再びこの土地を訪れることも出来る
ミシェラの言うように再びこの土地を訪れることも出来る。しかし、しばらくは向こうでの挨拶回りなどに忙殺されるため、顔を出すことは出来ないだろう。
それにまたいつか会えるからと言って、今日会うことを諦める気は起きない。
朝から山のリンネが行きそうな場所を回ったがリンネの姿は見つからず、市に出た。会うことの出来た友人たちとは別れの挨拶を交わしつつ、リンネの姿を探すけれど、相変わらず見つからない。
あっという間に日が暮れかかる。
酒場もあらかた見て回ったが当然のように見当たらず、洞窟に戻る。
洞窟に戻っても、やはりリンネの姿はない。
「本当、よく逃げる……」
あらたまった話なんかではなくて。
お互いに何も知らないふりをしていた頃と同じように、他愛のない話が出来れば、それでもう良かったのに。
洞窟からはマオの物がこれからも使うような物はなくなっている。どうせもう眠るつもりもなかったため昨日の内に寝床も片付けた。
寝床があった場所には、知らぬ内にリンネが寄越した財宝の入った袋が置かれていた。ふと思い立って中を覗くと、除けておいたはずのリンネの師匠の持っていた青い札も、無造作に入れられていた。
取り出して、鎖を手にして見つめる。
深悼すべき死者だが、今は正直、憎き恋敵としか思えない。
リンネ自身の口からどれだけ良い人だったかは聞かされたけれど、こんなにも長く心を縛り付ける人が良い人なものかと思う。それだけ良い人ならば何故死んで、百五十年もリンネを待たせている。マオだって生き返ったのだから、お前もリンネの願いに答えてやれないのか。理不尽と知りつつ思う。少し疲れていた。
昔はどうか分からないけれど、今ならば自分の方がリンネを幸せに出来る。
あまり良くない思考だと思う。リンネの思いすら否定するようだ。けれど思ってしまったことは変えられない。
リンネ本人がどう考えていようと、リンネの幸せは絶対に自分が叶えられる。
そう思うのにリンネは戻らない。珍しく霧が流れて洞窟の中にまで忍び寄って来る。外套も洞窟に残されたままだけれど、外にいてリンネは凍えていないか心配になる。不老不死とは言えど、寒いものは寒いはずだ。
逆に、洞窟にマオがいるから、戻らないのかも知れない。そう思うとさすがに胸が痛くなって、マオは腰を上げた。
霧はますます濃くなって、月光さえも遮る。
リンネが無事に帰れるのかまた心配になりつつ、手探りに洞窟を出て行こうとした時。
霧の中に、人影が見えた。
深い谷である。
覗き込めど底が見えない程深く、中腹から闇は完全な漆黒へと塗り替わる。
日が届かないのか谷の内から冷気が這い上がり、常に周囲は霧で満たされている。
恐らく底などというものは、この谷にはないのだろう。
魔物や魔術師に伝わる通り、この谷は死者が住む国へと通じているのだ。
幽境。死者に呼ばれる谷。
事実、百五十年前勇者に斃されたはずの魔王は、この谷の傍らに倒れていた。
きっと彼は、この谷から戻って来たのだ。
だから、いつか、師匠も。
「……」
人の気配を感じて振り返る。
谷を囲む森の側に、人影が立っていた。
私は谷の淵に腰かけたまま、呼びかける。
「師匠?」
「……ごめんなさい」
師匠の声ではなく、彼の声ですらない。予想はしていた。この谷の側で出会ったのは、魔王の他にはただ一人。
「勇者か」
「うん。勇者です。あなたの師匠さんでなくて、ごめんなさい」
勇者の姿は霧に隠れて見えない。百五十年前にも見たことはないからどのような顔をしているかは分からない。声だけ聞くと、どこにでもいる朴訥な青年のようである。
顔を再び谷へ戻す。
「お久しぶりです。……というのは、実は変なんですが。こんばんは、の方が自然かな」
どちらにも返事をしなかった。
一度目に勇者と会ったのは、マオをこの谷の傍らに見つけた日のことである。勇者は倒れているマオの側に立っていた。見たことはなかったのにそれが勇者だと言われるまでもなく分かって、ありもしないはずの感謝が湧いた。しかしあの頃はまだ荒んでいたから素直に感謝などしてたまるかと、無言でいた。リンネの葛藤を知ってか知らずか勇者は傍らに倒れたマオを指して「助けてくれませんか」と言った。「勇者が斃してしまったんですが、どうか助けてあげてください」と言われ、億劫だったし勇者は嫌いだし魔王はどうでもいいと思ったが、あくまで単純に薬師として、あまりに惨い有り様だったマオを放っておくのは良心が咎めて、仕方なく拾って帰った。それが始まり。
まさか、仕方なくで拾った死体間際の人が、自分にとって、ここまで大きな存在になるとは思わずに。
あの日以来、幽境へは数え切れない程訪れたが、勇者は一度だって現れなかった。今夜が二度目の邂逅である。
「何故、今夜、顔を出した」
今夜は、特別な夜である。それを知ってのことかと、暗に問う。
「最後に勇者も、君に挨拶を、と思って」
そして当然のように勇者は次の朝にはマオがこの土地を発つことを知っているらしかった。何故知っているのかという問いに意味がない。幽境は位置すら常に移り変わる、魔境である。何が起きても不思議ではない。そこに出る人も同じである。
「マオがいなくなると、何かあるのか、お前にも」
「うん。ちょっと。魔王がこの土地に戻らない限り……。それか、死の淵に立つようなことでもなければ、僕は出て来れない」
不吉なことを言うなと怒りたくなったが、その言葉が本当ならば再び勇者と会う可能性は低い。マオはきっと魔王として忙しくなって、ここには来なくなるだろう。彼はいつも過去よりも未来の、自分のすべきことを見ている人だから。何もないこの土地には来ない。過去しか見ない人間のことなど忘れてくれる。わざわざこれきり会わない人のために感情を動かして疲れることもないと、流した。
「へぇ」
「どうでもよさそうだ」
「お前のことは」
裸足のかかとで岩肌を蹴る。崩れた石は奈落へ落ちて行く。
あの石のように、恐怖もなく落ちてしまいたかった。
「師匠のことは、相変わらず、知らないのか」
「ううん。……ごめん」
「蘇生の方法も?」
「うん……」
ため息を吐くも、霧に混じる。
「何が勇者だ、役立たず。挨拶もいらん。去れ」
言葉と裏腹に、やはり勇者に対しては感謝があった。人間を身を挺して守った。世界に平和をもたらした。英雄である。卑屈な人間が自分の愚かさを省みずに当たり散らしてしまって悪いとすら思う。
だが、同時に理性ではやはり気に食わないと考えている。性格も好きになれないし、師匠を助けられなかったことにも腹が立つ。勇者と仰がれるくらいであれば師匠が村人に襲われる現場にいて、助けてくれたって良かったじゃないかと思う。
魔王もそう。本当は、やはり少し恨んでいる。師匠の蘇生の方法さえ見つかればいいのだからと許した気がしていたけれど。治療のお礼をくれて、過去への郷愁を共有してくれて、弟子になってくれて、名前をつけさせてくれて、側にいてくれたけれど。未来を見る強さがあって、その姿は眩しくて、大好きだけれど。
恨んでいる。
苦しい。
師匠のことを思うと、好きと思う物全てを否定しなければならなくなる。
背後から苦笑の気配があった。
「ごめんなさい」
素直に謝るところも嫌いだった
「まあ……仕方ないか。でも、ありがとう。僕は見ているだけだったけれど、楽しかった。また会う日まで、お元気で」
「……」
もう返事もしてやらない。
どうして彼の発つ日に、彼以外の人間と話さなければならないのか。彼の口から聞くべき言葉を、気に食わない人から聞かされているのか。
どうしてこんなにも身が引き裂かれそうな思いをしているのか。
本当はマオのことは、もっと華やかに、祝福を以って送り出すつもりでいたのに。
自分のせいだと分かっている。全て、気づくのが遅い、莫迦な自分のせい。勇者が嫌いなのだって、その素直な言葉が羨ましいから。
自分もただ一言、言えればこの苦しさは全てなくなると分かっているのに、どうしても言えない。
考えれば考える程、頭が痛くなる。もう泣き疲れて涙も出て来ない。
苛立っていると、とっくに去ったと思っていた勇者の声がした。
「……それと。ごめん。お節介とは思ったんだけど」
嫌な予感がした。
「彼、君のこと、ずっと探していたから。少し手助けしたよ」
地の底から風が吹いて、霧が吹き上がる。
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