羅什9  長安入り    

クマーラジーヴァは

ながらくりょうの地にとどまったが、

なにせ呂光りょこう親子に仏教を

広めようとする気がない。

だから経典の学びこそ蓄積させたものの、

まるで布教はできずにいた。

しかも、そもそものきっかけであった

苻堅ふけんがすでに死亡。会えていない。

涼時代の胸中、お察しである。


その頃長安ちょうあんでは、姚萇ようちょうが覇権を取った。

クマーラジーヴァが涼州にいると聞き、

ねんごろな招聘の書を届けている。

が、後涼サイドとしてみれば、

あらゆる物事に深く通じている彼を

姚萇のもとに送り届ければ、

その参謀に収まってしまうのではないか、

と気が気でない。なので、

クマーラジーヴァの東下を認めなかった。


やがて姚萇が死に、姚興ようこうが継ぐ。

仏教徒である姚興にしてみれば、

クマーラジーヴァはぜひ迎え入れたい。


401 年3月、長安ちょうあん城の庭園で二つの木が

その枝葉を絡ませあった。

また逍遙園しょうようえんではねぎうどに変わった。

これらの現象を瑞祥であるとした。

知を持てるものの入国を示す、と。


5月。姚興は姚碩德ようせきとくに後涼を攻撃させ、

呂隆りょりゅう軍を大破。その年の 9 月には

呂隆を降伏させて後涼を滅ぼし、

クマーラジーヴァを獲得。

12 月 20 日が、長安入り記念日である。

獲得(腕力)……。


クマーラジーヴァに対する姚興の扱いは、

国師。つまり国の行く末を導く僧として。

なので最上の礼で遇されたし、

甚大な寵愛を得た。


両者は議論の限りを尽くし、

日がな一日を過ごす。

その議論はどんどん奥深き境地にいたり、

年明け以降も、飽くことなく続けられた。




什停涼積年,呂光父子既不弘道,故蘊其深解,無所宣化,符堅已亡,竟不相見。及姚萇僭有關中,聞其高名,虛心要請,諸呂以什智計多解,恐為姚謀,不許東入。及萇卒,子興襲位,復遣敦請。興弘始三年三月,有樹連理,生于廣庭,逍遙園蔥變為茞,以為美瑞,謂智人應入。至五月,興遣隴西公碩德西伐呂隆,隆軍大破。至九月,隆上表歸降,方得迎什入關,以其年十二月二十日至于長安。興待以國師之禮,甚見優寵。語言相對,則淹留終日,研微造盡,則窮年忘倦。


什の涼に停まること積年、呂光父子の既に道を弘めず、故に其の深解を蘊むるも、宣化せる所無くして、符堅も已に亡かれば、竟に相見えず。姚萇は關中に僭有るに及び、其の高名を聞かば、虛心に要請せど、諸呂は什の計に智にして解に多なるを以て、姚が謀為るをれ、東入を許さず。萇の卒し子の興の襲位せるに及び、復た敦く遣りて請う。興が弘始三年三月、樹に連理有れるの廣庭に生え、逍遙園が蔥の變じ茞為るを以て美瑞と為し、智人の應に入らんとせるの謂いとす。五月に至り、興は隴西公の碩德を遣りて西に呂隆を伐ち、隆が軍を大破す。九月に至り、隆は上表し歸降せば、方に什を迎え入關せしむるを得、其の年の十二月二十日を以て長安に至る。興は國師の禮を以て待し、甚だ優寵を見る。語言相對せるに、則ち終日淹留し、研微の造盡くせば、則ち年の窮むるまで倦を忘る。


(高僧伝2-9_寵礼)




姚興さん「クマーラジーヴァくれないなら殴るねっ☆」


苻堅といい姚興と言い、こいつら人ぶん殴んのに躊躇ねーな。この遠征で死んだ人たちって……。

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