第5話
夏休みになっても、俺の毎日はあまり変わらなかった。たまに友達と遊びに行くことはあったけれど、空いている時間をみつけては、タバコ屋に通った。
これまで制服を着て座っていたベンチに、今は私服で。もしかすると大学生くらいに見えていないだろうか。そんな些細なことだけで、ここに居ていい理由を見つけたような気がした。
「それで? その貴重な夏休みになんでこんなところに居るんだよ」
呆れ声でミナトさんが言う。
「夏休みってのはもっと浮足立ってるもんだろ。どっか遊びに行ったりとかさ」
「友達と遊んだりはするけど、毎日じゃないし。実際には暇なだけだよ」
「贅沢な悩みだな。若いんだから、もっと今しかできないことをしろよな」
ここに居ることだって、多分今しかできないことだと思う。
「ここ来ないとタバコ吸えないし」
「いつか通報するからな。マジで」
「そんなこと言って、ミナトさんは絶対面倒くさがってやらないでしょ」
ミナトさんがハッと小さく鼻で笑う。
最近はなんとなくミナトさんという人のことが分かってきたような気がしていて、だからこそ余計に踏み込めないと感じてしまう。
近づきすぎないように気を付けながら、こうして彼女の心の外側の、ギリギリの淵を延々回り続けて。
なんだか太陽と地球のようだと思ったのは、たぶん真夏の太陽がジリジリと俺を焦がすせいだ。
そんなことを考えていたら、ミナトさんが急に鋭い声で言う。
「おい、タバコ消せ」
「え?」
「人が来るから。火消して帰れ」
慌てて灰皿にタバコを投げ入れたちょうどそのとき、通りの向こうから品の良さそうな女性が歩いてくるのが見えた。
俺の祖母よりももう少し年上、七十歳くらいのお婆さん。お婆さんはちらりと俺のことを一瞥して、特に気にした様子もなくそのまま出窓に向かう。
「瀬川さん、おはようございます」
「おはよう涼葉ちゃん」
そう言いながら千円札を取り出す。ミナトさんはすぐにタバコを二箱渡す。
「ありがとうございます。お釣り、二十円です」
慣れた様子から常連客なのだとすぐに分かる。
立ち去るタイミングを逃した俺は、蝉の声にかき消されそうな二人の世間話をぼんやりと聞いていた。
「たまにはお休みとって出かけたりしないのかい?」
「何言ってるんですか。私が店を開けなかったら瀬川さんが困るじゃないですか」
「そりゃ助かってるけどねぇ」
「……」
一瞬だけ、妙な間があった。けれどそれがなんなのか考えるより前に、ミナトさんはまるで今思い出したみたいな声色で言う。
「あ、でもそうですね。来週の火曜日はお休みを貰います。申し訳ないですけど」
「……ああ、もうそんな季節だったね」
「……ええ、まあ」
それきり二人の間に微かな沈黙が落ちた。
それじゃあね、と言ってお婆さんが去っていく。その後ろ姿を俺は見送っていた。
ふと、甘いタバコの匂いがした。横を見ると出窓から顔を出したミナトさんが物憂げにタバコを吹かしている。
「帰れって言ったろ」
「この店、お客さんいたんだね」
「当たり前だろ。じゃなきゃとっくに潰れてる」
ミナトさんはお婆さんの去っていった道の先をじっと見つめている。俺も真似をしてみたけれど、お婆さんの姿はもう見えない。ただ夏の日に熱されて、空気がゆらゆらと揺れているだけだ。
そういえば。と、ふと疑問が浮かぶ。
「ねえ、涼葉って、下の名前?」
「気安く呼ぶな。出禁にすんぞ」
ミナトが名前なのだと思っていたけれど、よく考えれば、普通下の名前を店名にしたりはしないか。
俺は口の中だけで小さく、涼葉さん、と呟いてみる。けれど呼び慣れない響きはどうにもしっくりこなくて、どこまでいっても俺にとっての彼女は、ミナトさんなのだと思った。
「ていうか、さっきの人には普通に敬語だったね」
「当たり前だろ。お客さんなんだから」
「俺には最初から当たりが強かったじゃん」
「バーカ。ガキは客じゃないんだよ」
軽く肩をすくめると、ミナトさんはひらひらと手を振りながら店内に引っ込んでしまう。
一人になった俺はタバコに火をつけて、ゆっくり煙を吸い込んだ。真夏の日差しも口元の小さな火種も、ジリジリと燃えているようだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます