そろそろ暑くなるから

「マオ。そろそろ暑くなるから、暑気あたりが、増える。何となく体力がないとか、食欲がないとか。そういうのが来たら、この瓶、この丸薬を。渡すように」

「ん、おう」

 リンネが掲げる瓶とその中に入った丸薬を確認したマオはうなずいた。リンネは瓶を仕舞い込みつつ、付け加える。

「あと、食あたりも増える。熱にやられるのも増える。……」

「うん。まあ、回してくれれば、ある程度は俺が相手するから」

「……うん」

 基本的に人嫌いであることは今も変わらないはずだが、何故かよく働いている。仕事を手伝う以外に何故か助けになるようなことが出来ないかと、マオは新しい細工を作りつつ考えた。それで先日、細工屋へ顔を出した時、最近知り合った魔物の布屋に布を献上されたことを思い出した。

「あ、そうだ。布屋が新しく開発したって、通気性の良い布をもらったんだが、お前の服に仕立てていいか」

「私はいい。自分の服にしたら」

「お前に似合いそうな色だから」

「……どうでもいい」

 これでリンネ自身の暑気あたりへの対策をしつつ。

「あと、蛙の甘味処とユウェン……知り合いのいる料理屋が、一緒に新しい料理考えて、今度から出すって。安くしてくれるって言うから、食べに行こう」

 不老不死と魔力で動く物のため、本来二人とも食事は取らなくても死にはしないが、精神の安寧には不可欠である。特にリンネは疲労が溜まってくると酒ばかり飲んで食事を取らなくなり、それによって不機嫌になるという不毛な繰り返しに陥りがちであるため、積極的に連れ出す必要がある。

 返事がないので顔を上げると、リンネが妙な顔をしていた。

「……お前」

「ん?」

「よく出来た……弟子と言うか……私より、余程、市に馴染んで……」

 そう言って何故か不服そうな顔をするので、マオは少し笑った。

「リンネのお陰だよ。お前のつけてくれた名前は馴染みやすいらしい。魔物たちがよく話しかけてくれるようになって、自然と事情通になった」

 少しからかいも入っているが完全な嘘ではない。魔王とは別に個体名が増えたことによって魔王の級位は下がったが、その分話しかけやすくなったらしい。今まで遠巻きに見ているだけだった魔物たちが話しかけてくるようになったのである。ついでに献上品が増えて、洞窟にはリンネの持ち物よりもマオの持ち物の方が増えつつあった。

「お前は本当に。上手くやる」

「リンネのお陰だって」

「そういう、ところが。上手い。……小癪」

「お前の無愛思さを補おうとした結果かな」

 話しながらリンネは背負い籠を持ち出し、大小の袋や瓶を放り入れる。

「今日は採集か」

 リンネは髪紐で髪を一つに結わえ、背負い籠を持ち上げた。

「うん。川に。行って来る」

「足滑らすなよ。いってらっしゃい」

 採集に行くとリンネは大抵夜まで帰って来ない。それなら今日は洞窟の奥にある骨や粗大ゴミの片付けの続きをしようと、マオは腰を浮かした。リンネがいる時に片付けていると「これはいる」「これも一応」などと周囲をちょろちょろされながら口出しされるので中々片付けが終わらないのである。あくまで家主はリンネなので勝手に捨てることはないが、さすがに骨とそれ以外は選り分けておきたい。あと頭蓋骨の隙間に住み着いた虫や小動物は食料や服を勝手に噛じるので洞窟の中からは出て行ってもらいたい。魔虫や魔獣には優しくしたいところだが、あまりそれで許し過ぎていると彼らのためにも良くはないので、やはり突き放す必要がある。

 そもそも洞窟に何故骨が、と思いつつ手をつけようとしたが。

「――」

 洞窟の外からリンネの声が聞こえたような気がして、振り返った。

 耳をそばだててみても、もう声は聞こえなかった。気のせいかと思ったが、獣に襲われたという可能性もある。どうせまだ近くにいるだろうとマオは様子を見に、洞窟の入り口へ向かった。

 青々とした葉をつける木立が、洞窟の周囲にも濃い影を落としている。洞窟の外まで出て坂を見下ろすと、緑の中に目立つ赤。

 そして、その向こうに、人が立っていた。

 洞窟まで人が来ることは、初めてではなかった。リンネの評判を聞きつけた人々が、藁にもすがる思いで山を登って来る。

 しかし、少し様子がおかしいような気がして、坂の上から様子を見守る。魔術を使えば会話くらい聞こえるようにも出来るがそうしなかったのは、何かおいそれとそう出来ない雰囲気があったから。そもそも人の話を勝手に聞くのは躊躇われもする。

 その内リンネが振り向いて。

 リンネの向こう側にいた人物の顔が見える。

 マオは思わず「あ」と声を上げた。

 記憶よりも年老いたが見間違えるはずもない。百五十年前、魔物の中でも最も信頼し、共に魔物の解放のため立ち上がり戦った同胞。美しい鱗を持つ第一側近を担った竜人。

「――フィエスラ」

「魔王様!」

 感極まった声を上げ、フィエスラはリンネを押しのけるようにして坂を駆け上がって来た。

「あぁ――あぁ――まさか。再び! 貴方に名前を呼ばれる日が来ようとは!」

 滂沱の涙を流しながら手を握られる。このところは初対面の魔物であっても既に噂を聞いていて驚かれることも少なくなっていたので、大袈裟だと思ったが。よく考えれば死んだのだった。普通、死んだはずの人が普通に立っていたら驚くどころの騒ぎではない。あの市の人々がむしろ異様におおらかである。

「落ち着け、フィエスラ」

 背を撫でるも落ち着かず、手が震え続ける。ひとまず洞窟の外にある丸太の椅子に座らせて、落ち着くのを待つことにした。

「誰」

 坂を戻ってきたリンネが言う。その声はいつもと同じ静かな声なようでいて、微妙に警戒心と威圧感をはらんでいる。

 押しのけられれば当然そうなる。

「フィエスラという。前――死ぬより前、俺の部下……第一側近だった。普段はもう少し礼儀を知る奴だが、今はちょっと動揺しているらしいから、許してやってくれ」

「……死ぬ前の」

 ならば仕方ない、というようにうなずく。

 そしてフィエスラの方にも告げる。

「この人はリンネ。俺の命の恩人だから、丁重に扱え」

 二人とも、魔王にとってかけがえのない大切な人である。仲良くとまではいかずとも、せめてお互いに悪印象を持ってもらいたくはなかった。

「は――はい」

 百五十年という歳月が経っているから性格も変わっている可能性もあるが、マオの覚えている通りであれば、リンネにも言ったように本来のフィエスラは落ち着きのある才人である。それに今は統括局局長の任に就いていて、昔と変わらぬ辣腕を振るっていると新聞で見ている。まさか呆けているということもあるまい。

 そう考えて、あれと首を傾げる。統括局局長が供もなく何故一人でこんな山奥に。それに統括局局長が来たということは、魔王が復活したことはとうとう市以外の人々にも知られたのか。その割には目の前にいる一名の涙腺以外には大事になっている雰囲気がない。

「……マオ」

 リンネが立ち尽くしているのに気がついた。

「あ。悪い、リンネ」

「……」

 薬をもらいに来るような人々とは事情が異なる。どうするつもりか、とその目がマオに問いかけている。

「悪い。すぐ追い返すから。お前は採集に行っててくれ」

 リンネはうなずいたが、すぐに立ち去らずに少しの間その場に立っていて、それから言った。

「……お前の家でも、あるのだし。好きに。それと、二度も謝らずとも、良いよ」

 答えを見つけられずにいる間に、リンネは踵を返す。

「――リンネ!」

 少し背が遠くなってから、呼びかけた。

「酒買って、夜には帰るから!」

 リンネは振り向かないまま、軽く右手を上げて答えた。


「まず、魔王様。約束もなく突然お訪ねした上、奥様にご無礼まで働いてしまい、申し訳ございませんでした」

 フィエスラの言葉に少し顔をしかめたマオは、店員が冷やし飴と牛乳寒天を二組卓に置いて階段を降りていくのを待ってから、指を二本立てた。

「……ひとまず、二つ、すぐに改めろ。一つ目、まず魔王と呼ぶな。目立つから」

「では何とお呼びすればよろしいですか?」

「マオと」

 うなずいたフィエスラにうなずき返し、次に重要な二つ目を告げる。

「二つ目。あの人間は奥様ではない」

「……」

 岩をも切り裂く爪の先で頬をかき、フィエスラは淡々と「失礼いたしました」と答えた。頬をかくのはフィエスラが、あまり話に納得していない時の癖である。

 納得されないことに関してはともかく、百五十年経っても変わらない同胞と、何気ない仕草を覚えている自分自身にマオは思わず薄く微笑んだ。

「それ以外は気にするな。リンネも……たぶん、大丈夫だから」

 少なくとも怒っている雰囲気はなかった。それどころか人嫌いにも関わらず、マオの客ならと歩み寄ろうとしてくれていたようだった。

 呼び止めてもう少しきちんと真意を聞ければ良かったが、今はさすがに旧友を優先させなねればならない。咳払いを一つ。

「さて。何から聞きたい?」

 フィエスラは片目のまぶたを押し上げて、肩をすくめた。先程まで鱗に涙を滴らせていたとは思えない涼しい顔で言い返す。

「聞きたいことは、多過ぎて。いっそ、はじめましてと言い直した方がいいのかと思うておりますよ……マオ様?」

「そうか。では、俺が目覚めた時のことから順を追って話そう。少し長い話になるが、勘弁しろ」

 にんまりと笑う口から牙が覗く。

「百五十年に比べれば、その程度、如何程でありましょう」

 そしてマオは語った。あの洞窟で目覚め、手も足も動かずにリンネに世話されるままになっていた時間のことから、体が回復してからもリンネと暮らすこととなり、市に出て、リンネの弟子となり、そして名前を得るようになるまでのことを。フィエスラは最低限、分からないことを尋ねるだけで、ほとんどマオの話を遮らずに聞いた。

 話が一段落し、手をつけていなかったことを思い出し、牛乳寒天を口に運んだ。

「……」

 牛乳寒天がつるりと喉を滑っていく。

 フィエスラは沈黙している。しかしながら折り畳んだ翼を微かに揺らし、落ち着きなく角を撫でて、爪で頬をかく。その頭脳で様々なことを考えているのが分かる。しかし、フィエスラは自身の癖を利用して、相手を撹乱しようとすることも珍しくない。そして魔王に対して忠実だが、従順ではない。昔はマオの考えを先回りして、マオが知らぬところで作戦を実行することもあった。マオを騙して物事を運ぼうとすることもあった。

「……お前の考えがまとまる前に、聞いて――否、宣言しておくが」

 フィエスラが何か企もうとする時は、考える時間を長く与えただけで不利になると味方側として知っている。

「お前がどう思おうと、俺は今の世と敵対する気は一切ない。お前たちの作った今に、異を唱える気もない。再び世が変わるのでもなければな。だから妙な勘繰りはするな。先回りもするな」

「……はい」

 ひとまずは大丈夫そうだった。良しとうなずいて終わらせる。

 それから、まだ大切なことを言っていないことに気がつく。

「それと、言うのが遅れたが――」

 卓に当たらないよう後退し、深く頭を下げた。

「俺の亡き後、皆と共に、よくここまで世を変えてくれた」

 フィエスラ以外にも、その時代に生きた多くの魔物たちが、並々ならぬ努力をもって戦後の世を作り上げて来た。今もこの世に生きる人間と魔物たちがより良い時代を積み上げている途中である。しかし、それはフィエスラを始めとする生き残った同胞たちがいなければ成し遂げられなかっただろう。魔王は魔王というだけで崇敬を集めるが、その部下には魔王の言葉以外の恩恵はない。魔王の死によって魔物たちが分裂し、より一層混沌とした世になることも充分有り得た。そうならなかったのはフィエスラたちのお陰、今の世は間違いなくフィエスラたちが居てこそ成った。

「ありがとう、フィエスラ」

「――いえ」

 頭を上げるとフィエスラは酷く悔やむように眉間に皺を寄せ、目を伏せていた。

「私たちは……貴方に、何も返せず。勇者とかいうぽっと出の輩にむざむざと、貴方を……」

「革命の途上で死ぬことはお互い覚悟の上だったろう。何か褒美が欲しくて革命を起こしたのでもなし」

 少し笑った。

「それに何の因果か分からんが、今、受け取っている。だから俺のことは気にするな」

 革命を死ぬことなく終えた後ですら有るとは思えなかった幸せの中に、今いる。人間に恐れられることもなく、市井の普通に暮らす魔物たちと話し、そして命名を任せても良いと思えるような人物と会った。

 充分どころか身に余る幸せとすら感じられる。

「辛気臭い顔をせずお前も食え。ここの甘味はどれも美味い」

 フィエスラは冷やし飴を飲み、牛乳寒天に口をつける。竜人が主に食べるのは肉だったが、マオも知らない内にどこかで食べたことがあるのか「懐かしい味ですね」と微かに笑った。

「ありがとうございます。……それにしても、当たり前のように食べているので流してしまいましたが、貴方、物を食べるようになったのですね。生き返ったことと何か関係が?」

「治療中に魔力回復のために食っていたのが習慣になった……だけではないな。趣味。食わなくても死なないが気が削がれる。あと、リンネが放っておくと食わなくなるから、監視がてらでもある」

「あの奇妙な……人間、ですか?」

「人間ではあるだろう」

 マオが見つけるまでの間にどういう会話があったかは分からないが、リンネと初めて会った者が見る場所は分かる。人間には珍しい赤髪と赤目、そしてさらに左目を奪い首にも浮かぶ蛇の目。人間としか思えないが、人間にしては異形。それだけでなく、リンネと長く付き合いがある材料屋のレオルによると、魔術師という人間から魔物になった者たちの一人でもあるらしいが、これはいまだにリンネに確認していないためよく分からない。

「何ですか、あの蛇は。どうも意志は感じるのですがこちらからは通じず、魔物の気配はせず、しかし、あの形は魔物でなければ有り得ない」

 フィエスラの見解もマオとあまり変わりないようだった。あの蛇は体内に魔器を持たないため魔物ではない。しかし、あのように人間と重なって存在する生物は、魔物以外にはない。

「……確か、呪と、言っていたが」

「それだけでは何の手がかりにも成りませんな」

「うん」

 呪いは魔術にも存在し、発動や解術に、術者の意志以外の条件の付くような物がそう呼ばれる。しかしあくまで呼称であって、全く当てはまらない物を呪いと呼ぶ例も存在するため、個人の申告は当てにならない。それに本当に呪いだったとしても、あの生物の存在の説明にはなりはしない。

 マオの中に、仮説はあった。リンネが魔術師であり、魔物のようにしか思えない蛇が魔器を持たないとするならば――元々蛇が持っていた魔器が、今はリンネの中にある。そう考えるのが自然である。ただ、魔器ある者は互いにそれと分かるはずではあるが、魔器を持った人間という本来有り得ない存在である魔術師の生態は未知数である。実際魔術師を自称する材料屋も、魔王にとっては人間としか思えなかった。それに何故蛇が魔器を取り返さないのか、あるいは取り返せないのか、など。不明点が多過ぎる。つまり。

「詳しくは知らない。知りたきゃ本人に聞け」

「ご自分ではお尋ねになったことはないのですか?」

「ない」

 他に質問を受ける前に、と続けた。

「他のことも、リンネの身の上に関わりそうなことは、何も聞かないと決めている」

「何故……」

「それを何故と言われると。そうさな……」

 冷やし飴を飲もうとして、もう空になっていることに気がついた。迷った末に卓の上の鐘を鳴らして果実汁と餡の包み餅を頼んだ。お品書きにはユウェンの店と合同で作ったらしい品が載せられていたが、それはリンネと来た時に取っておきたい。

「何か話しにくい事情がお有りですか? 何も、私が聞いたこと全てに答えずとも構いませんよ」

「あ、いや、そんなに深刻な話じゃない。ちょっと恥ずかしいというだけで」

「恥ずかしい」

 目を光らせ身を乗り出す。

「恥ずかしいと聞くとむしろ気になってしまいますね」

「お前の期待するようなことはないぞ……。俺が弱いからだよ」

 注文した品が届く。少し喉を潤してから、口を開いた。

「――リンネは、十五の時に魔物の嘆きを聞き、同時に歳を数えなくなったと言っていた」

 魔物の嘆き。魔王が全ての生物の聴覚を支配し、強制的に魔物たちの怨嗟の声を響かせた事件のことである。その声は魔物から人間への革命の反逆の宣言でもあった。その声が世界に響いた日から世界は混沌に傾き、魔物と人間の血で血を洗う争いが始まった。人間には魔術は使えないが、代わりに世界からの後押しがあった。魔物たちが人間の里に攻め込もうとすれば天変地異が起き、一部の魔物が狂った。勇者も今思えば世界からの後押しの一つだったのだろう。しかし魔物たちもまた個々の能力を使い、人間を殺した。とかく世界は混乱に満ちた。

「その後蛇の呪を受け、不老不死になり……。俺が目を覚ました時には、あの洞窟に一人でいた。長く市にも下りていない様子だった」

 今と比べると人嫌いも酷かった。

「それは、たぶん、俺が起こした戦争のせいなんだと思う。聞いてはいないけれど、何も言わないけれど。時期からすれば、そうとしか思えない……」

 戦争自体への後悔はなかった。今でも、あの当時においては戦争以外に方法はなかったと思っている。魔物は奴隷、喋る動物であるという意識は人間全体に根強く、例え当時の人間の社会を管理していた組織を倒したところで改善されるものとは思えなかった。それ以上に、魔物自体がそれぞれの種族で全く異なる思思や習性を持っているため、どの種族にも存在する暴力という手段以外での団結が不可能だった。

 しかし、暴力を手段としたことで失われた物も多いことは理解している。新聞を読めば華やかな記事の裏に、遺恨を捨て切れない魔物や、恨みを引き継ぐ人間の子孫の問題が今もあることはうすらと読み取れる。

 リンネもまた、恐らく、戦争によって何かを失った一人。

「でも、実際にリンネの口からその話を聞いた時、俺はどうしたらいいか分からない。謝ったところで取り返しがつくものでもないし、革命を起こさなければ良かったとは言えない。それにリンネも俺に対してどう思っているのか……。あの人の過去に関するようなことは、下手に聞いたら、何が出て来るか分からない。だから――避けてる」

「……」

「知らないことは免罪符にならないとは、分かっては、いるんだけどな……」

 何もなかった、ということはないはずである。人間であれ魔物であれ、魔術師であれ。この世界に生きる者全てが巻き込まれた大戦だった。

 リンネが何も言わないことに甘えていてはいけないのだとは思う。しかし、例えばリンネの親があの革命の中で死んだと聞かされたとして、どうすれば良いのか。過去に触れることだけで神経を逆撫でするかも知れない。触れないことだけが正解かも知れない。これだけは一向に決断が出来ない。

「貴方、人のようになりましたね」

「うん……」

 呵呵とフィエスラは笑った。

「何も人間の、それもよりにもよって、あの時代を知る人間を愛さずともいいでしょうに」

 口を開いた。

 否定しようとしたが、上手く言葉が出て来なくて、目を逸らす。

「……どうしようもないんだろ。こういうのは」

「えぇ、はい。こればかりは智将と呼ばれた私であってもどうしようもありません」

「呼ばれてたか?」

「呼ばれていたということにしました」

「明るくなったな、お前」

「お褒めの言葉と思っておきます。それであの方のどういったところがよろしいのですか?」

「掘り下げるのか……」

「それはもう。他人の恋話は若さの秘薬だそうですから」

「どこ情報だよ」

「サキュバスです」

「お前は竜人だろうが」


 一通りの情報交換を終えて市へ出た。革命に参加したフィエスラ以外の長命種の近況なども聞いていたお陰で、日暮れまでには帰るつもりだったのが、甘味処を出る頃には一番星が光り始めていた。

 約束通りにリンネのために酒を買い、フィエスラの宿を探す。着の身着のまま来たと聞いて呆れたが、旅人の少ない市だからすぐに空き室は見つかるだろうと、話しがてら歩き出す。

「あっ、マオ! 今日下りて来てたのね。運が良いわ!」

 途端話しかけて来たのはミシェラだった。ちょうど店から帰るところだったのかも知れない。隣にはユウェンが少し困ったような表情を浮かべて立っていた。

「隣の方はどなた? お見かけしない顔」

 ミシェラだけでなくユウェンも、統括局局長であるフィエスラのことは知らないようだった。「古い友人です」とフィエスラ自身が答えると、何か察したのかユウェンは顔を引き攣らせるが、当然幼いミシェラは気付かない。

「長く友人でいられるのは素敵なことよ、ってお母様がいつか言っていたわ。はじめまして、マオのご友人の御方」

「良いことを仰るお母様ですね」

「そうなの。とっても偉いのだから」

「あの、ミシェラさん……」

 ユウェンの催促を違う意味で取ったらしく、「あっそうだった」と手を打った少女はマオに向き直る。

「マオに頼みがあって。だからいないかなってユウェンとちょうど話していたの」

「今度は何だ」

「以前、お祖母様にいただいたお洋服を庭の生け垣に引っかけて、小さいのだけれど、穴が空いてしまったから。繕ってはもらえないかなって」

 しゃがみ込んで目を合わせると、ミシェラは微笑んだ。

「穴の大きさにもよるな。どれくらいだ? お前の爪よりも小さいか?」

「ううん。ユウェンの耳くらいの大きさ」

「それは小さくない。まあ……場所にもよるが、それならいっそ上から飾り布でも縫い付けようか」

「本当? でも飾り布の模様にもよるから。あんまり赤色とか桃色とかは嫌」

「もちろん。お嬢様の趣味の方が確かだろうし。まあとりあえず物を見てからになるから、今度の布の市の時にでも持って来い」

「いつもの細工屋にいる?」

「昼過ぎには」

「分かった。行くね」

「ちゃんと大人と来いよ」

「分かってますー」

 ついでに良い宿がないかと聞くと、ユウェンと二人でいくつか教えてくれた。将来的に店の経営を継ぐという自負があるのか、ミシェラは商売敵となったり、逆に協力し合うことで利益が得られそうだと思える店に関してはよく知るようにしているようである。

 大きく手を振るミシェラに手を振り返していると、フィエスラが笑い混じりに言った。

「貴方が人間と話しているのを見るのは、どこか不思議な気分がいたします」

「俺もそう思うよ」

 魔物と同じように一人一人は全く別の性格を持っていることは知っていたが、しかし、あの頃は全ての人間を敵と定めていた。必要な時に決意が鈍ることを恐れた。無意味に殺すことはなかったが、肝心な時に同情することのないように線引きはして、必要以上に心を動かさないようにしていた。

 教えられた宿を目指して歩き出しつつ、夜空を見た。

 百五十年前の夜空など覚えてはいないけれど、恐らくほとんど変わらず、ずっと綺麗なままでいるのだろう。

 しかし、人は変わらないままではいられない。

「だが、魔物と人間の関わり方が変わっているのに、俺が昔のままでいたら、かえって魔物のためにならないから」

「そうですね」

 フィエスラの声も深く沈む。改革の先導者になったとは言え、フィエスラも、考え方や時代の変化に苦しむこともあったはずだ。

 しかし、微笑んでいる。フィエスラもまたそれを乗り越えながら来た。

「――ただ、変えてはならないものもあります。その見極めは困難ですが、貴方は昔から当然のように正解を選び取る」

 フィエスラは親しい瞳でマオを見た。

「貴方はやはり、私が仕えるに値する方です」

「……まあ、魔王だからな」

「それだけなら、私はついて行きませんでしたよ」

 幸い宿は空いていた。

 フィエスラは急に飛び出して来てしまったため、一度統括局に戻り、今度はきちんと正式に時間を作ってから訪ねると言う。

「次はリンネ様にも、あらためてお詫びとご挨拶を」

「うん。待ってる。体に気をつけろよ」

 再会の約束と共に握手を交わし、二人は別れた。

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