ねぇ、あなただぁれ?
「ねぇ、あなただぁれ? お見かけしないお顔ね」
足元からそんな幼い声がして、魔王は視線を下ろした。
そこには茶色の目をした身なりの良い子供が立っていた。
リンネの診療待ちをする誰かの子供だろうかと周囲を探るが、子供を探す親らしい人物は見当たらない。
代わりに目に入るのは、慌てる魔物たちである。外套を着ていない状態であれば、姿を見れば、会ったことがなくとも魔王と分かる。そして魔王に対して魔物は自然と敬意なり畏怖なりを抱くようになっている。子供が不敬なことをしないかと慌てているのだろう。子供相手に気を悪くする程に魔王が狭量であると思っていることこそ不敬と心得ろとは思いつつ、そもそも魔王が市井でふらふらしていることが混乱の元なのだという反省もあったため、軽く手を振るだけで済ませる。
外套を着ていれば良いのだろうが、それだといいつまで経っても人に慣れることが出来ないので、人が多くない市の外れでは着ないようにしていた。
魔物たちのことはひとまず置いておき、急ぐ来客もいなさそうだったため、膝を折って子供に目線を合わせて答えた。
「俺はあそこで薬売ってる人の弟子」
診療待ちの列にいた魔物たちがどよめいた。リンネが診療した相手には帰り際に伝えるようにしているが、まだ知らない者が圧倒的に多い。
「弟子?」
「そ。まあ手伝いしかしてないが」
「お手伝いさんのこと? ミシェラの家にもお手伝いさんいるよ」
「へぇ」
身なりから察していたが、やはり裕福な家の子供らしい。ミシェラというのはこの子供自身か、あるいは知り合いの名前か。
そしていぶかしむ。裕福な家であるならば、辻立ちの薄汚い薬師の所に来るはずもない。その上今日リンネが居るのは、あまり治安の良くない地域の近くだった。
それとも、今は魔物という悪がいなくなったから誘拐の心配はしなくてもいい、ということなのだろうか。
「お嬢様、迷子か?」
「ううん。お散歩」
「そりゃ良いな。良い天気だし。でも、一人で? 誰か他の人とは一緒じゃないのか」
「う……ううん。でもお散歩だから大丈夫」
目をそらしそわそわと口に手を当てる。適当にうなずきつつ、リンネの方を窺った。ちょうど話が一段落しそうだったため、子供がどこか行かないよう手を繋ぎ、側に控える。一人帰ったところですかさず声をかけた。
「リンネ。このお嬢様が一人で散歩してるって言うんだが、放って置いてもいいものか?」
「……子供」
リンネが見下ろすと、子供は怯えて魔王の脚の後ろへ隠れた。
「金になりそうな……」
「まあ、かもな。どうしよう?」
リンネはあっさりと答えた。
「警舎に」
「……っ、やだ」
子供は魔王の脚にしがみつく。
「やだって言ってるけど」
「他にない」
「了解」
確か警舎は市で最も賑わう大通りの近くにある。まだ人が多過ぎる場所では疲れてしまう魔王は、少しうんざりとしつつ子供に声をかけた。
「という訳で、警舎か家に帰るかだ。送ってやるから大人しくどちらか選べ、お嬢様」
近くに親がいれば一番だったが、出て来る気配はない。
「やだ」
「じゃあ警舎な」
「やだ!」
これが魔物の子供であったならもう少し優しく応対しただろうが、人間であればそこまでの義理はない。
魔術で体を縛り上げかけて、今の世では同意なしに他者に魔術をかけると犯罪になり得るという話を思い出して止めた。繋いでいた手を軽く引っ張りよろけた隙に俵担ぎにする。背中を叩かれるが子供の力で敵うはずもない。
「やなんだけど! ミシェラ、ユウェンの所に行くんだから、離してーっ! 泥棒!」
「泥棒ではないだろ」
呆れつつ運びながら「ユウェン?」と聞き返した。魔王は魔物のことであれば忘れることはない。その名前は以前、初めて市に来た時に聞いた名前である。甘味処の場所を教えてくれた親切なキツネ系獣人の少年がユウェンという名前であったはずだ。
「それはお手伝いさんか?」
「違う! ユウェンはお店の料理人」
「そいつのところに行く予定だった?」
ミシェラという名前らしい子供は担ぎ上げられたままでうなずいた。
元々そこへ行く予定だったのであれば、警舎へ届けるより抵抗がないかも知れない。
「リンネ。こいつ、ちょっと届けてくる」
「ん。終わったら、いつもの酒場で、待つよ」
手を繋ぐとミシェラは上機嫌に、迷う様子もなく歩き出した。あのまま放って置いても良かったかも知れないと思いながらも、あまり手を離す気にはなれない。
昔、魔物の子供は人さらいの格好の的だった。拐われればまず間違いなく悲惨な道を辿ることになり、さらにその境遇は大抵子供が大人になってからも変わらず、その子供にまで引き継がれる。そうして人間による非情の生活の繰り返しが始まってしまえば、その生活から抜け出すことは困難だ。人間による魔物への迫害は様々でどれも陰惨だったが、中でも人さらいはそうした醜悪な輪環の引き金となることが多く、魔王はとりわけその所業を憎んだ。
いまだに街中で魔物の子供が歩いているのを見ると、少し不安になる。
人間の子供にはさして感情は湧かないが、だからと言って全くの無関心でもいられない。人さらいの目当ては主に魔物だったが、人間もたまに紛れていることがあった。そして人間とは言え子供は子供。魔物を直接迫害していた世代でもない。であるならば、守るべき対象の一つである。
身長差のせいで歩きにくかったが、ミシェラは跳ねるように歩いていく。魔王にとっては幸いなことに人の賑わう市の中央を避けた道筋だった。
どこか通りかかる度に「ここはねぇ、美味しいご飯屋さん!」「キラキラ屋さん!」と報告される。
外套を被っているとただ歩いているだけならば魔王の存在に気づく者は少ないが、話しかけられると認識阻害が少し弱くなり、その拍子にすれ違った魔物が驚いた顔をした。
歩いているうちに、比較的馴染みのある通りに着いた。あの蛙のいる甘味処がある通りである。リンネとの待ち合わせはこの甘味処か、あるいは一日しか記憶の持たない店主がいる酒場を使うことが多い。
ミシェラが立ち止まったのは、同じ通りにある大きな店構えの料理屋だった。
「ここ、お母様のお店!」
昼も過ぎているが、店内の椅子はほとんどが埋まっている。ミシェラは魔王の手をほどいて卓の間を縫って歩いていくと、空いた卓を拭いている獣人に話しかけた。
「ユウェン!」
「あ、ミシェラさんまた来ちゃったんですか? 途中で倒れたら怖いし、一人で来ちゃ駄目って言ったじゃないですか」
「一人じゃないもーん」
顔を明かさずに立ち去ることも出来たが、声をかけた。
「ユウェン。先日は世話になった」
ぽかんと開けた口の中に小さな牙が見える。
「ま……ま、ま、ま」
「うん。まあ今日は大した訳もないが……騒ぎになるから。あまり口にしない方がいい」
「は――はい」
「仕事中に悪いな。こちらのお嬢様が一人で裏通りにいたので、お節介かとは思いつつ送迎させて頂いた」
「え……ちょ、ちょっとミシェラさん! あああぁあ何とお詫び……お礼を……申し上げたらいいか」
「お前がそれを言うことはない。あと、畏まる必要もない。楽にしろ」
「そ……はい……」
言っている方でも難しい注文だとは分かっている。「魔王」は、その存在自体が魔法に近い。魔術より強く認識を捻じ曲げ、抗うことは難しい。いっそ魔王らしく尊大に振る舞った方が相手にとっては楽らしい。
「じゃあ、食事を頂けるか」
「もちろんです!」
ユウェンが片付け終わって空いた席にミシェラと共に腰かける。どうやらミシェラはユウェンのことを慕っているらしく、道中以上に明るい笑みを浮かべてユウェンの話をする。聞いているうちに、ミシェラとユウェンの関係性やユウェンの置かれている状況が分かって来た。厨房の方から聞こえて来た言葉なども総合すれば、どうやらミシェラはこの店の経営者の娘らしい。そしてユウェンはその店の料理人だが、まだ見習いの立場である。人間の料理人に指示されてきりきりと動き回っている。何の権限も持たない経営者の娘だが蔑ろにも出来ず振り回される見習い料理人。そう考えるとわざわざ連れて来てしまって悪いように思ったが、見ていればミシェラの好意をユウェンも悪く思ってはいないようなので、魔王の出る幕はなさそうである。
「でもね、ユウェンも大変なのよ」
ふと大人びた声でミシェラが言った。顔を向けると少し切なげな顔をしていた。
「獣人でしょう? そんなに毛の多い方ではないのに、ご飯屋さんじゃどこも雇ってくれなかったって。夢だったのに。仕方ないからずっと別のお仕事してたんだって。だけどミシェラのお母様が雇ってくれたって。ミシェラのお母様ってすごいの。どんな人でもやる気があるなら機会を与えれば輝ける可能性があるって、いつも言ってるから」
「……なるほど」
人間は今は魔物というだけでの差別はしないようだが、種族によっては生活を制限されることはあるらしい。今回の場合、ユウェンの就業を断った方の理由も分からないでもないが、基本的に魔王は魔物が苦しんでいることがあれば何としてでも守るように出来ている。ただ他に同様の悩みを抱えた魔物がいたとしたら、どう対処すればいいのか。必ずしもミシェラの母親のように考える人物ばかりではない。暴力は手っ取り早い解決方法だが、暴力で解決すれば今の世では他の魔物たちに累が及ぶかも知れない。難しい問題だとため息を吐いた。
「お待たせしました」
料理が届き、思考を中断した。卓に置かれたのは肉を主にして様々な野菜を添えた皿である。
「これはお前が作ったのか?」
「あ、いや。僕はまだまだなので、付け合せの野菜切ったりしただけです」
「そうか。立派だ」
手を握ろうとして、その手の爪が切られているのに気がついた。
その手を包み込んで、祈る。今は祈ることしか出来ない。
「いつか、お前の手ずから作った料理を食べてみたいものだ」
ユウェンは明るく笑った。
「――頑張ります」
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