姚萇24 釈僧䂮 上   

釈僧䂮しゃくそうりゃく

姓は氏、北地ほくち泥陽でいようの人だ。

つまり魏晋期の傅嘏ふかや晋の傅玄ふげん傅咸ふかん

劉宋りゅうそう傅亮ふりょうとかと同族である。


父は傅遐ふか河間かかん郎中令であったという。

その嫡男であったが、さくっと出家。

長安大寺ちょうあんだいじ弘覚こうかくの弟子となった。

なお弘覚は時のトップ僧の一人である。


僧䂮ははじめ弘覚の下で修行し、

その後青州せいしゅう司州ししゅう

襄陽じょうよう付近の川である樊水はんすい沔水べんすい

辺りを遊学して回った。


六經と三藏に通じ、戒律に従い勤勉清直、

仏教を広めることに精勤した。


そのため、その名は早くから

姚萇ようちょう姚興ようこうの耳にも届いていた。

そして彼を重んじていたのだが、

姚萇が関中で覇権を握るに至り、

ついに招聘された。


姚興は敬虔な仏教信者であったから、

姚興が姚萇の後を継ぐと、

関中で仏教が一気に広まる。

齋會をなせばその煙が幾重にも重なる、

と言った状態。


長安に十の家があれば、

そのうちの五が帰依する、

と言った勢いだった。




釋僧䂮,姓傅氏,北地泥陽人,晉河間郎中令遐之元子也。少出家,止長安大寺,為弘覺法師弟子。覺亦一時法匠。䂮初從受業,後遊青、司、樊、沔之間。通六經及三藏,律行清謹,能匡振佛法。姚萇、姚興早挹風名,素所知重,及僭有關中,深相頂敬。興既崇信三寶,盛弘大化,建會設齋,烟蓋重疊,使夫慕道捨俗者,十室其半。


釋僧䂮、姓は傅氏、北地の泥陽の人にして晉の河間郎中令の遐の元子なり。少きに出家し、長安大寺に止し、弘覺法師が弟子と為る。覺は亦た一時の法匠なり。䂮は初め業に從受し、後に青、司、樊、沔の間に遊ぶ。六經、及び三藏に通じ、行を清謹に律し、能く佛法を匡振す。姚萇、姚興は早きに風名を挹せば、素より知り重んぜらる所たれば、關中を僭有せるに及び、深く相い頂敬す。興は既に三寶を崇信し、盛んに大化を弘めんとせば、會を建て齋を設け、烟蓋重疊にして、夫をして道を慕い俗を捨てしむ者は十室を其れ半ばす。

(高僧伝2-29_政事)




うーんいろんな所から感じるナマグサ感。北地傅氏、つまり魏晋期にがっつり政権に絡んだ学者の家系出身というのがまた。ちなみに父の傅遐がついていた河間郎中令というのは、河間王の郎中、つまり付き人のまとめ役、みたいな感じになるそうです。で、岩波高僧伝はここで司馬顒しばぎょうを挙げてます。えっ待って八王のトリックスター!? やや世代離れてない!?


晋書で調べてきたら、306 年の司馬顒の死後、司馬融しばゆうが河間王を継承、307 年に一度樂成がくせい王に転封となり、司馬融が死んで司馬欽しばきんが継承、331 年に河間王に戻ってる。その司馬欽の死亡が 365 年。


僧䂮は 416 年に 73 歳で死亡だから、343 年生まれ。そうやって計算してみれば、まぁ司馬欽についてた人だ、ってことになりそうです。そうすると今度は江南の名族がなんで長安に出たのか、なんですよねえ。うーんわからん。けど生臭さはひしひしと感じるのでした。

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