仏陀耶舍7 友なき長安で 

ブッダヤシャスは、かねてより

曇無德律どんむとくりつ』を暗唱していた。

これの漢語訳が欲しいと思った

司隸校尉しれいこうい姚爽ようそうは、その訳出事業を

始めたい、と姚興ようこうに上表。

しかし姚興、ブッダヤシャスの

頭の中にのみあるものが、

本当に正しい言葉であるのか?

と疑っていた。


そこでブッダヤシャスに対し、

テストを課した。内容は羌族きょうぞくに伝わる

薬草の処方の仕方にまつわる経典、

およそ五万文字の暗誦。


経典を渡されて二日後、本を伏せた上で

ブッダヤシャスは五万字を完走。

一文字のミスもなかった。

人々はその暗記能力に

心底敬服するのだった。


こうして 410 年から『曇無德律』の

訳出事業が開始される。

曇無德律は、別名『四分律しぶんりつ』。

全四十四卷である。

同時に『長阿含ちょうあごん』なども訳出された。


各経典をブッダヤシャスが

いちど罽賓けいひんの言葉で譯出し、

さらにそれを涼州りょうしゅう僧の竺佛念じくふつねん

漢語に置き換え、道含どうがんが書き留める。


このやり方で、三年。

413 年に事業が達成されると、

その功績をたたえ、

姚興はブッダヤシャスに

布絹一万疋を下賜しようとしたが、

ブッダヤシャスはそれを拒否した。


そのため布絹は道含と佛念に千疋ずつ、

残りは長安ちょうあんの名僧ら五百人に分配された。


やがてブッダヤシャスは、

長安より離れる。

そして故郷の罽賓で

虛空藏經こくぞうきょう』一卷を入手すると、

それを商人に託し、

涼州の僧に渡して欲しい、と依頼した。


その後、どこで死んだかは不明である。




耶舍先誦『曇無德律』,偽司隸校尉姚爽請令出之,興疑其遺謬,乃試耶舍,令誦羌籍藥方可五萬言經。二日,乃執文覆之,不誤一字,眾服其強記。即以弘始十二年譯出『四分律』,凡四十四卷,並出『長阿含』等。涼州沙門竺佛念譯為秦言,道含筆受。至十五年解座,興贈耶舍布絹萬疋,悉不受,道含、佛念布絹各千疋,名德沙門五百人,皆重贈施。耶舍後辭還外國,至罽賓得『虛空藏經』一卷,寄賈客,傳與涼州諸僧,後不知所終。


耶舍は先に『曇無德律』を誦し、偽司隸校尉の姚爽は令し之を出だしめんと請えど、興は其の遺謬を疑う。乃ち耶舍を試みに令し羌籍の藥方の五萬言ばかりの經を誦せしむ。二日にして、乃ち文を執りて之を覆えど、一字の誤りなく、眾は其の強記に服す。即ち弘始十二年を以て『四分律』凡そ四十四卷を譯出し、並べて『長阿含』等を出す。涼州の沙門の竺佛念は譯し秦言と為せば、道含は筆を受く。十五年に至りて解座せば、興は耶舍に布絹萬疋を贈れど悉く受けず、道含、佛念に布絹を各おの千疋、名德の沙門五百人に皆な重ね贈施す。耶舍は後に辭し外國に還し、罽賓に至りて『虛空藏經』一卷を得、賈客に寄せ、涼州の諸僧に傳與す。後の終なる所を知らず。


(高僧伝2-21_言語)




クマーラジーヴァの没年は 407 408 411 年説とそれぞれあるわけですが、そのどれにしてもこの辺の話はクマーラジーヴァ没後の話になるんですね。となると原文中に出てくる「姚爽」はこれ、姚顕ようけんあたりのことなのかなあ。晋書にはこの名前の人物が出てこないんですよね。近い音の人物と言えば姚崇ようすうですが、この人も 412 年の段階では死んじゃってるはずですし。謎。


というかブッダヤシャス、クマーラジーヴァ在世中はずっと長安にいたのか……けどクマーラジーヴァは「ともに仏法を追求できるだけの者はいない」とか言ってたんだな……つらみ。

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