第37話 さよなら、平和で庶民的な生活

 成虎せいこ龐勝ほうしょうのお陰で、景庸関けいようかん守備に派遣していた残存兵数が1万5千を上回った為、張雄ちょうゆう安恢あんかいの棒叩きの刑はなくなった。

 初めは敗軍の将と馬鹿にされていた成虎と龐勝だったが、今回の功績で廖班りょうはんの信用を得た。反対に張雄と安恢は廖班からの信用を失ったようだ。


 今廖班軍は、瀬崎宵せざきよいの提案で、敵軍の位置の捕捉に人をやっている。敵軍が今どこにいてどういう状態なのか。それが分からぬうちは策の立てようもない。

 殿軍として最後まで戦っていた成虎と龐勝の話では、依然敵兵力は5万はいるとの事だ。

 蔡彪が元々連れていた5千の兵は、蔡彪の仇を討とうと5万を相手に奮戦したが、適うはずもなく、殆どが斬り殺され、残った数百人は成虎と龐勝が麾下に加えて撤退してきたという話だ。


 日はすっかり暮れ、城内には至る所に火が灯された。

 宵に宛てがわれた部屋は宮殿内の小部屋だった。豊州ほうしゅう梟郡きょうぐんの借家よりは遥かに綺麗な部屋ではあるが、広さはさほど変わらない。机と椅子が1つずつ、そして、寝台が1つあるだけの質素な部屋だ。梟郡から持って来た荷物がまだ行李こうりに入ったまま床に置いてある。しかしながら、一緒に来た筈の劉飛麗りゅうひれいの姿はない。

 李聞の話では、劉飛麗は城内のどこかには居る筈だという。その詳しい所在は廖班にしか分からないらしいが、早速の敗戦で機嫌の悪い廖班に話し掛けるタイミングなどなかった。


 宵は一人ぼっちになり、狭い部屋の中でただ寝台に腰掛けて呆然としていた。

 丁度そんな時だった。


「宵、鍾桂しょうけいだけど、入っていい?」


 突然、部屋の扉の外から声を掛けられ宵は背筋を伸ばす。


「どうぞ!」


 その返事には自然と喜びが混じる。


「やあ」


 戸が開き、鍾桂が顔を出すと、宵は思わず立ち上がった。


「鍾桂君! 良かった」


「良かった?」


 つい宵の口から零れた本心に、鍾桂は小首を傾げる。

 鍾桂の脇には大きな桶が抱えられていた。中からは湯気が立ち昇り、その縁には白い布が掛けられている。


「あ……何でもない。それ、私が頼んだお湯?」


「うん。身体を洗いたいって言ってるから持って行けって、李聞殿に言われたからさ」


 言いながら、鍾桂は湯の張られた桶を宵の足もとに置いた。


「そっか、ありがとう」


 1人で不安だったところへ、心許せる鍾桂が来てくれた喜びは一入ひとしおだ。身体を洗う事なんて後回しでも良い。とにかく今は鍾桂と話をしていたい。

 そんな風に思った宵だったが、その気持ちはどうやら向こうも同じだったようだ。


「君の笑顔見ると、俺も元気が湧いてくるよ。会う場所がここじゃなければ最高なのに」


 宵の足もとの桶の前で片膝を突いたまま、鍾桂は困惑の混じる笑顔を見せた。


「そうだね」


 宵も複雑な表情で頷く。


「本当にごめん。俺のせいで……君には閻の戦なんか関係ないのに」


「鍾桂君のせいじゃないって言ったでしょ? 確かに私はこの世界の人間じゃないし、関係ないかもしれない。でも、私、少しだけど閻で過ごして、大切な人も出来たの。その人達を放っておく事なんて出来ないよ。……私がどれ程役に立つのか分からないけど、私の兵法で閻の人々が救われるなら、協力しようって思ったから……だからもう関係なくない」


「……宵、君は本当に凄い人だ。こんなに辛い状況なのに、そんな前向きに考えられるなんて……素直に尊敬する」


「そんな……とんでもない」


 首を振って宵が答えると、鍾桂は宵の両手を握り締めた。


「俺は必ず君を守ってみせる。そして、この戦が終わったら、元の世界に帰る方法を一緒に探そう」


「ありがとう。鍾桂君。頼りにしてるよ」


 笑顔で応える宵。見つめ合う2人。

 不意に鍾桂は宵の手を離すと、今度は宵を抱き締めた。


「あ……」


 思わず声を出す宵に対し、鍾桂は無言のまま宵の細い身体を力強く抱き締める。

 この世界に来てから久しく感じなかった劣情が宵の身体を駆け巡った。

 その感情はいけないものだと、自分に言い聞かせるが、身体はそれを拒絶しようとはせず、ただ鍾桂の温もりを受け入れる。


「……ごめん、宵。いきなりこんな事……」


 先に身体を離したのは鍾桂だった。我に返ったように顔を真っ赤にしてあたふたとしている。


「別に……いいけど……あの、えっと、ところで、御家族はご無事だったの? 私それがずっと気掛かりで……」


 あまりの気まずさに宵は話題を変えた。


「あ、ああ、廖班将軍が言うには、俺に宵を確実にここへ連れて来させる為に適当に言った事だから家族に手は出してないって……ほんと狡猾な男だよ。あの人は」


「そっか。無事なら良かったよ」


 悔しそうに俯く鍾桂に宵は優しく微笑んだ。


「心配してくれてありがとう。それじゃあ、俺、もう行くね。せっかくのお湯も冷めちゃうと悪いし」


 鍾桂は頬を掻きながら宵に背を向けて言う。


「また来て」


 本当は呼び止めたかったが、そういうわけにもいかないだろう。高柴城の中にいるとは言え、安全なわけではない。地理的には景庸関と高柴こうしはかなり近い位置にある。いつろう軍がここへ攻めて来るか分からない。

 鍾桂には鍾桂の、宵には宵の仕事がある。


「もちろん、また来るよ」


 鍾桂は笑顔で答えると、部屋から出ていった。


 また1人になった宵は、手際良く閻服えんふくを脱ぎ裸になると、鍾桂が持って来てくれた桶のお湯を布に浸し、身体を拭った。


 部屋の外には絶えず人の気配が行き来する。

 今夜からはずっとこんな感じか……と思ったが、朧軍が攻めて来れば身体さえ洗う暇がないだろうと気付き、宵は深い溜息をつく。

 この世界での平和で庶民的な生活とも別れを告げ、戦場に身を投じなければならない。

 劉飛麗がそばにいない生活にも慣れなければいけないだろう。

 22歳、大学生の瀬崎宵は、これから訪れる過酷な日々を想像しながら、最後かもしれない温かなお湯を、丁寧に全身で堪能する事にした。

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