怖い沈黙だった。

 リンネは黙っていた。

 怖い沈黙だった。酒も食事も喉を通らず、ただ自分の心臓の音を聞く時間。

 細工屋を出て酒場に来るまでに繰り返し考えたことが、また頭をよぎる。

 無名の他者に名前をつけるという行為は、能力に差のない人間同士、魔物同士であればさしたる意味を持たない。しかし人間と魔物の間であると、少し意味が変わってくる。魔物が人間に名前をつける場合には、魔物側が意図的に魔術を混ぜれば人間を傀儡にすら出来る。逆に魔物が人間によって名前をつけられた時には、魔力による強制力などはないものの名前は存在に刻され、自分はその人間の所有物であると周囲の魔物に認識されることとなる。

 特に魔王は、存在自体が魔法に近い特殊なものである。その成り立ちは魔王にすら分かっていない。以前はもっと別の、他の多くの魔物とさしたる変わりもない一人の生物であったはずだが、気づけば魔王というものになっていた。魔王になるより前の生物だった頃の記憶は朧にしか残っていない。

 記憶だけでなく、魔王となったことによって、様々なことが変わった。魔力量が増え、使うことの出来る魔術が変わり、姿形を自由に変えられるようになった。そして呼称に関しては、存在をより純に保つためか、制限がかけられた。元となった個体が無名であっても、おいそれと他者によって名前をつけられることはないように。

 ただ、魔王自身の許可さえあれば、誰にでも名前をつけることは可能である。そういう感覚がある。

「……自分で、好きに名乗れば、良かろ」

 長い沈黙を経て、リンネは言った。

「それじゃ足りない。俺は真名がほしい」

 名前には位がある。真名は最も存在に強く紐付けられる名前である。位は自分で決められず、周囲の認識を操作するくらいしか変える方法はない。魔王ならばかつては魔術によって可能だったが、今は成功するかは五分五分というくらいに難しい。

「じゃあ誰か、魔物に」

 許可を与えれば魔物にも名前をつけることは可能だろう。しかし魔王に名前をつけるような畏れ多いことが出来る魔物がいるはずもない。それに、魔王自身にとってもこの市にいる魔物たちの中に名前を任せられる相手は思い浮かばない。命名を任せるのに相応しいと思える、かつて共に戦争を起こした同胞たちがいるのは、統括局などである。統括局の本部は遠方で、魔力量が少なくなった魔王にはおいそれと行くことは叶わないし、政治の舞台に魔王が突然現れれば混乱を呼ぶのは必定だ。

「それは難しい。魔物には荷が勝ち過ぎる。だから……」

 ここへ来るまでに、もう何度も考えた。魔王自身がどう感じているか。リンネがどう応えるか。魔物たちに対して不義理はないか。考えた上で、頼んでいる。

「リンネしかいない。お前以上に、俺に名前をつけるに相応しい相手は、今は他にない」

 何せ命の恩人で、師匠で、共に過ごした時間のある人だから。

 名前があれば、恐らく魔王としての位は下がる。しかし、今の世にはそれ程までに強い魔王は必要とされていない。それどころか、魔王を生んだ魔物たちは、魔王自身の幸せを望んでいると言う。ならば名前を求めることは罪ではない。浮かぶ懸念を抑え込み、卓の上で手を組んで、留めのように言う。

「頼む」

 言うべきことは言った。もう手札はない。正確に言えば他の手札を出せるだけの気力がない、話を切り出すので精魂使い果たした。あとはリンネ次第である。

 再度酒を注がれた杯を口に運んで、勢いよく呷った。今はリンネが話をする時逃げようとする理由が分かる。

「……名前、いる?」

「いる」

 即座に答えた。

 名前を得て、その名前に幸せを嵌める。

 幸せを受ける器がなければ、どれだけ幸せを与えられたとしても、十全に感受することは出来ない。

 思えば思う程、名前が必要だと感じる。

「魔王としてではなく、俺が俺として幸せになるためには、いる」

「……幸せ」

「うん」

「そうか」

 その声に違和感を覚えて、恐る恐る横目で視線を向けて、魔王は驚いて杯を落としかけた。

 灯りに照らされてほのかに赤く染まったリンネの頬に、つと一筋、涙が伝う。

 目に涙が溢れ、卓にぽたぽたと粒が落ちていく。

「な――泣く程、嫌か」

「うん?」

 不思議そうに目を少し開いたリンネは、たった今気がついたというように頬に触れる。指先についた涙を舐めて「不味い」と目を細めると、口直しするように酒を飲む。

「嫌ではないよ。……困るけれど」

 微笑んでいるのに、声は震えていた。涙は止まるどころか溢れ続けて、リンネは困ったように治療のために持っていた布を引っ張り出して来て顔を覆う。

「大した名前は、つけられないけれど。それでいい?」

 くぐもった声で言われて戸惑いつつもうなずく。

「むしろ、簡単につけてくれ。どこにでもいるような名前がいい」

「じゃあ……マオ」

 リンネは布の上から目だけ出して言った。思わず笑ってしまうくらいに、思った以上に簡単だった。その簡単さがリンネらしくもあった。異論はない。

「うん。今から俺はマオだ」

 彼が受け入れた瞬間、その存在に名前が書き加えられる。魔王としての威は消えはしないが減じ、一部の高い級位を持つ魔物への影響力などが低くなる。

 構わなかった。

 マオは、横からリンネの目を覗き込む。色の違う双眼にはまだ涙が溢れている。

「泣くなよ……。何で泣くんだよ」

「ん……」

 嫌がっていたり悲しんでいる訳ではなさそうだったが、嬉しそうにも見えない。

 強いて言えば、迷子になった子供のような目をしていた。

「……」

 顔を覆っていた布を外すと軽く首を振って、酒を飲もうとして。杯が空になっていることに気がついて酒を注ぐ。ついでのようにマオの杯にも酒を注ぎ足し、自身の杯を持ち上げた。

 リンネは震える声で言う。

「――人生に」

 無理したように笑う。

「リンネ」

「いいから」

 強い語調で窘められる。リンネは視線を落とすと、寂しげに言った。

「……いい。気にするな。私は、ずいぶん長く、莫迦でいると。気がついた、だけだから」

 催促するように杯を傾けるので、マオも仕方なく杯を掲げた。リンネは目を細めて囁く。

「乾杯」

 軽く、涼やかな音が鳴った。

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