晋書載記 後秦
巻119 姚泓
姚泓1 孝友寬和のひと
その性格は友に尽くし、温和。
一方で政治向きの性分ではなかった。
また病がちでもあったため、
姚興は後継者としての資質を疑っていた。
が、やがては皇太子に。
姚興が征伐や国内視察に出る時は、
つねに
姚泓は学者肌の人であった。
広く書籍にあたり、談論を好み、
中でも詩を詠むのが好きだった。
あるとき、
刑法が緩すぎるので厳しくしたい、
という議題を持ち出してくる。
姚泓は言う。
「屈辱を受ければ怒り憎しみがわき、
苛烈な政からはルール違反が生じる。
上の者が下の者を導くのは、風が
草をなびかせるようでなければならぬ。
あなた方が朝政に参与なさるのは
広く政の規範を示すことであろう。
その寛容さを示すこともなく、
いたずらに罰則を厳しくしようとは、
国を安らげ、民を導くものの
理屈であるとは、到底言えぬ!」
なので王敏らはこの提案を撤回した。
姚泓は經典を
その淳于岐が、病に倒れる。
すると姚泓は自ら見舞いに参上し、
ベッドの下から淳于岐を拜した。
これ以後、公侯以上の者でも
恩師のもとに訪問する者は、
みな拝礼するようになったと言う。
姚泓,字元子,興之長子也。孝友寬和,而無經世之用,又多疾病,興將以為嗣而疑焉。久之,乃立為太子。興每征伐巡遊,常留總後事。博學善談論,尤好詩詠。尚書王尚、黃門郎段章、尚書郎富允文以儒術侍講,胡義周、夏侯稚以文章遊集。時尚書王敏、右丞郭播以刑政過寬,議欲峻制,泓曰:「人情挫辱,則壯厲之心生;政教煩苛,則苟免之行立。上之化下,如風靡草。君等參贊朝化,弘昭政軌,不務仁恕之道,惟欲嚴法酷刑,豈是安上馭下之理乎!」敏等遂止。泓受經于博士淳于岐。岐病,泓親詣省疾,拜於床下。自是公侯見師傅皆拜焉。
姚泓、字は元子、興の長子なり。孝友寬和なれど、經世の用無く、又た疾病多かれば、興は將に以て嗣と為さんとせるも疑う。之に久しく、乃ち為太子に立つ。興の征伐や巡遊の每、常に留まり後事を總ず。學に博く談論に善く、尤も詩詠を好む。尚書の王尚、黃門郎の段章、尚書郎の富允文は儒術を以て侍講し、胡義周、夏侯稚は文章を以て遊集す。時に尚書の王敏、右丞の郭播は刑政の寬なるの過ぎたるを以て、制を峻ぜんと欲せるを議さば、泓は曰く:「人情は挫辱せば則ち壯厲の心生ぜん。政教の煩苛なるは、則ち苟免の行を立てん。上の下に化すは、風の草を靡かずが如し。君らは朝化に參贊し、弘く政軌を昭らかとし、仁恕の道に務めず、惟だ嚴法酷刑を欲せるは、豈に是れ上を安んじの下を馭せるの理たらんか!」と。敏らは遂に止む。泓は經を博士の淳于岐より受く。岐の病せるに、泓は親しく詣で疾を省し、床下にて拜す。是より公侯の師傅に見ゆるに皆な拜したる。
(晋書119-1_徳行)
姚泓伝のラストでも優しさを見せていた姚泓ですが、しょっぱなでもやはり優しさを見せていました。うーん、これ姚弼をおとなしく後継者にしとくべきだったんでしょうねえ。乱世を導ける人ではないでしょう。そりゃ姚泓も姚興に対して皇太子辞退を言い出すわって納得。
にしても桓温さまとあざな一緒なんだこの人……。
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