第39話 調(はか)って虎を山から離す
静寂に包まれた城内の一室。
「まず、出撃前に
宵の指示に
「伏兵がいなければ予定通り巴谷道を進軍。伏兵がいれば南の
地図を指でなぞり、廖班の顔を見る。ところが、廖班は険しい表情をして宵を睨む。どうやら不満なようだ。宵は廖班の怒号を覚悟した。
「椻夏の北を迂回!? そんな事をしていては巴谷道を通るより10日は敵の砦に到着が遅れる! ただでさえ伏兵の調査に時間を要するのに、さらに出遅れるのは絶対に駄目だ! それに、我らは先鋒を命じられたのだ。にもかかわらず、グズグズと最短経路を通らずに迂回などしていたら、怖気付いたのだと
確かに、廖班の言う事は一理ある。しかし、確実に勝つ為には宵の策が最善だ。目的は景庸関の奪還。それを達する前に伏兵に壊滅させられるわけにはいかない。伏兵のいる場所に敢えて踏み入るのは愚の骨頂。そもそも、高柴の廖班が先鋒という采配が良くない。ただ、本人が“先鋒に選ばれた”という事に関して誇らしげに自慢していたので、それを否定する勇気は宵にはなかった。間違いなく廖班の逆鱗に触れるだろう。
宵は手に持った祖父の竹簡を撫でながら、廖班が納得するような策を再考する。
伏兵がいても巴谷道を無事に通る策。
黙考はほんの僅かな時間だった。
「では、こうしましょう。もしも巴谷道に伏兵がいた場合、その伏兵を誘き出して逆に壊滅させます。その後に堂々と巴谷道を通りましょう」
「おお! いいぞ! そんな事が可能なのか? 流石は軍師! して、どのような策だ?」
あからさまに嬉しそうに白い歯を見せて笑いながら、廖班は机に両手を突き宵の方へ身を乗り出す。
「“兵法三十六計・第十五計・
「おお! そういうのを待っていた! して、具体的にはどうするのだ?」
「まずこちらの軍2万を先行と後続の部隊の二手に分けます。先行の部隊は巴谷道の入口まで進めますが、巴谷道は通らず、南へ進路を変え椻夏郡方面を目指します。そして、後続の部隊は巴谷道の見える位置に身を隠し待機します」
「結局椻夏に向かうのか……?」
「廖班将軍、御安心を。先行の部隊は囮です。敵は先行の部隊が巴谷道を通らないと知れば、伏兵をやめて撤退するか、追跡して背後からこちらを攻撃するでしょう。万が一、敵が撤退すれば、後続の部隊が巴谷道を進軍し突破。先行の部隊はすぐに引き返し、巴谷道を通り先に通過した部隊を追って合流します」
そこまで言うと、李聞がなるほどと頷いた。
「仮に敵が撤退せず、先行の部隊を追って来たら、後続の部隊が敵の背後を襲うという事だな?」
「ご明察です。流石は李聞殿。故に、後続の部隊は敵に気取られてはなりません。夜間の進軍が良いかと」
褒められても李聞は表情を変えずただ頷いた。
一方、廖班は宵の策に納得したようでにこにこと子供のような笑顔を見せて頷いている。
「よし! その策でいく! 宵。先行の部隊と後続の部隊の指揮を誰が執るべきか、意見はあるか?」
珍しく廖班は、指揮官の指定まで宵に訊いてきた。
この人選は色々と責任が重い。廖班を囮である先行隊にしては彼のプライドを傷付けるだろう。かと言って、
「先行隊は成虎殿と龐勝殿。後続隊は廖班将軍が李聞殿と張雄殿を就けそれぞれ率いるのが良いかと」
「良かろう! 今回は其方の策を全面的に採用しよう! して、部隊の人数は? どのように分ける?」
「先行隊の数ですが、これは、敵の伏兵の数に合わせて編成してください。例えば、伏兵が2千いれば、こちらは千。伏兵が千なら、こちらは5百という具合で敵より数を少なくします。そうすれば、敵の伏兵は数の劣るこちらを追撃して攻撃してくる可能性が高くなり、敵を逃がさず倒す事が出来ます」
「なるほど。分かった。伏兵の数が分かり次第、先行隊の人数は考えるとしよう」
「それから、廖班将軍。巴谷道を無事に突破しても、勢いのままに敵を攻撃してはなりません。数の劣る敵だとしてもくれぐれも慎重に観察してください」
宵は心の底から願った。せっかく伏兵を回避しても、勝ちに驕って突出すれば元の木阿弥だ。
「廖班将軍。戦は焦る必要はありません。事を成す前に、必ず軍師の意見を聞きましょう。我々は今まで兵法なしで戦い、賊軍如きに敗北を重ねました。同じ過ちを繰り返してはなりません。此度は
李聞は拱手して頭を下げ廖班に忠言する。
それを見て、廖班は目を瞑り静かに顎髭を撫でた。
「うむ。そうだな。宵の策は理にかなっておる。今回は焦らず慎重になってみよう。何せ、この閻で軍師を手に入れたのは俺だけだからな。兵法に従えば、他の無能な太守共に遅れをとる事もなく、
余裕の笑みを浮かべ廖班は笑った。
宵に従ってくれるのは有難いが、その歪んだ考えが変わる事はないようだ。やはりこの男は、将軍の器ではない。
「
「……では、敵に“間諜”を潜り込ませてください。敵の情報をより詳細に知る為には間諜は必須です」
「よし。ならば其方に従う者を5名程やる。その者達を好きに使うと良い」
「感謝致します」
宵は仰々しく拱手した。
以前の宵への扱いとはまるで違う。確かに“軍師”として扱われている。軍事に関与する事は不本意だったが、状況が状況なだけに仕方なく廖班に従った。しかし、本当に自分の兵法だけで戦に勝利する事が出来るのだろうか。
そんな不安を胸に秘めていても、軍師という立場の者がそれを相談出来る人間はここにはいない。軍師が他の将兵に弱音を吐けば士気が下がる。
廖班が退出の命を出したので、宵は他の将校達と共に部屋を出た。李聞、張雄、
「あの、軍師殿」
自室に向かい、とぼとぼ歩いていた宵は突然、背後から呼び止められた。こんなに穏やかな口調の将校がいただろうか。
疑問を抱きながら振り返ると、そこには将校の
「はい……何でしょうか?」
鎧兜を纏った軍人4人の視線を受け、一介の女子大生である宵は思わず身構える。
「どうか我々に兵法をご教授ください!」
楽衛が拱手すると、他の3人も宵に拱手した。
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