第105話 宰相・董炎と宵の戦略報告書

 閻帝国えんていこくみやこ秦安しんあん


 宰相さいしょう董炎とうえんは、荘厳な佇まいの宮殿の一室にいた。

 指先には真雪のように白く美しい塩の粒。それを念入りに指先で擦る。粒の一つ一つを鋭い眼差しで確認すると、サラサラと麻袋に落とした。


「良い出来だ。せい。この品質を保て」


 麻袋を目の前の文官の女に返すと、女はニコリと微笑んだ。

 女の名は董星とうせい。彼女は董炎の三女である。腰まで長い髪の色素は完全に抜け真っ白。光の加減次第では綺麗な銀色にも見える。色素は抜けていても傷んでいるわけではなく、その髪は艶やがあり、美しさを失ってはいない。そんな美しい白銀の長髪を揺らし、董星は塩の入った麻袋をぎゅっと抱き締めた。

 董炎には1人の息子と5人の娘がいる。いずれの子も有能で、まだ幼い五女を除き全員が朝廷の役職に就いている。

 三女の董星はまだ28だが“大司農だいしのう”という重要な役職に就いている。


 大司農とは、租税の徴収、穀物、金属、織物等の管理、塩鉄えんてつの専売等を司る役職のトップで、九卿きゅうけいと呼ばれる9つの大臣職の内の1つである。国家財政に関わる役職である為、かなり大きな権限を持っている。


 董炎は閻帝国で生産される食糧の品質に強い拘りがあった。特に高値で取引される塩に関しては、毎日、董炎直々に品定めをする。その為、大司農だいしのうという国家プロジェクトに直結する農業を統括する部署のトップには身内を立て、その日出荷予定の塩を献上させるようにした。


 このように、董炎は息子、娘を重要な役職に就ける事で朝廷での権力を伸ばしてきた。

 それに加え、董炎自身の腹違いの歳の離れた妹が皇帝・蔡胤さいいんに嫁いだ事で、朝廷での董炎の権力は確固たるものとなったのだ。


「……!」


 この日の役目を終えた董星は、ただ微笑えみ、董炎に会釈をしただけでトコトコと部屋から出て行った。身内と言えど、挨拶の言葉も言わぬのは無礼な事であるが、董炎は何も言わなかった。それがいつもの事・・・・・だから。


 董炎は卓の上の盃の酒を喉を鳴らし、一息に飲み干した。そして空になった盃を丁寧に卓に戻すと椅子に深く座り直した。


孫晃そんこう入れ」


 董炎が呼ぶと、1人の初老の男が返事をし部屋に入って来た。


「孫晃が丞相に拝謁致します」


 部屋に入るやいなや、仰々しく孫晃は跪き、床に頭を付けて拝礼した。


 孫晃。閻帝国の太尉たいいであり、最高軍事責任者である大将軍・呂郭書りょかくしょとは同格。呂郭書が武官のトップであるのに対し、孫晃は文官のトップであり、呂郭書が出征中の朝廷の軍事関連業務を取り仕切る役割を担っている。


 董炎が顔を上げさせると、孫晃は手に持っていた竹簡を董炎へと差し出した。


葛州かっしゅう刺史・費叡ひえいの軍師、軍師中郎将ぐんしちゅうろうしょうの宵からの戦略報告書にございます」


「読め」


 董炎は竹簡を受け取らずに、椅子に深く座ったまま言った。

 孫晃は竹簡を開くと跪いた姿勢のまま内容をハッキリとした声で読み上げる。


「『朧国ろうこくの兵力は、閻帝国えんていこくより劣り、地の利も我らにある。故に、撃退は容易く見える。されど、実際のところ、朧兵の軍隊の機能は著しく閻兵のそれを上回り、各指揮官の能力も高く、数だけでは勝てる見込みはない。例え呂将軍の率いる80万の軍勢が加勢したとて勝てる見込みは五分五分。故に私は自国の防衛に徹し、国外への討伐はやめるべきと考える』」


 そこまで読むと孫晃は顔を上げ、董炎の顔色を窺った。

 董炎は目を瞑り、椅子の手すりに頬杖をつき、難しい顔をして黙している。表情は全くの無。そこから董炎の感情は読み取れない。


「終わりか? 続けよ」


 目を瞑ったままの董炎が急かしたので、孫晃は再び竹簡へと目を落とす。


「『兵法では、“戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。故に上兵じょうへいは謀をち、其の次は交をち、其の次は兵を伐ち、其の次は城を攻む”と言う。葛州の朧国国境の防衛は景庸関けいようかんを堅く守れば、敵は容易くは突破出来ない。問題は陥落した洪州こうしゅうで、こちらは慎重に奪還する計画を立てる必要がある』」


「戦わぬ事が最善だと? 面白い」


 董炎は口元だけ笑い、孫晃に手を振り続きを促す。


「『葛州南部の椻夏えんかを防衛の要とし、まず第一に謀略により朧軍を攻撃する。これが失策となれば第二に兵を動かし牽制する。武力での解決は極力回避し洪州を奪還する』……以上です」


 恐る恐る、孫晃は董炎の顔を見る。

 目を瞑ったままの董炎は「よこせ」と右手だけ差し出したので、孫晃は立ち上がり竹簡を渡した。

 すると、ようやく董炎は目を開き、たった今孫晃が読み上げた戦略報告を自らの目であらためた。

 しばらくすると、董炎は急に声を上げて笑い出した。

 突然の事に、孫晃は困惑し愉快そうに笑っている董炎を目を見開いて見つめる。

 董炎の笑いが収まると、竹簡を目の前の卓に置き、孫晃に目をやった。

 孫晃の背筋が伸びる。


「戦わぬ、武力での解決は極力避けると申した! 面白い奴だ。朝廷から戦略報告を求められているというのに、戦わない戦略を書いて寄越すとは」


「斬りましょうか?」


「いや、待て。この女は実際に成果を挙げておる。実績のない者の戯言ならば讒言ざんげんを申したとして斬り捨てていたが、この女は違う。“兵法”を学んだ女だ。斬るのは早計だ? 違うか?」


「……しかし、戦わずして朧軍をどう撃退するつもりでしょうか?」


「“謀略”を使うと書いてある。思うに頭の良いこの女ならば、何か策があるのだろう」


「策があるのならば、何故報告に書かなかったのでしょう? もしや、謀反むほんを企んでいるのでは?」


「落ち着け。この女は謀反を起こせる程、閻帝国内で人望もなければ兵力もない。そもそも、謀反を起こす理由がなかろう」


「仰る通りですが……」


「それに、我々は『戦略』という大きな括りで報告を要求した。だが、この女はしっかりと『極力武力で戦わない。国外へ討伐しに行かない』という戦略を示している。それで責務は果たしている」


「ならば、この女の好きにさせるという事でしょうか?」


「洪州奪還まではな。この女には閻帝国を朧の侵略の前の状態に戻してもらわねばならん。如何せん、我々は戦は下手と言わざるを得ないからな。戦が得意なこの女を利用しない手はない。だが、洪州が戻ればこの女をここに呼び寄せ軟禁する。私の右腕として、大いに働いてもらう」


 董炎は自らの右腕を左手でトントンと叩いた。


「なるほど。それは名案でございます」


 ニヤリと厭らしい笑みを浮かべる孫晃。


「それと、報告によれば、朧軍の軍師が投降したらしいな」


「はい。その者も女らしく、軍監の許瞻きょせんの報告によれば、宵と同い歳くらいで互いにとても仲が良いと」


 董炎はふむと顎髭を撫で僅かに思案した。


「その女、名は?」


「“光世みつよ”。という者です。近隣の国の名ではありませんな」


「よし、光世にも適当に官職を与えよ。そうだな、宵よりは下にした方が都合が良かろう」


「確かに。降将と言えど、有能な人材は利用するべき。しかし、降将を厚遇し過ぎると他の将兵達から不満が出てしまいますからな。賢明なお考えです」


 孫晃は納得してうむと頷いた。


「“軍師校尉ぐんしこうい”という官職を新設して任命しておけ。宵の直属の配下とする。宵と光世。2人の力を合わせ、洪州を奪還するようにと、私の名で命を出せ」


「御意!」


 拱手して孫晃は退出して行った。


「ああ、待て、孫晃」


「はい」


 呼び止められた孫晃は首を傾げ董炎の方へ身体を向ける。


閻仙えんせん楊良ようりょうはまだ見付からぬか?」


「それが……部下の報告によれば、我々が目星を付けていた場所に姿はなく、どうやら逃げられたようだと……」


 顔色を変えて自信のない物言いで孫晃は答えた。


「逃げられた? 我々の目的を見抜いたというのか」


「報告を怠り申し訳ございません。捜索を続けてはいますが──」


「良い。逃げるという事は、やはりの者が楊子僥ようしぎょうなのだろう」


 董炎の言葉に、孫晃はただ頷いた。


「孫晃。全ての都市を封鎖し、人が出入り出来ぬようにして炙り出せ。楊良は必ず捕らえてここに連れて来るのだ!」


「御意!」


 また孫晃は勢い良く返事し、今度こそ部屋を出て行った。



「全ては、平和な世の為……」


 ポツリと自分1人の部屋で董炎は呟いた。

 視線の先には宵の書いた竹簡。

 董炎はまたそれを手に取ると、文面を指でなぞり、しばらくの間その竹簡から手を離さなかった。

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