空
物語の前日譚
かつて魔物軍の本拠地となっていた魔王城は解体されて要塞としての機能を失い、今や数多の種族や個体が存在する魔物たちを無理やりにでも総括し統括して代表として人間たちと渡り合うための組織、統括局の本部となっていた。
その上層、かつては魔王の居室であった一室。現在は統括局局長であるフィエスラの執務室。
その扉を叩いたのは統括局アサイア地方長を担うオオカミ系獣人のロン。元々険しい顔立ちをしているが、今はさらに深刻な雰囲気を漂わせている。さらにその表情にはどこか迷うような色も窺えた。
解体の際にもそのままの形で残った、重い執務室の扉が秘書の手によって開かれる。
「失礼する」
正面の机に、竜人。フィエスラ。現在は統括局局長だが、かつて――戦争の折には魔王の第一側近として、穏やかな物腰ながらも辣腕を奮っていた人物である。
「お久しぶりです、ロン。お元気そうで何よりです」
フィエスラは目を細めて一見温和な老人のような微笑みを浮かべた。しかし、彼はただ歳を重ねただけの人物ではない。それだけの人物であれば、統括局局長という立場は無論のこと、魔王の第一側近という立場に居続けられる訳がなかった。魔物は魔王に対しては服従するが、それ以外に対しては、同族でもない限り対等であろうとする。そんな中で魔王の第一側近という立場にあった彼は、当然の如く立場を狙う他の魔物に襲われたり陥れられたりされた。しかし、彼は結局最後まで、その全てを潜り抜けて魔王の隣に立ち続けた。竜人故の能力もあってのことだろうが、それにしても並大抵のことではない。魔王第一側近という称号は、力にも頭脳にも優れた、ある意味では魔王をも凌ぐ、魔物の中でも随一の強者であるという証明だった。
しかし、ロンは知っている。フィエスラの真髄は、その能力や長命であることだけではない。
だからこそ――この報告がどう受け止められるのか未知数で、ロンは迷っていた。
「フィエスラも変わりないな」
「そうですか? どうもこのところ、この……顔の所の鱗の輝きが鈍ってしまったような気がして。この前の視察の時、エルフの方々に良い育鱗剤は知らないかと聞いたら、怒られました」
「エルフに鱗はないからな……」
あ、どうぞお座りください。思い出したように言われ、卓を挟んで向かい合った長椅子に腰かける。斜向いの一人がけの椅子に腰かけたフィエスラは肘かけに腕を置いて、ロンの方へ身を乗り出すと、年齢を感じさせない生き生きとした口調で言う。
「そう言えば、ボウフル地区に出来た自由に狩りの出来る高原、評判はいかがですか?」
いくら長命種と言えど、長く生きれば、あらゆることに飽きる人も多い。しかしフィエスラは若衆と変わりない旺盛な好奇心を持ったままである。
「そちらの評判は上々だ。ただやはり造肉だと味が落ちるという苦情があるな。それに職員の方の標的を操る魔術の習熟度に差があるためか、職員の指名をしたいという意見も出て来ている」
一般的には魔物と一口に言うが、魔物と呼ばれる中にも様々な者がいる。生来持つ衝動によって人間と暮らすのが難しい者も珍しくはない。ボウフル地区に出来たのは、そういった魔物の中でも狩りをする本能を持つ魔物のために作られた施設である。今までの他所の地区での試みを踏まえて改良しながら運営しているが、やはりまだ改良すべき点は多い。
と、その話をしに来たのではないことを思い出して、「それより」と話題を切り替えた。
「ヒモトにある市に駐在している局員から、容易に聞き逃がせぬ重大な報告が上がって来た。本来ならば戯言と思うような報告なのだが……事が事でな。あの戦争の生き残りであるアンタに判断を任せた方がいいだろう、と判断して俺自ら報告に上がった次第だ」
あまりもったいぶっても仕方がない。ロンは端的に、伝えた。
「魔王様を目撃した、と」
瞬間、時が止まる。
「魔王様だと!?」
最早咆哮と言える大声に、執務室全体が微かに揺れた。正面の机に置かれていた書類が数枚ひらりと床に落ちる。しかしフィエスラは気づきもせずにロンの肩をつかんで揺さぶる。
「お、おい、揺らすな」
「どういう……どういうことだ。魔王様は確かに、勇者によって……!」
興奮が収まらないため、腕力によって無理やり椅子に押し込めながら続ける。
「しかし、しかしだ、おい聞け。今のところ、百五十年前に魔王様にお目通りが叶った者による確認は、なされていない。まだ見間違いという可能性も」
「あるものか!」
フィエスラは普段の穏やかさも忘れたように、竜人のくせ吠えた。
「魔王様は魔器持つ者が一目見れば自然魔王様と分かる。言葉なくとも知れる。そういう存在だ! 一度も見たことがなくとも魔物であれば見間違いなどあろうはずもない! それは、魔王様に違いない!」
これがフィエスラの真髄。圧倒的な魔王への心酔と崇敬である。この熱意によって第一側近の座を勝ち取った。
やはり端的に言わず、留保に留保を重ねてから報告すれば良かったと後悔するも時既に遅し。獣人の腕力に勝って立ち上がったフィエスラは秘書に告げた。
「これは魔物全体に関わる重大事です。何せ私たちの全てを救い歴史を塗り替えた御方の再臨なのだから、一刻も早くお迎えに上がらなければ。しかしその前に面識のある者による確認が必要であるとなれば、私が出る他ありませんね? 私が最もあの御方のことを知っているのだから。それに私が最高責任者ですから、私が出ればあらゆる許可をその場即時に出せます。魔王様をお迎えする手続きも滞りなく終わる」
「ま、待て! お前が直接行くとその他の手続きに滞りが生じまくる!」
ロン、秘書による制止も間に合わず、フィエスラは執務室の窓を割って翼を広げた。
「三日経つまでには帰ります! あとのことはドルドに任せます!」
「誰か連れ戻せ!」
統括局勤務の飛行可能な魔物たちによる追走も虚しく、元魔王の第一側近は大量の仕事を残したまま空の彼方へと飛び去っていった。
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