巻128 慕容超

慕容超1 敵地にて

慕容超ぼようちょう、字は祖明そめい慕容徳ぼようとくの兄、慕容納ぼようのうの子だ。なお慕容納は「沈靜深邃」と評されており、穏やかながらも内面は明敏であったという。苻堅ふけん前燕ぜんえんを滅ぼしたとき、慕容納は廣武こうぶ太守に任ぜられたが、数年後に離脱、慕容徳が治めていた張掖ちょうえきに家を構えた。やがて慕容德が苻堅ふけんとともに南征をなすと、金の刀を慕容納の家に託した。


慕容垂ぼようすいえん復活のため立ち上がると、前秦将の苻昌ふしょうが慕容納と慕容徳の諸子を収監、みな殺害。ただし慕容納の母、公孫こうそん氏は老いていたため殺害を免れた。


慕容納の妻のだん氏はまさに慕容超を身ごもっているところであったため、刑が確定せぬまま郡の牢に投げ込まれていた。その牢獄の番人は、呼延平こえんへい。もと慕容徳に仕えており、死罪となったところを慕容徳のとりなしで赦免させられた過去を持つ。過日の恩に報いんと呼延平が脱獄の手引をし、こうして段氏は解放された。


公孫氏、段氏は呼延平の手引きにより後秦に亡命。そのさなかに慕容超が生まれた。慕容超が十歲のとき、祖母の公孫氏が死亡。臨終の床にて、慕容超に金の刀を授け、言う。


「聞けばお前の伯父上がぎょうにて中興の大業を立ち上げられたとか。私はもう病に朽ちゆく身、もはやそれを目の当たりとすることは叶いませぬ。もし世が平和となり、お前が慕容のもとに帰れたならば、この刀をお前の叔父に返すのです」


呼延平は更に段氏、慕容超を引き連れ、呂光りょこうのもとに亡命した。しばらくはそこに腰を落ち着けたものの、やがて呂隆りょりゅうの代に至り、後涼こうりょうが滅亡。涼州りょうしゅうの人の多くは長安ちょうあんの労働人口充当のため移住させられた。その中には慕容超らも含まれていた。そして長安に到着して間もなく、呼延平が死亡。慕容超は十日あまりの間慟哭に暮れた。すると段氏が慕容超に言う。


「私達がこうして身を全うしておれるのは、何よりも呼延平殿のお力によるもの。そのお恵みに答えぬような者に、天も救いの手を差し伸べはしないでしょう。もう彼は亡くなってしまいましたが、ならばせめて、あなたの妻に彼の娘御を迎え入れなさい。そうして、彼よりの恩に報いてほしいのです」


こうして慕容超、呼延氏を嫁に迎え入れる。


長安にあっては、下手に採用されても困ると狂人のふりをし、乞食であるかのよう振る舞った。長安の人々は慕容超のふるまいを蔑んだが、姚興ようこうの叔父である姚紹ようしょうは、慕容超がただ者ではないと見抜いていた。


「慕容超の姿はあからさまに瓌偉、あれはおそらく狂ったふりをしておるだけなのでしょう。やつにはわずかなりの爵位を与え、つなぎ止めておくに越したこともありませぬ」


そのため姚興、慕容超を召喚し、語らい合ってみた。ここで慕容超、全力でアホの子を演じる。時に答えを間違え、時に答えに詰まったふりをする。姚興は呆れ返り、言う。


「諺にもある。麗しき外見のものが愚昧なる内実を備えることもない、とな。全くその通りだ、実に無益な時間であったわ」


このやり取りによって慕容超への警戒は解かれ、その移動にも制限がかけられなくなった。


宗正謙そうせいけんという人が東方よりやって来て、長安の路上で占いを行っていた。なので慕容超も見て貰うことにする。宗正謙、慕容超の人相がただ者ではないと見て取った。やがて慕容超の所在を知った慕容徳から出迎えの使者、呉弁ごべんが派遣される。彼は宗正謙と同郷であったため、そのつてで慕容超と繋がりを持つことができた。南燕に招聘されると慕容超、妻にも母にも告げず出立。関所では張伏生ちょうふくせいと名乗り、通過。二十日後に梁父りょうほに到着した。


慕容徳に出会ったところで、祖母より拝領した金刀を慕容徳に示し、祖母の言葉をつぶさに語る。すると慕容徳は金刀を受け取り、撫でさすると、慟哭するのだった。




慕容超字祖明,德兄北海王納之子。苻堅破鄴,以納為廣武太守,數歲去官,家於張掖。德之南征,留金刀而去。及垂起兵山東,苻昌收納及德諸子,皆誅之。納母公孫氏以耄獲免,納妻段氏方娠,未決,囚之於郡獄。獄掾呼延平,德之故吏也,嘗有死罪,德免之。至是,將公孫及段氏逃於羌中,而生超焉。年十歲而公孫氏卒,臨終授超以金刀,曰:「若天下太平,汝得東歸,可以此刀還汝叔也。」平又將超母子奔于呂光。及呂隆降于姚興,超又隨涼州人徙于長安。超母謂超曰:「吾母子全濟,呼延氏之力。平今雖死,吾欲為汝納其女以答厚惠。」於是娶之。超自以諸父在東,恐為姚氏所錄,乃陽狂行乞。秦人賤之,惟姚紹見而異焉,勸興拘以爵位。召見與語,超深自晦匿,興大鄙之,謂紹曰:「諺雲'妍皮不裹癡骨',妄語耳。」由是得去來無禁。德遣使迎之,超不告母妻乃歸。及至廣固,呈以金刀,具宣祖母臨終之言,德撫之號慟。


慕容超は字を祖明、德が兄の北海王の納の子なり。苻堅の鄴を破るに、納を以て廣武太守と為すも數歲にして官を去り、張掖に家す。德の南征せるに、金刀を留め去る。垂の山東に起兵せるに及び、苻昌は納、及び德が諸子を收め、皆な之を誅す。納が母の公孫氏は耄を以て免ぜるを獲、納が妻の段氏は方に娠じ、未だ決さず、之を郡獄に囚む。獄掾は呼延平、德の故吏にして、嘗て死罪有れど德が之を免ず。是に至り、將に公孫、及び段氏は羌中に逃れんとし、而して超を生みたり。年十歲にして公孫氏は卒し、臨終にて超に以て金刀を授け、曰く:「若し天下の太平となり、汝の東歸を得るに、此の刀を以て汝が叔に還ずべきなり」と。平は又た超が母子を將い呂光に奔ず。呂隆の姚興に降ぜるに及び、超は又た涼州人に隨いて長安に徙る。超が母は超に謂いて曰く:「吾が母子の全く濟くるは、,呼延氏の力なり。平の今に死したりと雖ど、吾れ汝に其の女を納めるを以て厚惠に答うるを為すべく欲す」と。是に於いて之を娶る。超は自らを以て諸父の東に在り、姚氏に錄さる所為るを恐れ、乃ち狂を陽りて乞を行ず。秦人は之を賤しむも、惟だ姚紹は見て異とし、興に以て爵位を拘ずべく勸む。召して與に語るを見らば、超は深く自ら晦匿し、興は大いに之を鄙じ、紹に謂いて曰く:「諺に雲えらく、妍皮は癡骨に裹せず。妄語なるのみ」と。是に由し去來に禁ず無きを得る。德は使を遣りて之を迎えしめ、超は母妻に告げず乃ち歸す。廣固に至れるに及び、呈ずるに金刀を以てし、祖母が臨終の言を具さに宣ぶらば、德は之を撫し號慟す。


(晋書128-1_傷逝)


○十六国春秋

納沈靜深邃,外訥內敏。

聞汝伯已中興於鄴都,吾朽病將沒,相見理絕。若天下太平,汝得東歸,當以此刀還汝伯也。

未幾,平卒,超號慟經旬,

惠而不報,天不佑人。

言於姚興曰:慕容超姿乾瓌偉,殆非真狂,願微加爵祿以羈縻之。

興召見與語,超深自晦匿,故為謬對,或問而不答。

濟陰人宗正謙善卜相,西至長安,賣卜於路,超行而見之,因就謙相。謙奇其姿貌,超乃內斷於心。

備德聞納有遺腹子在秦,遣濟陰呉辯潛往視之,辯因宗正謙以告超,

超不敢告母妻,潛變姓名,與謙俱歸,至諸闗禁,自稱張伏生,二十日始達梁父。




慕容超と言えば佞臣の公孫五楼こうそんごろうの言葉を鵜呑みにして国を滅ぼした、とされます。そうするとその前段で公孫氏がもっと重く扱われそうなのかなーと思いましたが、ところがどっこい、ここで存在感がでかいのは呼延氏でしたね。


呼延氏とか公孫氏は、どっちかってと匈奴きょうど系の匂いが強く漂います。また公孫氏については北魏で存在感を示してたりもします。この辺を見てると、鮮卑と匈奴ってどう線引きしたもんかなぁ、って迷うんですよね。まぁ、この辺の流動性が高い時代にあっては、あんまり変に「五胡」って括りにこだわり過ぎないほうがいいんでしょう。生きるために全力をつくしたあのひと、このひと。そういう観点を保っておくのがいい。


それにしても段氏の呼延平への思いにはただならぬものがあって良いですね? そしてあえて「母と妻を放棄した」と書かれているのにも妄想が進んで良いですね?

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