ドヴェーシャ

 研究室での実験が一段落して、久しぶりに自分の部屋に帰ったトオルは、その散らかり具合にさすがに呆れ、少し仮眠をとった後、片付けを始めた。

 山積みになったロボット工学、センサー、脳型コンピュータなどの論文をまとめ、ファイリングし、教科書類の隣に本棚に並べていく。他にも、まだ読んでいないノンフィクションや、漫画、小説なども、内容ごと、出版社ごとに整理する。トオルはこうした作業が嫌いではなかった。

 資料一つ、本一冊を分類し、少しずつ本の山を切り崩していった末、奥底に、やけに上等な見慣れない表紙のものが埋もれているのに気が付いた。


 取り出してみると、それは高校時代の卒業アルバムであった。大学への進学時、この下宿部屋に引っ越してくることになったとき、両親に持って行けと勧められ、言われるがまま持ってきたのだ――同級生たちとの話のネタに使うこともなく、結局出番がないまま、修士1年も半年が過ぎた今日まで、すっかり存在を忘れていたのだった。

 懐かしさもあって、なんとなく再び中を開いてみる気になり、表紙をめくる。高校入学、春の遠足、陸上部の大会など、色々な出来事を収めた写真が並んでおり、意外と自分は充実した学生だったんだな、などと、他人の思い出話を聞いているような不思議な感覚をトオルは覚えた。

 そうして1ページずつ眺めているうちに、修学旅行で行った奈良県、興福寺の東金堂前で撮影された集合写真に行き当たった。何しろもう10年以上前なので、この修学旅行のことは、細部は覚えていない。しかし、その翌日に行く予定だった大阪のテーマパークの方が楽しみだったトオルにとって、奈良観光が退屈なものだったことははっきりしていて、事実写真に写る高校生時代の彼は、あまり明るい顔をしていなかった。

 そんな思い出に苦笑いしながら、同じページにある、境内の様々なスポットで撮影された写真群を眺めていた。するとどういうわけか、この時に興福寺の住職から聞いたある話が、やけに鮮明に蘇ってきた。


 ◆◇◆


 トオルにとって、興福寺での観光が退屈だったのは、3つの理由があった。まず、寺社仏閣そのものに興味がなかったから。次に、大阪の市内観光とテーマパークが楽しみで仕方なかったから。そしてもう一つは、坐禅体験のプログラムが組まれていたからである。

 あの日は、確か早朝5時にたたき起こされ、宿泊先の旅館で満足に朝食も摂れないまま、担任の引率で興福寺までマラソンをさせられたのだ。幸い、距離にして4kmもなかったので、20分程度で現地に到着したと思う。そのあと、三重塔の前で集合したクラスメートたちとともに、住職と担任とに引率される形で、どこの建物だったかは忘れてしまったが、とにかく「坐禅会場」に連れていかれた。

 会場には、1mほどの間隔でクラスメート全員分の座布団が敷かれており、そこへ一人ずつ名簿順に座っていった。それから足の組み方や姿勢の取り方、必要な心構えなどについて簡単に説明があり、あとは各自が思いのまま、静かに30分間ほど坐禅を組むはこびとなった。座っているだけなら楽なものだが、こうした催しもののお約束として、必ず警策きょうさくで肩を叩かれることになっていて、何とも理不尽だと当時は思ったものだ。(本当に集中して座り、精神統一をしていたとしても、一人ひとり叩かねばならなかった住職も気の毒だったなと、今のトオルは思うのだが。)

 そんなも終わり、あとは境内観光の時間である。正直なところさっさと旅館に帰って荷物をまとめ、大阪に向けて出発したい気持ちでいっぱいだったが、一人抜け出せるはずもなく、やむを得なかった。座布団から腰を上げ、外に出ようとしたトオルだったが、たまたま近くに居合わせた住職と目が合った。

「さっきは、どうも」どうしたものか分からず、ぎこちない挨拶をトオルは口にした。

「こちらこそ。初めての坐禅は、どうやったかな?」

 非常に恰幅が良く、それでいて身長が190cmはあろうかという巨体の割には、やや高い、親しみのある声で話す住職だった。

「やっぱり、難しかったです。いまいち、精神統一できなかったっていうか」

「はは。まあ、我々でも難しいことやからね。高校生やったら、やりたいことも、やらないかんことも仰山あるでしょうし、大変やったでしょう」

 先ほどの厳粛な雰囲気とは打って変わって、やけに気さくな住職の雰囲気に、トオルは少し好印象を持った。

「精神が統一されると、どうなるんですか?味わったことがなくて、よくわからないんですが。坐禅って、悟りを開くためにやるんですよね?」

「そうやねえ……そうであるとも言えるし、そうでないとも言える、というのか」

 少し考えるようにして間をおいてから、住職は言葉を続けた。

「結論から言えば、人生の苦しみの原因は、すべて物事への執着とされる。執着とは、物事に対して心を動かすことで生じるものであるから、世の中の物事に心を動かさないこと、解釈をしないことを目指すわけやね」

「解釈、ですか」

 そこからの話は専門的だったのだが、要点だけをかいつまむと、おおよそ次のような内容だった。

 仏教は、人間の感覚を6つ――味覚、触覚、視覚、嗅覚、聴覚、そして、意識――に分類する。さらにそれぞれの感覚について、受容する感覚器があり、刺激の形が存在する。視覚であれば、受容するのは「目」であり、刺激となるのは「光」というわけだ。

 これらの感覚は無論、生きていくうえで必要不可欠なものであるが、感覚の発生に伴って生じる心の動きこそが、人間が味わう全ての苦の根源であると考えた人物がいた。それが仏教の開祖、釈迦であって、彼は外界の事象に一切心を動かさない、すなわち執着しない心を得るためのプロセスを、仏教という形で体系化した。

 彼の教えは、端的に言えば、感覚器に対して外界からインプットされる刺激情報を、ただありのまま観測せよというものだ。そのための訓練を経て、心が動かなくなった時点を以って、その人物は悟りの境地に行き着いた、と言えるらしい。従って、心を動かさない状態に出来れば、手段は坐禅でなくても構わないことになる。

 なるほど確かに、ガールフレンドとのメッセージのやりとりに「一喜一憂」したり、寺社仏閣の観光に「退屈」を感じたりすることは苦しみだし、気持ちが疲れる。悟りを開けば、そうした苦しみから解放されることは、高校生の自分でも納得がいく――当時のトオルは、その時の住職の話をそのように理解した。


 話が終わってからどんなふうに住職と別れ、興福寺の境内を巡ったかはよく覚えていない。次の記憶は大阪市内でタコ焼きを食べ、テーマパークで友人たちとアトラクションの順番待ちをしている場面だし、修学旅行が終わって以降、卒業アルバムを見返すまで、そんな話があったこと自体、すっかり忘れてしまっていた。

 それでも、これほどはっきりと思い出したのは、住職の人柄もあっただろうが、恐らく初めて仏教というものの論理構造に触れたからで、それが多少なりとも興味深いものだったからだろう。


 ◆◇◆


 かねてからの興味もあり、トオルは大学でロボット工学を専攻し、修士課程に進学した今もロボットの研究をしている。彼の所属する研究室が掲げるテーマは、「ロボットに人間の心を宿せるか?」というものだった。134兆個におよぶ変数と、Tech Giantsが教育機関向けに開放しているクラウドサーバーによる「心それ自体の統計的なシミュレーション」という、かなりの力技によるアプローチであったが、言語モデルでも使われていたアプローチだったこともあって、筋がよさそうだというので、トオルを含む学生たちと教授が話し合って決めたものだ。

 センサーの小型化と精度の向上――特に、味覚と嗅覚の受容器の技術革新――によって、研究室のチームが有り合わせの材料で作ったマリオネットサイズの人型ロボットは、少しずつだが着実に感情を宿し始めていた。変数を増やしてコンピューティングリソースに物を言わせて突き進むという、方法としてはシンプルで面白みのかけらもないものであったが、それでもロボットが、便所からの臭いに「不快」を、女子学生が作ってきた毛糸の帽子に「嬉しさ」を感じるようになった時には、研究室中が喜び、普段堅物の准教授までもが踊りだしそうな勢いだった。

 こうした感情や心の解明が、技術的進歩の産物であることには違いない。トオルも、ロボットの研究者として成果を上げたいと思っているからこそ、その成果は非常に喜ばしいものだったのだ。

 だが、数年ぶりに仏教の話を思い出し、トオルは考えずにはいられなかった。

「あのロボットは、本当に幸せなのだろうか」


 人間は今も昔も、自分の心の動きで苦しむ。それは人間であれば恐らく普遍的に当てはまることで、2000年以上も前にその事実を見抜いていた釈迦という人物は、心を動かさない、波立たせないようにせよと説いた。

 あの研究室のロボットができたての頃は――つまり、感情のシミュレーション機能を持たず、五感に相当するセンサーを取り付けただけのただの人形だった頃は、間違いなく、歪みのない、ありのままの現実を観測していた。そしてそれは恐らく、仏教が目指す悟りの境地そのもののはずだったのだ。


 悟りの境地に至ることの出来ない、ごく普通の人間たちの人間性には、良い面も悪い面もある。研究者である前に一人の人間であるトオルも、落ち込むこともあるけれど、楽しいと感じられること――研究で成果が出た時、趣味のゲームでハイスコアが出せた時、ガールフレンドのマドカと過ごすひと時、研究室の友人たちと飲みに行く時――がある。トオルと同じ分野の研究者たちは、その機微をロボットが理解することを善だと信じている。ロボットが人間の友となり仲間となり、彼らが自分たちの隣にいる社会が良いものになるはずだと思っている。そして、人間よりも高い性能を持つ彼らが、人間の友であるためには、人間のことを理解し、共感してもらう必要があるというのが、研究者たちの総意であると言って差し支えない。


 だが一方で、大学院に進まず社会に出て、企業勤めに馴染めず休職しながらセラピーを受けている友人たちのことも、トオルは知っていた。彼らが受けているという認知行動療法は、直面した事実と、そこに生じる感情や解釈を分離することを教え、、振り回されない物事の捉え方を身に着けていくものなのだという。


 今はまだ、「人間的に」未熟なロボットが、いずれ「幸福」と「不幸」を理解するようになった時、彼あるいは彼女は、いったい何を思うのだろう。ロボット工学三原則に制限されたロボットが「不幸」を感じるとき、感情のシミュレーション機能をパージした、センサーが付いただけの人形に戻りたいと、願ったりはしないだろうか。


 来週から研究室では、ロボットに「怒り」と「嫌悪」を学習させる実験が始まる。そして、それを経てなお人間への攻撃性を持たないようにすることまでが目標となっている。

 これから到来するであろう、ロボットたちのいる未来が、結局今の人間社会と同じようなものになりはしないか、と、遥か先の未来をぼんやりと憂い、トオルは卒業アルバムを閉じた。

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