いつの間にか嫌な雰囲気のある森に

 いつの間にか嫌な雰囲気のある森に立っていた。妙に木々の色が暗く、影も濃い。まるで陽射しの強い時期のようなのに、全体的に生気がない。じっと見ていると頭痛のして来るような森だった。

 この山にこんな場所があっただろうか、と辺りを見回しながらも人影を追って進む。人影はいくら追っても近づくことは出来ない。それが尋常のものではないことは察していたが、振り返っても霧にまかれて、帰り道を失っていた。

 ふと、人影が遠ざかる。

 少し早足になって追いつこうとすると、森が切れた。

 そして谷に出た。

 見たことはないはずなのに、妙に懐かしく、それでいて怖い谷である。霧はその谷から溢れていた。

 その谷の淵に、人が腰かけていた。

 赤髪の垂れた見慣れた背中に安堵する。しかし、魔王すら凍える程に寒いのに薄っぺらな服一枚。さらに以前材料屋に聞いた、谷に落ちれば這い上がれないという言葉も思い起こされて、すぐさま焦燥が込み上げる。

「リンネ!」

 呼びかけるとリンネは振り向いた。マオを見た瞬間、サッと顔色を失った。

「──来るな!」

 リンネがそれ程大きな声を出したのを初めて聞いた。

 思わず立ち止まってしまったものの、すぐまた「リンネ」と呼びかけて足を踏み出そうとする。眉を寄せたリンネは首を振った。

「来るな。……私が、そちらに、戻るから」

 リンネは谷の淵に立つ。一歩踏み出せば谷に落ちてしまう距離。

 マオの方へ歩いて来る。手の届く場所まで来た時、我慢ならずにその手を引っ張り抱き止めた。

 死人のように冷たい体だった。

 けれどまだ心臓は動いている。

「良かった……」

 今まであまり強く意識したことはなかったけれど、材料屋の危惧が今は痛い程に理解出来る。

 もし、あのままリンネが谷に落ちていたら。

 谷底でリンネは、助けを呼ぶことも出来ない。

 リンネがこの土地を去ることばかり考えていたけれど、むしろ落ちてしまう可能性の方がずっと高い。

 そして、それよりもっと、有り得るのは。

 死者に会うため、リンネ自らこの谷に身を投じること。

 何せここは死者に呼ばれる谷。

 死者の世界に通じている谷。

 不老不死でも死ねるかも知れない。

 むしろ今までそうせずにいてくれたことの方が、不思議なくらいだった。

 死者を待つよりその方がずっと簡単だ。

「何で来た……」

 しゃがれた声で言ったリンネは手を振りほどこうとする。しかしその力はあまりに弱かった。

「お前は、ここには、いるな……」

 諦めたように力を弱めながらも、その声は強くマオを拒絶していた。

 どうしよう、と思うけれど、するべきことは決まっている。素直じゃない人の言葉は聞いちゃ駄目、リンネちゃんをよろしく。そんな言葉を思い起こして、自分を奮い立たせる。怒らせて、今度こそきっぱりと縁を切られるかも知れないけれど、引く訳にはいかない。ありとあらゆる人に願われたマオの幸せは、この先にしかない。

「……色々と、言いたいことがあったから」

 幸せを手に入れられるのは、これが最後かも知れないから。

「望んで不老不死になったんじゃないのは分かってるし、しかもはずれだった俺から、こう言われるのは嫌かも知れないけど」

 リンネの顔を見るのが怖くて目を瞑る。冷たい空気を微かに震わせるリンネの拒絶と恐怖が伝わって来た。

「今まで生きていてくれて、俺と出会ってくれてありがとう」

 リンネは何も答えない。やはり怒らせるよなと思いながらも、逃げられないようリンネを強く抱きしめる。まだ言いたいことは残っている。

「あと、これもたぶん……絶対怒らせるんだろうけど。やっぱり言わせて」

 いつかの再会すらもなくなってしまうかも知れないけれど、それでも良かった。ここまで言って心変わりしてくれないのならば、どうせ再会したって、リンネが変わることはない。

「その人より俺の方がリンネを幸せに出来るし、幸せにするから。だから、これからは、俺と一緒に生きてくれ」

 この言葉はリンネの思い人を踏みにじり、その人のためにリンネがかけた時間を蔑ろにしている。

 分かってはいても言わずには居られなかった。

 リンネは腕の中で囁くように答えた。

「……それで、はいって、答えたら。莫迦のよう、私」

 言いながらリンネの足の力が抜けて崩れ落ちていく。驚いてその場にしゃがみ込むのを追いかけて、その手を取った。リンネの顔を見ると顔色は真っ白になっていて、その目には藁にもすがる人のように焦燥の色があった。

「お前にとっては、それ程でもない、かも、知れないけど。私には、こんな、長い時間。ずっと待って。ずっと探して。それを、ここで諦めろって、お前が言っているのは、そういうことだ!」

「……うん」

 言葉こそ怒っているけれど、その声は弱い。リンネはもう手を振りほどこうとはしなかった。ずっと諦めたように力を抜いていて、逃げようともしない。

「そんなことしたら、私、無意味に生きただけの、莫迦に、なってしまう」

「大丈夫。俺に会うために生きた時間になる」

「後付け……」

 呆れた拍子に目の険が取れた。少し笑う。

「大体がそんなものだろ。俺がしたことだって、あの時正解になるかは分かってなかったし。これからまた大罪人になるのかも知れないし。いいんだって、今は、気にしなくて」

 リンネの肩が震える。微かに手が握り返された。

「……それに、私、たったこれだけの時間、人を待ち、続けられないから。きっとお前のことも、疲れてしまう」

「さっき長いって言ってたくせに……。まあ、愛想つかされないように努力するのは俺の方だから。愛想ついてもリンネのせいにはならない」

「私が、私のこと、嫌になって、しまう」

「じゃあ何としてでも愛思つかされないようにするけど……。まあ、その時は、悪い人に騙されたと思って。また師匠を蘇生する方法を探す旅に出るのもいいんじゃないか」

 そうはさせないつもりでいるけれど。

「何せ魔王だから。騙されても仕方ない」

「……口が上手いのは、知ってる」

 ため息を吐いて、リンネは酷く俯いた。

 あと、何を言って、何をすればリンネはうなずいてくれるのか。リンネは何を喜んだか。何をして、マオを喜ばせようとしたか。

「……もし、ここで諦めても、誰もリンネのこと莫迦にしないし、させないから」

 頭を撫でた。

「リンネは良くやった」

 この手がリンネの思い人であったなら、リンネにとってはどれだけ良かっただろうと思う。けれど今更死者と立ち位置を変わることは出来ないし、変わるつもりもない。

「偉いよ」

 リンネは弱々しく首を振り、許して、ごめんなさい、と囁いた。

「ずっと偉かった」

 許して、とまた囁く。

 その言葉だけはマオではなく、リンネが待っていた死者に向けられていると、分かった。

 それに答えられる人はこの世になく、自分自身が変わるしかないことを、リンネは知っていると知っていた。

 きっとそうこぼしてしまったことも、リンネには屈辱なのだろうと思ったから、せめて聞かなかったふりをする。

「もう、ずっと……諦めた、かった」

 子供をあやすように背中を撫でると、腕の中でリンネは血を吐くような声を上げた。

「……諦め、させ、て」

 聞く方の耳にも痛い、断末魔だった。

「帰るか」

 リンネは微かにうなずいた。

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