第65話 宵、姜美を治療する

 ~朧軍ろうぐん陸秀りくしゅう陣営~


 麒麟浦きりんほの砦での防壁の上から、八門金鎖はちもんきんさが破られるのを目の当たりにした厳島光世いつくしまみつよは眉間に皺を寄せて腕組みをしていた。


「おかしい」


 不機嫌そうに呟く光世に、隣で一緒に自軍の敗走を眺めていた貴船桜史きふねおうしが顔を向ける。


「どの辺が?」


「八門金鎖って三国志演義に登場する架空の陣形だよね? 何で敵は生門から入って景門へ出ていく突破方法を知ってるの? 別にそのやり方じゃなくても龍眼りゅうがんを潰せば陣は崩れるって、賢い軍師なら分かる筈。まるで三国志演義を知ってるみたいじゃない」


「そうだね。それは俺も思った。それに、およそ4千人もの八門金鎖をたった千人程度で突破しようとする無謀さも気になる。通常、兵法では、敵より少ない人数で攻めるのは下策。明らかに勝算があったからやったとしか思えない」


「でしょ? やっぱりさ、敵の軍師って……」


 そこまで言いかけると、光世は振り返り、同行させていた下女の清春華せいしゅんかを見た。清春華は微笑みを浮かべ小首を傾げる。それに対し光世も微笑み返すと、清春華に聞こえないよう、桜史に耳打ちをする。


「敵の軍師……宵だったりしないかな? 私達がこうして軍師の仕事が出来ちゃってるって事は、宵ももしかしたら……」


「瀬崎さんには『軍師をやるような胆力はない』って馬鹿にしてたのは厳島さんじゃなかったっけ?」


 桜史も清春華の目を気にしながら小声でヒソヒソと応じる。桜史は清春華を間諜だとは疑っていないだろうが、流石に清春華の前で宵の名は出さない。


「そ、そうなんだけどさー!」


「確かに、瀬崎さんの兵法の知識は俺達より上。敵の軍師が瀬崎さんなら八門金鎖を破れたのも納得いくよ。でも確証はない。閻には楊良ようりょうって兵法家がいるって黄旺こうおうさんが言ってたろ? その楊良が軍師として登用されたと考える方が自然じゃないかな」


「でも、八門金鎖を生門から景門へ抜いて破ったんだよ!? この世界にも三国志はあるの??」


「……偶然……かもしれないだろ」


 光世がしつこく問い詰めると、桜史も煮え切らない反応で応える。

 確かに偶然なのかもしれない。しかし、宵が閻の軍師かもしれない疑念は完全には消し切れない。

 万が一、宵が閻の軍師だったとしたら、お互い敵同士。宵がこの世界で生きている事が分かれば万々歳だが、同時に敵だったとしたら、その時は一体どうすればいいのだろう。

 そんな事は勿論頭の良い桜史なら既に考えている筈だ。だから宵が閻の軍師とは認めたくないのだろう。


 ふと光世は背後の清春華を見た。


「春華ちゃん」


 ずいずいと清春華に迫り、その小さな肩に腕を回す。まるで後輩に絡む厄介な先輩の絵面だ。

 桜史は突然の光世の行動を不思議そうに眺めている。


「どうされました? 光世様」


「春華ちゃんはさー、閻の軍師はどんな人だと思うー?」


「え……」


 困惑した様子の清春華のパッチリとした瞳を光世は見つめた。

 穢れのない綺麗な瞳。隠し事があるようには見えない。

 事実、初めこそ光世は清春華を閻の間諜ではないかと疑っていた。だが、一度問い詰めて以来、清春華は怪しい行動をしなくなった。毎夜1人で陣営内の木陰に隠れるように行く事があるが、それは本人が告白した通り人目を忍んで欲情を発散しているだけだった。光世を欺く為の演技かもしれないと注意深く監視したが、結局1人で満足するとそのまま部屋に戻り眠ってしまうのだ。


「私は素人ですから、敵の軍師がどんな人かなんて想像もつきません」


「可愛い女の子だったりとかしないかなぁ」


「……まさかそんな……」


 清春華は愛想笑いを浮かべた。

 やはり何も漏らさない。いや、本当に知らないのかもしれない。光世自身、疑心暗鬼になり過ぎているだけだ。ここ最近周りの兵士や下男下女を全て怪しいと思うようになってしまい疲れているのだ。光世は自分にそう言い聞かせた。


「だよねー分かんないよねー」


 軽い感じで光世が言うと、清春華はホッとしたように1つ息を吐いた。


「厳島さん、徐畢じょひつ将軍が戻って来たよ」


 桜史が防壁の下を覗き込みながら光世を手招きしたので、光世も防壁から下を覗いた。

 大勢の歩兵部隊が帰還し、続々と砦へと入って来る。

 その歩兵部隊の後方には、死体を運ぶ兵の列も長々と続いていた。



 ***



 ~閻帝国・姜美きょうめい陣営~


 姜美は李聞りぶんの陣営には寄らずに真っ直ぐ自分の陣営へと戻っていった。

 大怪我をしたのか、或いは、徐畢を討てなかった事を恥じているのかもしれない。

 心配になった宵は、李聞の兵士を1人捕まえて馬で隣の陣営まで運んでもらい、姜美の幕舎を訪れた。


 幕舎の前には数人の兵士がおり、外から姜美に声を掛けていた。


「どうされました? 姜美殿は?」


「ああ軍師殿。それが……お怪我をされているようなので、我々が手当しようとしたのですが、中に入るなと。軍医も要らないと……。かなりご機嫌斜めのようで……」


「何人も部屋に入る事を許しません! 傷の手当くらい自分で出来ます! いいですか? 部屋に入った者は軍令違反とみなし斬り捨てますから!」


 幕舎の中から姜美が叫んだ。中に入っただけで斬り捨てるとは只事ではない。その異様な状況に、宵はもしやと思い兵達を下がらせた。


「姜美殿。宵です。手伝いますよ」


「軍師殿ですか。お気遣いありがとうございます。ですが、結構です。人の手は借りません」


「入りますね」


 宵は幕舎の入口の幕に手を掛けた。


「まっ!? ちょっ!? 駄目!! 駄目です!! いくら軍師殿と言えど」


「私も斬りますか?」


「き、斬りません……! しかし、あの……今私は衣を纏っておりません。男の裸を見たいのですか?? い、今入って来たら……」


「入ります」


 宵は明らかに動揺する姜美の言葉を無視して入口の幕を開けて中を覗いた。


「ちょっ!!? 何で入るの!!??」


 中にいたのは宵の知っている姜美ではない。

 寝台に腰掛ける姜美の傷だらけで血が滲んだ小さな背中。下ろされた長い黒髪。咄嗟に脱ぎ捨てた衣で前を隠し、無礼にも部屋に入って来た宵を目を丸くして見ている。

 その仕草は女性的で、男を演じていた姜美の面影は微塵もない。


「手当しますよ。女の私なら大丈夫ですよ」


「はぁ!? 何が大丈夫なんですか??」


 普段冷静な口調の姜美からは考えられない程の変わりよう。宵は半裸の姜美の前に周り、その胸元を隠している衣に手を掛けた。


「怪我、見ますね」


「やめて……!!」


 衣を剥がすと、宵の目の前に現れたのは見慣れた女の身体。宵の絶壁よりは遥かに胸がある所だけが違うが、正真正銘の女の身体だった。


「やっぱり」


 宵はそう言うと、恥ずかしさのあまり硬直している姜美の耳元に顔を近づける。


「大丈夫です。誰にも言いませんから」


 宵の言葉を聞いているのか否か、姜美はもう身体を隠そうとはしなかった。



 ♢


 近くにあった綿に消毒用の酒を染み込ませ、寝台に腰掛ける姜美の身体中の擦り傷や切り傷に当てていく。幸い、縫わなければならない程の深い傷もなければ骨折などもなさそうだ。

 Dカップくらいありそうな形の良い胸の傷を消毒すると、その柔らかな感触と弾力が宵の手に伝わる。同じ女であっても、自分にはないいやらしい感触に照れずにはいられない。

 チラリと姜美の美しい顔を見る。劉飛麗りゅうひれいの女性らしい美しさとは違い、姜美は男性的な美しさに近いものを感じた。かっこいい顔立ちの女性と言ったところだ。そんな姜美の顔にも、羞恥が消し切れないのか頬に朱を注ぐ。


 宵は床に正座すると、姜美の太ももの傷の治療に移った。


「あの……聞いてもいいですか?」


「何ですか」


 すっかり大人しくなってしまった姜美は無機質な返事を返した。


「どうして女だって事を隠してるんですか? 姜美殿は凄く美人だし、私よりも断然魅力的な身体してるのに」


 宵の問に溜息をつくと、姜美は観念したように自分の生い立ちを語り始めた。


「私には父と母、そして兄がいました。父は閻の軍人で、西の果ての芙州ふしゅうで将軍にまで上り詰め、兄は校尉になりました。私は父や兄が国の為に戦う戦士である事に誇りを持ち、自分もゆくゆくは軍人になりたいと、幼き頃より夢見ていたのです」


「なるほど、それで姜美殿も軍に」


「そう簡単な話ではありません。軍に入るには男でないといけませんでした。しかし、私は女。何か抜け道があるのでは、と、両親に女でも軍に入って将軍になれる方法はないかと聞きましたが酷く叱られました。『女が軍に入るなどと夢を見るな』と。『それは男の仕事だ』と。兄も私を庇ってはくれず『女のくせに出しゃばるな』と馬鹿にしました」


 悲しそうな目で姜美は遠くを見つめていた。

 宵は黙って姜美の話に耳を傾けながら、太ももの傷口を消毒していく。多少なりとも沁みるはずなのに姜美は表情一つ変えない。その太ももは良く鍛えられており、しっかりとした筋肉が付いていながらも、引き締まっていて細い。姜美の並々ならぬ努力が窺い知れる。


「だから私は家を飛び出し、男として生きる事にしました。本名の“姜小妹きょうしょうめい”から“姜美”と名を変え葛州かっしゅうにやって来ました。故郷から遠く離れた葛州なら家族や知り合いに見つかる心配はないし、国境の州なら隣国の警戒の為、常に徴兵してましたから」


「そういう事情があったのですね……」


「ええ。軍に入ってもう5年になりますが、幾度か私を女と疑う者がいました。ですが、その度に私は男らしく振る舞い、己の武を磨き、州内の治安維持では率先して悪漢を取り締まるなど、女がしないような事を続けてきたのです」


「これからも、男として生きていくのですか?」


 宵の問いに姜美は首を縦にも横にも振らなかった。


「私が多大な功績を残し、将軍に上り詰め、誰も口出し出来なくなった時に、私の正体を明かし、世に知らしめてやろうと思っています。『女でも将軍になれるのだぞ』と。それまでは、私は男として生きていきます。今の地位で女だと知れたら今まで積み上げてきたものが台無しになるかもしれません。だから……私が女だという事は誰にも言わないで欲しいです」


 姜美の覚悟を聞き、宵は頷いた。


「元より言うつもりはありません。姜美殿は、なりたいものになる為に家を出て家族と疎遠になり、さらには名前を変え、知らない土地で夢に向かって頑張ってるんですね。敬服致しました。私には……そんな事……出来なかったし……やろうとも思わなかった……」


 宵は治療の手を止め、声を震わせた。


「どうされました? 軍師殿」


 様子のおかしい宵の顔を姜美が覗き込む。


「すみません。自分があまりにも不甲斐なくて……姜美殿のお話を聴いていたら、私、親に甘えてばかりで、やりたい事だけをやって先の事なんて考えずに生きてきました。……本当に情けない……」


「人は壁にぶち当たらないと成長出来ませんからね」


 不意に姜美が発した一言に、宵はハッとして顔を上げた。姜美は微かに微笑むと話を続けた。


「でも、私には今の軍師殿は立派に見えますよ。今軍師殿が仰ったように、過去が納得のいかない生き方だったとしても、少なくとも今は立派に生きておられます。きっとたくさんの壁にぶち当たり、その度に乗り越えて成長されたのでしょうね」


「私……成長してる?」


「私は軍師殿とは出会ったばかりですので無責任な事は言えません。ですが、貴女の過去を知っているご両親やご友人に今の貴女を見せれば、きっと成長したと感じるのではないでしょうか」


 姜美の言葉は、宵の心の奥底にあったつかえを取り払ってくれるようだった。

 元の世界では、好きな兵法の研究だけをして大学3年と数ヶ月を費やしていた。その間、大学教授になる道が大学院に行くことのみだと思っていた。それ以外の道があるかもしれないのに探そうともしなかった。兵法の研究以外の事には時間を割かなかった。学費の足しにする為にアルバイトをやっていたのは、そうしないと大学に行けなくなり兵法の研究が出来なくなるからだった。やりたかったわけではない。宵は目の前の事しか見ようとしなかった駄目な女だった。

 それで就活が上手くいかないのは当然の結末で、その鬱憤を親にぶつけるという恩知らずな事までした。


「私……早く戦を終わらせて故郷に帰らなきゃ。帰ってやらなきゃ行けない事がたくさんある」


「そうですか。ならば私は軍師殿に協力しますよ。私もさっさと戦は終わらせたいですから。その前に徐畢の首を取って将軍に昇格しなくてはなりませんが」


 宵は姜美の右手を両手で握った。


「頑張りましょう! お互いの目的の為に!」


 宵は活力に満ちた瞳で姜美を見つめる。その目にもう迷いはない。


「さて」


 突然、姜美は立ち上がった。

 宵は素っ裸の姜美を見上げる。


「手当ありがとうございました。もう大丈夫です」


 言いながら、姜美は裸に衣を直接纏い始めた。そして着替え終わると背中越しに赤面した横顔を宵へ向ける。


「私の事、女だって知ってるのは軍師殿だけなのですから……女の悩み……聞いてくださいよね」


「は、はい! もちろん!」


 絵に描いたようなツンデレに、宵の顔には自然と笑みが戻っていた。

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