第40話 兵法以外何も無い
軍議が行われた部屋を出た先は中庭になっており、緑豊かな庭園が広がっている。その至る所に兵士や
「兵法を、学びたい?」
思いもよらぬ将校達の言葉に、宵は戸惑った。
「はい。これから戦に向かい兵を動かすに当たり、兵法を知っているかどうかで、勝敗が大きく分かれます。軍師殿の献策を聞いて、そう確信しました。我々は負けるわけにはいかない。故に、軍師殿の兵法を学び、我々指揮官が兵法に基づき行動出来るようになっておく事が肝要と思い、こうしてお願いに参ったのです。軍師殿がご迷惑でなければ、何卒」
将校の1人、
「父上や兄上が亡くなって思うのです。もしも私に兵法の知識があれば、家族は死なずに済んだのではないか。
「
「何とご立派なお志。敬服致しました!」
あまりに礼儀正しい武将達に心を打たれ、宵は手に持つ祖父の竹簡を撫でながらそう答えたが、少し問題がある事に気が付き目線を下の方へ落とす。
「えっと……ただ1つ問題が……。私の知る兵法の全てを短期間で習得するのは不可能です。成虎殿と龐勝殿は、斥候が
「ああ……如何にも」
残念そうに成虎が溜息をついた。だが、宵には考えがある。
「ですので、成虎殿と龐勝殿には、“将軍の責任”、“地形と行軍”、“敵情の把握と伏兵の見抜き方”を竹簡に記しますので、もし、明日出撃になりましたら、是非お持ち頂きご活用ください」
「おお! 感謝致します! 軍師殿」
肩を落としていた成虎だったが、宵の言葉に笑顔を取り戻し、龐勝と顔を合わせると、共に宵に拱手して頭を下げた。
「楽衛殿と安恢殿は私と共に城の守備ですから、明日から直々に兵法をお教え致しましょう」
「ありがとうございます!」
楽衛と安恢も拱手して頭を下げた。
「あと、私からもお願いがあるのですが、聞いて頂けるでしょうか?」
「こちらも兵法をご教授頂くのです。遠慮なさらず仰ってください」
相変わらず楽衛は下手から話す。これまで上の立場になった事のない宵には、その敬われるような言葉遣いがこそばゆい。
「ありがとうございます。今度、兵の調練を見せてください。城の防衛に際して、どのような動きが出来るのか見ておきたいので」
「それは、願ってもない。むしろ私の方からお願いしたい事です。軍師殿に兵の調練をご視察頂き、改善点がありましたらご教授頂きたいです!」
「決まりですね。では、兵の調練の時間になりましたら、すみませんがお声掛けください。今日は一日中部屋で、成虎殿と龐勝殿にお渡しする、兵法を記した竹簡を作らねばなりませんので」
「御意!
楽衛が言うと、他の3人も立ち上がり一礼して部屋から出て行った。
♢
4人を見送ると、宵は自分の部屋へと向かった。道中、彫像のように直立して控えている下男と数人擦れ違った。その中の1人の前で宵は足を止めた。言う事を聞いてもらえるか分からないが、宵はダメもとで話し掛けてみる。
「すみません。まっさらな竹簡を何巻か頂けますか? それと、墨と筆を……ちょっと書き物がしたいので」
「かしこまりました、軍師殿」
予想に反し、下男はすんなりと承諾してくれた。軍師の権力なのかもしれないが、まさか、下男にまで宵が軍師である事が知られているとは思わなかった。宵の姿は、どこからどう見ても軍師などではなく、ただの町娘。劉飛麗が買ってくれた綺麗な水色と白の
「あ、あと、劉飛麗という下女を知ってますか?」
宵の質問に、下男は首を傾げた。
「……いえ、下女の名前までは存じ上げません。城内には百人近くの下男、下女がおります故……」
「腰を抜かす程美人な廖班将軍の下女なんですけど」
すると、下男はもしや、と顎に指を添えた。
「昨日、廖班将軍のお部屋に、それはそれは美しい女性が入って行くのを見ました。私はてっきり奥方様かと思いましたが、まさかあの方が下女だったとは」
「廖班将軍の部屋に……ありがとうございます」
宵が礼を言うと、下男は宵の所望した品を取りに廊下を早足で歩いて行った。
劉飛麗。やはりこの城内にはいるようだ。成虎と龐勝用の兵法書を書き終えたら、一度廖班の部屋を訪ねてみよう。廊下を歩きながら、宵はこの後の段取りを考えた。
自室に戻り、ふと寝台に目をやると、今朝脱ぎ捨てた寝衣がそのままの状態で置いてあるのに気が付いた。
「そうだ……急に起こされたから脱ぎ捨てたままだった。そう言えばこれ、洗濯する時、この世界ではどうするんだろ」
誰もいない部屋で1人呟いた宵の腹から、空腹を告げる音が鳴る。
「お腹減った……」
思えばこの世界に来てから、生活で必要な事は全て劉飛麗にやってもらっていた。だから、この世界では洗濯も出来なければ、料理も作れない。昨晩は
元の世界で実家暮らしの宵は、家事をした事がない。今まで全て母に任せっきりだった。
宵は大学で兵法を学び、時々友達と遊んでいただけ。お金は父が家にも帰らずに必死に働いて稼いでくれた。だから贅沢は出来なくても、安心して生活が送れていた。
宵もアルバイトはしていたが、それだけで生活が出来る程稼いでいたわけではない。大学に通えたのも、毎日食事が出来たのも全ては父と母のお陰だ。
そんな当たり前の事に今になって気付いたのだ。
自分が1人では生活出来ない人間だった事。そして、両親のありがたみ。
それなのに、この世界に来る前に母や父に酷い事を言ってしまった。
「お母さん……お父さん……ごめんなさい……私……1人じゃ、何も出来ない……。私には、兵法以外、何も無い……」
両親の事を思い出し、罪悪感と共に寂しさが込み上げて来た宵は1人、部屋で呟き、とぼとぼと寝台へと向かった。
ぽたぽたと床には涙の粒が零れる。
袖で涙を拭い寝台に腰掛けると、ずっと持っていた祖父の竹簡を無意識に開き、何も書かれていないその中身をボーッと眺めた。
「宵。入っていい?」
不意に扉の外から男の声が聞こえた。
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