慕容超2 いきなりヤバい

慕容超ぼようちょうは身長 190cm 近く、腰回りも九圍におよぶ。引き締まった顔つきにつややかな髪、誰もが立ち止まって見てしまうほど。慕容德ぼようとくは盛大に慕容超をもてなしたが、思わず「なるほど、これが超常のひとか!」と、どうやらうっかり諱を犯してしまったようである。


ともあれ慕容納ぼようのうの旧爵である北海ほっかい王に封じられ、また侍中、驃騎大將軍、司隸校尉に任じられた。更には驃騎將軍府が設置され、補佐官たちもつけられる。初対面の甥に対し、ずいぶんな大盤振る舞いである。


というのも、前話にあった通り慕容徳の子らは殺し尽くされており、また段季妃だんきひとの間に男児はいなかった。そのため慕容超を後継者とするべく動いていたのだ。萬春門ばんしゅんもん內には慕容超のための屋敷も建て、日夜訪問する。慕容超も心得たもので、慕容徳とのコミュニケーションには最善を尽くし、また退出したあとにも将来の臣下たちに礼を尽くした。このため内外では慕容超を称賛する声が多く上がった。立太子も当然の流れであった。


そして404 年、慕容徳が死亡。帝位につき、大赦をなし、太上たいじょうと改元。ここで以下のように任官した。


 段季妃。皇太后。

 慕容鐘ぼようしょう。都督中外諸軍、錄尚書事。

 慕容法ぼようほう。征南将軍、都督四州諸軍事。

 慕容鎮ぼようちん。開府儀同三司、尚書令。

 封孚ふうふ。太尉。

 鞠仲きくちゅう。司空。

 潘聰はんそう。左光祿大夫。

 封嵩ふうすう。尚書左僕射。

 慕容惠ぼようけい。司徒。

 慕容凝ぼようぎょう。尚書右僕射。


また、合わせて公孫五樓こうそんごろうを腹心として引き入れ、側においた。これを不安視したのが慕容鐘、それと段宏だんこうである。彼らは宮中にいることを危ぶみ、外勤を願い出る。そこで慕容鐘は青州せいしゅう牧、段宏は徐州じょしゅう刺史とされた。これら人事を見て、封孚が慕容超に言う。


左伝さでんにも記されております、五大不在邊、五細不在庭。信任に値する重臣がそばに居らず、また国の将来を担うべき者たちが宮廷内にいない。この状態は極めて危うくございます。慕容鐘はこの国を支えてきた宗室の重鎮、段宏は外戚として将来を担いうる身、その将来を嘱望されております。こういった者たちにこそ士庶を総督させるべきであり、地方鎮守などをやらせるべきではありません。だと言うのに慕容鍾らは出鎮、そして内には公孫五樓。不安しか覚えられませぬ」


とはいえ慕容超、慕容鐘らの専断こそが警戒の対象である。なので対処を公孫五樓と相談していた。問題は、その公孫五樓こそが朝政の專斷を目論む害物だったことだ。そのため慕容鐘らを引き戻すことに反対し、また慕容超には猜疑心を煽るようなことを吹き込む。このため封孚の建言は実現しなかった。


このような状態になれば、当然慕容鐘、段宏も不満を抱く。そしてふたりでこんなことを語り合っている。


「どこぞの野良犬の皮でかの艷やかなる狐の毛皮を修繕せねばならぬことになりそうだ!」


この話が公孫五樓の耳にも入り、否応なしに両者間の溝は広がってゆくのだった。




超身長八尺,腰帶九圍,精彩秀髮,容止可觀。德甚加禮遇,始名之曰超,封北海王,拜侍中、驃騎大將軍、司隸校尉,開府,置佐吏。德無子,欲以超為嗣,故為超起第于萬春門內,朝夕觀之。超亦深達德旨,入則盡歡承奉,出則傾身下士,於是內外稱美焉。頃之,立為太子。及德死,以義熙元年僭嗣偽位,大赦境內,改元曰太上。尊德妻段氏為皇太后。以慕容鐘都督中外諸軍、錄尚書事,慕容法為征南、都督徐、兗、揚、南兗四州諸軍事,慕容鎮加開府儀同三司、尚書令,封孚為太尉,鞠仲為司空,潘聰為左光祿大夫,封嵩為尚書左僕射,自余封拜各有差。後又以鐘為青州牧,段宏為徐州剌史,公孫五樓為武衛將軍、領屯騎校尉,內參政事。封孚言於超曰:「臣聞五大不在邊,五細不在庭。鐘,國之宗臣,社稷所賴;宏,外戚懿望,親賢具瞻。正應參翼百揆,不宜遠鎮方外。今鍾等出籓,五樓內輔,臣竊未安。」超新即位,害鐘等權逼,以問五樓。五樓欲專斷朝政,不欲鐘等在內,屢有間言,孚說竟不行。鐘、宏俱有不平之色,相謂曰:「黃犬之皮恐當終補狐裘也。」五樓聞之,嫌隙漸遘。


超は身長八尺、腰帶九圍にして精彩秀髮、容止は觀らるべし。德は甚だ禮遇を加え、始め之を名して曰く超とし、北海王に封じ、侍中、驃騎大將軍、司隸校尉を拜し、開府し佐吏を置かしむ。德に子無かれば、超を以て嗣為らしめんと欲し、故に超が為に第を萬春門內に起て、朝夕に之を觀る。超も亦た深く德が旨に達し、入らば則ち承奉を盡歡し、出づらば則ち下士に傾身す。是に於いて內外は美を稱う。之の頃、立てられ太子為る。德の死せるに及び、義熙元年を以て偽位を僭嗣し、境內に大赦し、改元して太上と曰う。德が妻の段氏を尊び皇太后為る。慕容鐘を以て都督中外諸軍、錄尚書事とし、慕容法を征南、都督徐、兗、揚、南兗四州諸軍事と為し、慕容鎮に開府儀同三司、尚書令を加え、封孚を太尉と為し、鞠仲を司空と為し、潘聰を左光祿大夫と為し、封嵩を尚書左僕射と為し、自余の封拜に各おの差有り。後に又た鐘を以て青州牧と為し、段宏を徐州剌史と為し、公孫五樓を武衛將軍と為し、屯騎校尉を領ぜしめ、政事に內參せしむ。封孚は超に言いて曰く:「臣は聞く、五大の邊に在らず、五細の庭に在らずと。鐘は國の宗臣にして社稷の賴る所、宏は外戚の懿望,にして親賢は具さに瞻ず。正に應に百揆を參翼せしめ、宜しく遠く方外に鎮ぜしむべからず。今、鍾らの出籓し、五樓の內輔せるは、臣の竊うに未だ安んぜず」と。超は新たに即位せるに、鐘の權に逼るを害し、以て五樓に問う。五樓は朝政を專斷せんと欲さば、鐘らの內に在すを欲さず、屢しば間言有らば、孚が說は竟に行われず。鐘、宏は俱に不平の色有り、相い謂いて曰く:「黃犬の皮、恐るらくは當に終に狐裘を補したらんなり」と。五樓は之を聞き、嫌隙が漸く遘ず。


(晋書128-2_仇隟)


○十六国春秋

樂浪王惠為司徒,封嵩為尚書左僕射,濟陽王凝為右僕射,自餘文武拜授各有差。超復引公孫五樓任為腹心,乃其所親信也。備德故大臣段宏及北地王鍾等皆不自安,求補外職,乃以宏為徐州刺史,鍾為青州牧。




う、うん、まぁ……慕容鐘に譲る、以外の道はなかったと思うんですよね、正直? そしたらたぶん劉裕としてもかなりしんどかったんじゃないかしら。明末〜清初のひと王夫之は「劉裕に至るまでにまともに南燕討伐の声が上がんなかったとかどないやねん」と激高していますが、いやいや声は上がってたでしょうよ、ただ「慕容超のおかげで」攻略難度が下がったんでしょうに……とゆうね。


っつーか、そりゃ慕容鐘にしてみりゃ昨日今日やってきたぽっと出にいきなり君主になられても納得いかんでしょう。せめてお飾りにできるような措置を慕容徳の段階で取らなきゃいけなかったろうに、と思うのです。それで慕容鐘に大権もたせられるようにすれば、まだ違ったのではないかしら。まぁ、無意味なたらればですけれど。

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