第94話 閻帝国は悪い国?

「それは出来ないって……どういう事?」


 静まり返った部屋で、宵の問いが静寂を破る。


「ごめん、春華しゅんかちゃん。席外してもらえる?」


 厳島光世いつくしまみつよに言われ、清華せいかはコクリと頷き静かに部屋から出て行った。


 宵と光世。狭い部屋でようやく2人きりになった。


「元の世界には一緒に帰ろう。私も帰りたいもん。でもね、私は朧国とは戦いたくないの。戦には協力しない」


「戦は嫌だよね。ごめん。私も戦は嫌だけどさ、早く終わらせてそれで──」


「違う。そうじゃない。私は……朧国の人達にかなり良くしてもらった。私を娘のように思って優しくしてくれる人も居た。……死んじゃったけどね」


「……あ……ごめ」


「それに、私からしてみれば、倒すべきは閻帝国。宵が守ろうとしているこの国なのよ」


「や、やめてよ光世。光世はもう朧国じゃなく閻帝国の人なんだから」


 宵は苦笑しながら真剣な顔の光世を宥める。


「冗談だと思ってるの? って事は、宵は知らないんだね。閻帝国が悪い国だって事を」


「やめてよ」


「やめないよ! 朧国の人達がどんな想いで閻に戦を仕掛けたのか知らないでしょ? ちゃんと教えてあげる! ちゃんと知った上で、宵の考えを聞かせてよ!」


「やめてってば! そんなの聞きたくない! 閻の人達は悪い人じゃないよ! 得体の知れない私を、軍師として迎え入れてくれたんだよ? 軍の指揮だって任せてくれたんだよ?」


 普段声を荒らげる事のない宵。だが、そんな宵を見ても光世は話をやめない。


「それなら私も同じ。周りの人達が優しくても、上はどうなのかな? 宵は閻がどういう国なのか知った方がいいよ? 『己を知らなければ』戦には勝てないよ?」


「光世だって、周りの人が本当に正しい事言ってるとは限らないじゃん! 私ばっか責めないでよ!」


 光世は敵国の朧で都合のいいように洗脳されてしまったに違いない。自分の守ろうとしている国が悪い国だなどとは信じたくない。宵は頑なに光世の話を聞き入れず反抗する。


「私の知り合いの卞豊べんほう殿は、成虎せいこ殿に斬られる前に、『閻の民の為に』と叫んで死んだ」


「……え?」


「自分が死ぬかもしれない状況でそんな事言える? 朧軍の人達はみんな閻の民の事を思って戦ってた。私も閻帝国の実情は知らない。けど、朧軍の人達が命を賭ける理由が閻の民の為である事は確かよ」


「嘘だよ……騙されてるんだよ光世……。だって私、この国で生活してきたけど、民が苦しんでるなんて感じなかったもん」


「そう。でも、卞豊殿も夏侯譲かこうじょう殿も徐畢じょひつ将軍も陸秀りくしゅう将軍も皆死んだの。閻の民を救う為に。私は彼らの意志を継ぐ。私の策はそれで完成する」


「策?」


「朧国を裏切らずに宵と会う策」


「どういう事?」


「私の目的は宵と合流して元の世界へ帰る事。でも、朧国には恩があるから、朧国を裏切らずに宵に会う必要があった。私は、宵なら私がどんなに策を巡らせようと必ずその上を行くと思ってた。だから私は宵に会う事よりも、全力で閻軍と戦い朧国を守る為に動いた。そしたら案の定、宵は私の策を破り、景庸関を落とした」


「それで光世は閻軍に捕まり、私に会えた……」


「そう。ここまでは私の策の通り。でも、ここで私が閻軍に協力すれば、朧国を裏切る事になる。だから私は協力しないの。私は閻に投降したわけじゃないから」


 宵は光世の話を聞き、脱力しヨロヨロと壁に背を預けた。


「それとね、もう1つ、朧軍を攻撃したくない理由がある」


「……何?」


「朧軍には貴船きふね君も居る」


「え……うそ……??」


 その衝撃的な報告に宵は思わず姿勢を正す。


「間諜を入れてたなら私と一緒にいた軍師が洪州こうしゅうに移動した事は聞いてるんじゃない? その軍師が貴船君だよ」


「そんな……何で貴船君まで!? もしかして他にも誰か来てるの!?」


「私と貴船君だけ。2人でこの世界に来たの……あの、ごめん。この辺の詳しい話は後ででいいかな? さすがに……疲れた」


「あ、うん。分かった。ごめんね、私……」


「こっちこそごめん」


 光世はそう言って宵に目を合わせず部屋の扉を開けた。

 扉の外に控えていた清華と一瞬目が合ったが、光世が扉を閉めたのでその姿はすぐに見えなくなった。


「光世様!」


 部屋の外で清華の声が聞こえ、そして足音は部屋から遠ざかっていった。


 清華は光世について行ったようだ。


 見た目は完璧な軍師。策もそれなりに形になり、軍の指揮も執れるようになった宵。『挑戦』し、『感謝』する事を覚え、『覚悟』を決めて『自立』した……筈なのに、結局ダメダメな自分に不甲斐なさを感じ、宵は一人ぼっちになった狭い部屋でしゃがみ込んで啜り泣いた。


 結局、自分は自分のままなんだ──




 ***


 一方その頃、洪州こうしゅう嶺郡れいぐん嶺城れいじょう


 貴船桜史きふねおうしは、朧軍大都督ろうぐんだいととく周殷しゅういんと前将軍・黄旺こうおうと共に酒を交わしていた。


「まさか一月もせぬ内に洪州を制圧出来るとはな。これも全ては桜史、其方の功だ。大いに呑んでくれ」


 周殷はそう言って自らの杯を掲げたので桜史と黄旺は同じく杯を掲げた。


「頂きます」


 桜史は杯を持ったまま拱手するとそのまま酒を呷った。

 周殷も黄旺も口から酒を零す勢いで酒を呑む。


「此度の洪州制圧は私だけの功ではありません。周殷殿、黄旺殿を初めとした朧軍の将兵の力があってこそです」


「さすが、一流の軍師ともなると、多大な功を挙げたとて驕らないのだな。感服致す」


 黄旺は顎髭に酒の雫を光らせながら拱手した。


「いえ、私などまたまだです、黄旺殿」


「儂の見立てでは光世より其方の方が軍師としての力は上と見る。閻の女軍師は勿論、閻仙・楊良ようりょうをも凌駕するのではないか?」


「褒め過ぎです。あまり買いかぶられても荷が重い。それに、光世は優秀です。彼女の本領は軍略よりも政略。外交交渉などには私よりも力を発揮するでしょう」


 桜史の話を聞いた周殷は呵々と笑った。


「桜史がそこまで言うのなら、桜史と光世の役割を切り分ければ尚事が上手く運びそうだな。適材適所という奴だ」


「洪州を手中に収めた今、景庸関けいようかん陸秀りくしゅう将軍達と連携すれば葛州かっしゅう制圧もすぐです。南と東から朧の大軍勢を攻め込ませれば、いくら有能な軍師が居たとしても防ぎ切れないでしょう」


「うむ! 実に痛快だな!」


 周殷がまた笑うと黄旺も機嫌良さそうに笑った。

 ──と、その時。


「報告!!」


 血相を変えて部屋に飛び込んで来たのは1人の兵士だった。息を切らせて跪き3人に拱手した。


「何事だ」


 周殷が訊くと兵士は身体を震わせながら口を開く。


「け、景庸関が……落とされました」


「馬鹿な!?」


 黄旺は思わず立ち上がったが、桜史と周殷は兵士の衝撃の報告にも冷静さを失わない。


「光世は……? 陸秀将軍や徐畢将軍は!?」


「軍師殿は2万程の兵と共に閻に捕らえられ、陸秀将軍、徐畢将軍以下将校達のほとんどが戦死。無事に朧国へ退却出来たのは数千程で、ほとんどが邵山しょうざん琳山りんざんへ逃れ行方不明となっております」


「おのれ董炎とうえん傀儡かいらい兵士共め!!」


 報告を聞いた黄旺は卓を拳で叩き怒りを顕にした。


「光世……」


 桜史は杯を持つ手を震わせる。


「陸秀と徐畢の仇は取らせてもらう。光世も必ず奪還する!」


 周殷はまるで狼狽えていなかった。それどころか閻帝国討伐により一層の意欲を見せた。


「周大都督! 閻はまだ景庸関を奪還したばかりで葛州の南へは注意が回らない筈。急ぎこちらも軍を整え、早急に葛州南部の都市・椻夏えんかを落としましょう!」


「よく言った桜史! よし! 黄旺! 祝宴は終わりだ! すぐに軍を再編成する! 将校を集めよ!」


「御意!」


 桜史が見た周殷の将軍としての器は、やはり朧軍のどの将軍よりも突出していた。

 この男に従えば閻帝国を滅ぼす日も遠くはない。


 助けたい人が2人に増えた桜史。光世は閻軍に捕らわれている事が確定している。桜史の閻帝国を倒す動機はより一層強まった。



 ***



 閻帝国の空を灰色の雲が埋めていた。

 何十万もの大軍を指揮する男はそんな雲を眺め溜息をつく。


「やれやれ。だから言ったのだよ。こんな大軍を連れて葛州なんて東の果まで行くなど不可能だと。ほら、見てみろ。分かりやすい雨雲が空を果てなく埋めておる。直に雨が降る。閻では雨季だよ」


 男は大軍を連れての行軍に疲れ、巨山の前の小さな岩山の上に腰を下ろして部下にボヤいた。


「しかし、丞相の命令は一刻も早く葛州の救援に迎えというもの。背くわけにはいきますまい」


「ふん。背いているわけではない。言われた通り我々は葛州を目指し行軍しているではないか。だがな、目の前には天譴山てんけんざん。まったく、天譴とは縁起の悪い。ここをこの大軍が通るのは難儀だぞ? ましてや普段行軍に慣れていない脆弱な兵達。俺の予想では山に入る頃には雨が降る。そうなれば兵糧の運搬にもさらに時間が掛かり、山中で遭難状態。多くの脱走兵を出すだろうよ」


「そ、そうかもしれませんが……では、呂大都督りょだいととく。一体どうしますか?」


「やめだやめだ。少なくとも雨季が明けるまでは行軍はしない。ここに陣営を築き、兵達に山が越えられるくらいの体力を付けさせる。良いかね? 賈循かじゅん将軍」


 賈循は諦めたように溜息をつくと拱手した。


呂郭書りょかくしょ大都督の仰せの通りに」


 すると呂郭書は満足そうに微笑み、ぴょんと身軽に立ち上がると賈循の肩をポンと叩いた。


「そうと決まれば我々も幕舎の設営を手伝うぞ!」


「なっ! またそんな……そんな事は兵達にやらせれば宜しい」


「黙れ賈循! 早くしないと降ってくるぞ」


 呂郭書は楽しそうに笑いながら岩山を駆け下りていった。


「まったく、自由なお人だ」


 また溜息をついて賈循も岩山を駆け下りた。

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