仏陀耶舎6 恬淡の日々  

長安ちょうあんにやってきたブッダヤシャスの元に、

姚興ようこうは自ら挨拶に出向き、

更にブッダヤシャスのために

新たな寺院を逍遙園しょうようえんに建てた。

その寺院にて衣食、飲食、寝具、薬湯が

ブッダヤシャスにもたらされたが、

それらには全く関心を示さず、

長安に出て乞食し、そこで得た一食を

摂るのみであった。


この頃、クマーラジーヴァは

『十住經』に一月ほどかかっていたが、

いまいちしっくり来る言葉がなく、

なかなか執筆には取りかかれずにいた。


そこにブッダヤシャスがやって来ると、

経典の内容を共に吟味、

そしてあっさりと訳出文が決定する。

この様子を見た仏僧や官僚たち三千人は

このお方ヤベエと痛感した。


ブッダヤシャスは赤ひげを蓄え、また

毗婆沙びばしゃ』の解釈に長けていたた。

なので時の人はブッダヤシャスを

赤髭毗婆沙あかひげびばしゃ」と呼んだ。

またクマーラジーヴァの

師という立場でもあったため、

大毗婆沙だいびばしゃ」と呼ばれることもあった。


ブッダヤシャスの家には、

寄進された衣鉢や寝具が積み重なる。

なにせ一切手を付けないからだ。

それを見た姚興、一旦溜まった家具類を

すべて売却したうえ、長安城の南に

ブッダヤシャスのための寺を建てた。




興自出侯問,別立新省於逍遙園中,四事供養,並不受,時至分衛,一食而已。于時羅什出『十住經』,一月餘日,疑難猶豫,尚未操筆。耶舍既至,共相徵決,辭理方定,道俗三千餘人,皆歎其當要,舍為人赤髭,善解『毗婆沙』,時人號曰「赤髭毗婆沙」。既為羅什之師,亦稱大毗婆沙。四事供養,衣鉢臥具,滿三間屋,不以關心,姚興為貨之,於城南造寺。


興は自ら出で侯問し、別に新省を逍遙園中に立つるも、四事の供養は並べて受けず、時に分衛に至り、一食せるのみ。時に羅什の『十住經』を出だせるに一月餘日、疑難は猶お豫り、尚お未だ筆を操せず。耶舍の既に至るに、共に相い徵決し、辭理の方に定まらんとせるに、道俗三千餘人は皆な其の要に當るに歎じ、舍が為人の赤髭にして、善く『毗婆沙』を解せば、時人は號して「赤髭毗婆沙」と曰う。既に羅什が師為れば、亦た大毗婆沙と稱す。四事の供養の衣鉢や臥具は三間の屋に滿つれど、以て心に關せず、姚興は之を貨と為し、城が南に寺を造る。


(高僧伝2-20_為人)




ところで今更なんですけど、この感じだ姚興の時代には長安って「常安じょうあん」とはもう呼ばれてなかった、つまり姚萇の時代の避諱はすでになさそうですね。あくまで姚萇の時代にのみ避けられれば良い、そんな感じだったのかもしれません。後の世になると避諱はだいぶピーキーにもなってきますが、少なくとも後秦こうしんではそこまでガッチガチだった、というわけではなさそう。いやどうなのかな、このへんは当時の政令とかが載る考古史料とかが発掘されないとはっきりとしたところはわからなさそう。


それにしてもこの頃のブッダヤシャスは普通に乞食してるんですね。もうすでに長安にある経典はすべて理解しちゃってるから、なんでしょうか。


クマーラジーヴァの師匠筋と言うとヴィマラークシャも過去には出てきましたが、そういった人との接触はどんなものだったんでしょうね。なんかあんまり関わり持ちそうにないけど。

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