慕容徳6 鄴脱出

慕容垂ぼようすいの息子、慕容麟ぼようりん義台ぎだいからぎょうに逃れてきた彼は、慕容徳ぼようとくに言う。


中山ちゅうざんは既に陥落、はこのまま鄴にも攻め込んでまいりましょう。ここには確かに兵糧が山積しておりますが、なにぶん広すぎて守りを固めようがない。加えて人々の動揺も無視しきれません。これで戦うのは至難と言えましょう。

 魏軍がここに到達するよりも前に、人々を率いて黄河こうがを渡り、滑台かつだい慕容和ぼようわと組んで兵力、兵糧を集め、敵方の隙を見計らい、仕掛ける。これが上策であります。

 魏は中山こそ抜きましたが、いつまでもその威勢を保ってもおれますまい。劫略をするだけしたら、引き返しましょう。ひとは強制移住なぞ好みません。ならば人手をさらえば、不和が生まれるのは自明の理。ここに兵を当て、政変を助長するのが良い。そうすれば魏軍は内側から崩壊し、外から出来の攻撃を受けることになります。また旧来より燕の恩に浴してきた者たちも、その攻撃に協賛してまいりましょう。ここでさらに、各地に散らばった旧燕の遺児たちに呼びかけ、糾合するのです。さすればたやすく魏軍を撃破できましょう」


この発言よりも前、他ならぬ慕容和からも慕容徳を招聘する声が上がっていた。なので慕容徳、腰を上げる。ときに 399 年のことだ。四万世帯、車も二万七千台が鄴を出発した。


しかし折悪しく、大風に遭い船が沈没してしまう。ここにもたらされるのが、魏軍接近の報。人々は恐懼し、黎陽れきように引き返して迎え撃つべきではないのか、と言う。しかしその夜に黄河が氷結、なんと人々が渡れてしまった。翌朝になると、果たして魏軍が氷の溶けた河畔に到達。人々は神の奇跡が起きたかのようだ、と語った。そこで黎陽津を天橋津てんきょうしんと改名することにした。


滑台に到着したところで、吉兆の星が宿、宿の間に現れる。また漳水しょうすいでは玉璽のような形状の白玉が発見された。そこで慕容德はこれが燕建国の瑞祥に同期するということで、独自元号を立てる。そして大赦をなし、百官を設置。慕容麟を司空兼尚書令とし、慕容法ぼようほうを中軍將軍に、慕輿拔ぼよばつを尚書左僕射に、丁通ていつうを尚書右僕射とし、それ以外の臣下にも功績に応じた爵位を下賜した。


一方の慕容麟である。彼は河間かかん麒麟きりんの目撃情報を聞く。これは自らにとっての瑞祥に違いないと思い、と謀反を企み始めた。ただしこれは間もなく露見したため、処刑された。同年夏、魏將の賀賴盧がらいろが兵を率いて慕容徳のもとに投降してきた。




徳兄子麟自義台奔鄴,因說德曰:「中山既沒,魏必乘勝攻鄴,雖糧儲素積,而城大難固,且人情沮動,不可以戰。及魏軍未至,擁眾南渡,就魯陽王和,據滑台而聚兵積穀,伺隙而動,計之上也。魏雖拔中山,勢不久留,不過驅掠而返。人不樂徙,理自生變,然後振威以援之,魏則內外受敵,使戀舊之士有所依憑,廣開恩信,招集遺黎,可一舉而取之。」先是,慕容和亦勸德南徙,於是許之。隆安二年,乃率戶四萬、車二萬七千乘,自鄴將徙於滑台。遇風,船沒,魏軍垂至,眾懼,議欲退保黎陽。其夕流澌凍合,是夜濟師,旦,魏師至而冰泮,若有神焉。遂改黎陽津為天橋津。及至滑台,景星見於尾箕。漳水得白玉,狀若璽。於是德依燕元故事,稱元年,大赦境內殊死已下,置百官。以慕容麟為司空、領尚書令,慕容法為中軍將軍,慕輿拔為尚書左僕射,丁通為尚書右僕射,自余封授各有差。初,河間有麟見,慕容麟以為已瑞。及此,潛謀為亂,事覺,賜死。其夏,魏將賀賴盧率眾附之。


徳が兄の子の麟は義台より鄴に奔り、因りて德に說きて曰く:「中山の沒に既せるに、魏は必ずや勝に乘じ鄴を攻めん。糧儲の素より積まると雖ど、而して城の大きく固むに難く、且つ人情沮動せば、以て戰うべからず。魏軍の未だ至らざるに及び、眾を擁し南渡し、魯陽王の和に就き、滑台に據し兵を聚め穀を積み、隙を伺がいて動く、計の上なり。魏は中山を拔いたると雖ど、勢は久しく留まざれば、驅掠し返ぜるに過ぎず。人は徙を樂しまざれば、理として自ら變を生ぜん。然る後に威を振い以て之を援ざば、魏は則ち內外に敵を受く戀舊の士をして依憑せる所有せしめまば、廣く恩信を開じ、遺黎を招集し、一舉にて之を取りたるべし」と。是の先、慕容和も亦た德に南徙を勸め、是に於いて之を許す。隆安二年、乃ち戶四萬、車二萬七千乘を率い、鄴より將に滑台に徙らんとす。風に遇い、船が沒し、魏軍の至れるに垂んとし、眾は懼れ、議し退りて黎陽を保たんと欲す。其の夕に流澌は凍合し、是の夜に師は濟り、旦、魏師は至れど冰は泮じ、神有りたるが若し。遂に黎陽津を改め天橋津と為す。滑台に至れるに及び、景星が尾箕に見ゆ。漳水は白玉を得、狀は璽が若し。是に於いて德は燕元故事に依り、元年を稱し、境內の殊死已下を大赦し、百官を置く。以て慕容麟を司空、領尚書令と為し、慕容法を中軍將軍と為し、慕輿拔を尚書左僕射と為し、丁通を尚書右僕射と為し、余を自ら封授せるに各おの差有り。初、河間に麟の見れる有り、慕容麟は以て己がに瑞と為す。此に及び、潛かに亂を為さんと謀れど、事は覺し、死を賜る。其の夏、魏將の賀賴盧は眾を率い之に附す。


(晋書125-6_術解)




この辺の記述から感じられるのは、南燕の歴史を著した人々の苦心でございますね。前条で「慕容徳の軍略によって城内の動揺が収まった」って書かれてるのに、麟ちゃん容赦がないです動揺が全く収まっていない。どーすんのこれ。


「皇帝の事績を悪し様に書くわけにはいかない」+「さりとて発言を歪めるのもなぁ……」=「ええい、このままいったれ!」という感じでしょうかね。つらい。


ここまでの記述を素直に信じると、慕容徳は徳行溢れる人物でした、で通じる気はするのです。問題はこっからあとだよなぁ。どんどん不思議行動が目立ってくる。これはピーターの法則が働いてる感じなんですかね?


にしても慕容麟のここでの動きが不思議で仕方ないです。なんかあっさり殺されすぎじゃない? これ本当に謀反企てたの? とすら疑ってしまいますですよ……。

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