬は紅潮しているように見えた。


 その天女のような美しさに心奪われていると、突然光世みつよが鍾桂の肩をポンと叩いた。


「それじゃあ宵、鍾桂君。ごゆっくり〜」


「ごゆっくり〜」


「え!? ちょっと! 何で出てっちゃうの!?」


 焦る宵を残し、光世と清華せいかはキャッキャしながらそそくさと部屋を出て行き扉を閉めてしまった。


 残された2人はただ黙って立ち尽くす。


 静寂。以前の2人ならこんな空気にはならなかった。どちらかというと鍾桂の方が鬱陶しいくらいに宵に話し掛けていた気がする。

 そして、何も気にすることなく宵に触り抱き締めた。


 だが、今はそれが出来ない。


「はは、なんか……恥ずかしいなぁ……なんか喋ってよ」


 あまりの気まずさに耐えかねて先に口を開いたのは宵だった。常に口元を隠しているがその表情は想像出来た。


「あ……えっと、ごめん、凄く綺麗で……その……可愛いから見とれてしまった」


「もう……! またそういうこと言う〜」


 その照れ隠しの宵の反応もまた、鍾桂には堪らない。すぐに次の言葉が出て来ない。

 宵の潤んだ紫紺の瞳が鍾桂の瞳を見つめた。そして恥じらいながらも口を開く。


「ありがと」


 生まれて初めてだった。鍾桂はこんなにも人を好きになった事はない。そもそも、女との出会いもなかった。母と小さな妹を養う為に幼い頃から朝な夕な働き、軍に入れる歳になると、安定した収入を得る為に迷わず入隊した。恋愛などしている暇はなかった。


 そんな時出会ったのが宵だった。

 黒い異国の衣装を纏った宵は、賊の間諜かんちょうと疑われ廖班りょうはんに捕らえられ、見て分かるほどに身体をビクビクと震わせていた。そして、生き残る為に兵法を使い、駆り出された戦場では、自分の兵法で人が死んでいく様を見せ付けられて失神。挙句、兵法はもう使わない、うちに帰りたいと泣く始末。


 そんな戦乱の世に向いていない、優し過ぎる宵は、いつしか正式に軍師となり、色々と良くしてくれた李聞りぶんの元を離れて今では別の軍で軍師として献策し、指揮を執り、景庸関けいようかんを奪還した。


 宵の成長は著しい。まだ宵がこの世界に来てから数ヶ月しか経っていない。なのにこれ程まで立派に成長したのは、きっと短期間にいくつもの試練を乗り越えたに違いない。兵法の知識は元々備わっていても、人間としての生きる力を手に入れるのは並大抵の努力では難しいはずだ。


 そんな頑張り屋の宵に、自分は惹かれたのだ。


「らしくないじゃん、鍾桂君が黙っちゃうなんて」


「いや、だって俺はもともと君には戦が終わるまでは会わないつもりだったから……心の準備が……」


 そう答えると、宵は近くの卓に羽扇を置き、卓上の小さな水瓶のなかから柄杓ひしゃくで水を掬って杯に入れ、それを鍾桂へと差し出した。


「お水」


「あ、ありがとう……あれだな。あの時と逆だな」


「お返しです」


 宵は白い歯を見せて微笑んだ。羽扇を置いたので、その眩しいくらいの可憐な笑顔が鍾桂の鼓動を高鳴らせる。

 渡された杯の冷たい水を一口飲むと、火照った身体が内側から冷やされ、少しだけ冷静さが戻って来た。


「ふぅ……」


 一息ついた鍾桂を見た宵は杯を回収して卓に置く。


「それじゃあさ、あの、1回座ったら? 立ち話もなんだしさ」


 目の前の椅子を勧められ、言われるがままに鍾桂は腰を下ろした。そして兜を脱ぎ卓に置く。

 すると宵は、もう1つあった客用の椅子をよいしょと持ち上げ、鍾桂の隣に運んで来てそこへちょこんと座った。2人並んで窓を向く形。

 僅かな沈黙を破り宵が口を開く。


「元気だった?」


「ああ、この通り元気。宵も元気そうで良かった」


「まあね。それにしても鍾桂君。身体、前よりおっきくなったよね? 腕も太くなった気がする」


 宵は鍾桂の身体と腕を興味深そうに見て言う。


「鍛えたからな。兵士として恥ずかしくないように。ところで、元の世界へ戻る方法は見付かった?」


「そう! それ! その話したかったの!」


 思い出したかのように、宵は声を大きくした。


「これ、この竹簡の文字がね、私が何かをする度に増えてって……」


 宵は帯に吊るした巾着袋から、祖父の竹簡を取り出し中を開いて見せた。それを見ながら、鍾桂は宵の説明に耳を傾けた。


 ♢


 あと1つ。目標を達成すれば文章が完成する。

 そして、完成した文章を音読すると元の世界へ転移出来る。


 宵の説明は鍾桂には信じ難い事だった。

 宵自身、それが本当かどうか分からないと言ったふうだったが、それ以外に帰還できる方法は思い浮かばないので信じるしかないらしい。


「とりあえず、帰る方法に見当がついて良かった」


 作り笑いを浮かべながら鍾桂は言う。心の底から喜ぶ事は出来なかった。それもそのはず。宵が元の世界へ帰るという事は、二度と会う事が出来ないという事なのだから。

 宵を愛し、自分のものにしたいと思うようになってしまった鍾桂にとっては複雑な事だった。


「寂しいの?」


 作り笑いを見破った宵が首を傾げて問う。


「あ、ごめん。宵が元の世界に帰れる事は喜ばしい事なのに……やっぱ寂しいよ」


「そっか……私もだよ」


「宵も?」


「そりゃそうだよ」


 そう言って宵はふふっと笑った。


「最初は捕虜と牢番の関係で君に縄で縛られて四六時中一緒に行動させられてたけど、今はこうしてちゃんとお友達。お友達に会えなくなっちゃうのは寂しいよ」


 宵はおもむろに鍾桂の身体へと自らの身体を預けた。

 肩に凭れる宵の小さな頭。艶のある黒髪。見ているだけで男の劣情を刺激し、そして追い打ちをかけるのは宵のかぐわしい香り。


「……友達……」


 鍾桂は呟いた。

 友達。

 そう、宵は友達・・なのだ。


「友達じゃ……嫌?」


 宵がポツリと問う。


「嫌なわけない……けど、俺は……」


 そっと、宵の肩に手を回した。

 宵は嫌がる様子もなく、鍾桂に身体を預けたまま。


「やっぱり君が好きだ。友達以上に……ずっと一緒にいたい」


「……」


「でも、正直、俺は分かってるんだ」


「え?」


 耳を澄まさないと聴こえないような小さな声で宵は聞き返す。その微かな声さえも美しい。

 鍾桂は大きく息を吐く。


「宵は俺とは一緒にならない。そういう選択をする。いや、するべきだ」


「え……?? どうして……そんなこと言うの?」


 あまりに突然の鍾桂の発言に、まったりしていた宵はさすがに顔を上げて鍾桂の顔色を窺う。


「君は別の世界に家族や友人がいる。だから、その世界で君は幸せになるべきだ。そして俺はこの世界の人間で、この世界に家族がいる。俺は宵の世界に行ってもいいと言ったけど……それはやっぱり駄目な気がする。家族を置いていく事は出来ないし、もちろん、宵がこっちに残るのも駄目だ」


「……」


 宵の悲しそうな顔を見た鍾桂はガリガリと頭を掻きむしる。


「そんな顔するなよ。住む世界が違うんだから、仕方ないよ」


「……何だろう……この気持ち」


「俺も同じだよ。悲しいっていうか、悔しいっていうか」


 そう言って鍾桂は立ち上がった。このまま宵と一緒に居ると益々離れられなくなりそうだ。


「頑張れよ、宵。俺は離れてしまうから力になれる事はないかもしれないけど、俺は宵を応援してる。この戦を終わらせて気持ち良くうちに帰りな。俺も頑張るから。じゃな」


 卓上の兜を脇に抱え、ニコリと微笑み鍾桂は宵を残して部屋を出ようと扉に手を掛けた。


「鍾桂君!」


 宵の声が、鍾桂を呼び止めた。

 扉に手を掛けたまま、宵へと顔を向ける。


「私は、閻帝国を皆が幸せに暮らせる国にする。鍾桂君が戦わなくてもいいように。鍾桂君のご家族も幸せになれるように」


「ありがとう。宵なら出来る」


 鍾桂は微笑んで軽く手を振り、そして部屋を出た。

 部屋の外には扉の両脇にピッタリと張り付いている光世と清華がいた。鍾桂と目が合うと2人は気まずそうに目逸らす。


「盗み聞きは良くないぞ」


 微かな笑みを浮かべた鍾桂はそう言うと、光世と清華にも手を振って別れを告げる。


「またね」


 光世が言ったが、鍾桂はもう振り向かなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る