静かな洞窟に、荒い息の音だけが響いて
静かな洞窟に、荒い息の音だけが響いていた。
体の節々の魔力が滞って、体が強張っている。痛む首を揉もうとして、咄嗟に解けない程に強く手をきつく握りしめていることに気がついた。
寝転がったままぼんやりとしていると、反対側の壁に寝ていたリンネが起き上がった。
「……おはよう」
声をかけると目だけが向けられる。起きたばかりのリンネはいつもより一層静かである。
魔王も起き上がりつつ、夢を反芻する。
初めて見る夢ではなかった。まだ腕も足も欠けていた頃から、幾度となく見ている夢だ。
しかし、体が動くようになってからは見る回数が減っていたのにも関わらず、最近また頻繁に見るようになった。きっかけは分かり切っている。
「夢を見ない、薬を処方しようか」
朝食の席で、眠たげな目をしながらリンネが言った。
「……うるさかったか?」
あっさりとうなずくと、箸を宙に向けてゆらゆらと揺らす。
「殺すとか、死ねとか、最近は、言わないから。良いけど」
「前は言ってたのか……」
「言ってた。ただ、強い薬だから。あの頃は、まだ、死ぬな、と」
一時期、目の前の人間に生死を握られていたのだと思うとさして前でもないのに不思議な気分になる。
リンネが作る薬やその処方の確かさは知っていたが、首を振った。
「薬はいい。悪夢を見る原因は、何となく分かるから」
自分がよく眠れないのも問題だが、家主の睡眠を妨げるのも申し訳ない。そろそろケリをつけなければならない。
「今度また市に行って来る」
何故急に市なのかなどと、リンネが疑問を挟むことはなかった。ただ、魔王を見る。
「たぶん、市に慣れれば、また夢は見なくなるから。また外套を貸してもらってもいいか」
「……いいけど」
リンネは少し眉を寄せた。いいと言われたからには、余計なことを言わないようにしておこうと、魔王はただ礼を返した。
食事の片付けを終えて、今日はひとまずこの前引っ張り出されたままで置きっぱなしになっている薬箱の掃除でもしようかと考えていると、リンネが目の前に立った。
「市に。知人の営む、材料屋……? がある」
肝心な部分に疑問符がついているのが気になるが、問い返さずに先を促す。
「そこに、物を。取りに行く必要がある。だけど、私は他にも、用がある、ので。代わりに……」
そこまで言って、上目遣いに魔王を見る。
取りに行け、ということだろう。恐らく自分に用があるというのは単なる口実で、何か他に魔王を行かせたい訳がある。
「うん、分かった」
きっとその訳は、魔王のためであるのだろう。機嫌が悪い時でもなければリンネは、悪意を持って魔王を貶めようとすることはない。魔王に対して悪意を持たない理由は分からないものの、リンネが自分に害をなす心配はしなくなっていた。そしてリンネに対しての不安がなくなりつつあるお陰か、魔王も悪戯心以外でリンネを困らせようと思うことは少なくなっていた。
「ありがとう」
早く恩を返したいと思うのに、世話になりっぱなしで情けないと思わないでもない。
「……礼を言うのは、私の方」
リンネは魔王が新しく作った青い花の細工のついた髪紐で髪を結ぶと、採集をしにカゴを背負って出かけて行った。その手首には赤い花の細工も巻かれていた。
薬箱の修理と清掃が終わってから、再び二人で市に降り立った。
呼び込みや無数の話し声を聞いているとまだ精神が疲れるような感覚があったが、リンネの書いた地図を手に店を探して歩いていると自然と賑わいのある方から遠ざかり、人通りの少ない道を歩くことになって、気苦労もいくらか軽くなった。
中心地から離れていく程に徐々に道が細くなっていき、陰が増えて雰囲気が怪しくなっていく。入り組んだ細い路地を行きつ戻りつしていると、地図に書かれているのと同じ印をつけた看板が地面に置かれているのを見つけた。地図上では単なる印かと思っていたが、実際目にしてみると、人間文字を反転させた形をしている。何か記憶に引っかかるような気がしたが、何も思い浮かばない。少し首をかしげつつも戸に手をかける。
戸を左右に滑らせた途端、目の奥まで痺れるような強い臭いがした。
咄嗟に鼻を手で覆う。洞窟も常に薬の臭いはしているが、基本的に出入り口から臭いは逃げていくので滞留することはない。この店に漂う臭いは、様々な臭いが混じり合ったように混沌としている。
店内は薄暗く、物が多すぎるが故の圧迫感があった。店の中央にいくつも引き出しのついだ戸棚、さらに壁にも天井から足元まで小さな引き出しがずらりと並ぶ。引き出しが抜かれて、瓶詰めになった魔虫が置かれている場所もあった。天井からは乾燥させた草の束や骨が大量に吊られ、普通に歩こうとすると顔面に引っかかる。くぐり抜けつつ奥へ進んでいくと、戸棚と戸棚の間にある小さな勘定台の奥に、丸眼鏡をかけた若い人間が座っていた。店員のはずだが、新聞を広げて熱心に読んでいる。気配からして人間ではあったが、どこか妙な雰囲気がある。
「すまない」
頭巾を取って、認識阻害を解除した上で声をかけたが気付かれず、何度か呼びかけて、やっと店員は新聞から顔を上げた。
「ん、何? ……じゃなかった、お会計? ご注文?」
「リンネの遣いで来た。頼んでいた品を受け取りに」
店員は丸っこい目をさらに大きく見開いた。
「……リンネちゃんの、遣い?」
控えを渡すようにと言われていたことを思い出し、リンネに渡された袋から走り書きのような字が書かれた紙を台に置く。丸眼鏡を外して紙を見た店員は「お……これか。ちょっと待ってて」と言って奥へ引っ込むと、少しして紙袋を持って戻って来た。
「これがヨドノニワ五束、この小さい袋にジャリア十丁。あとおまけにヒサキを六粒」
どれも魔草やその種の名前だが、この辺りには自生しない物ばかりである。品を受け取って袋に詰め、リンネに渡された財布から金を出そうとすると、店員は他に客もいないのに何故か声をひそめながら問いかけて来た。
「つ、遣いってさぁ。どうもアンタこの辺じゃ見ない顔だけど……リンネちゃんとどういう関係?」
魔王が答えるより先に、店員は小指を立てた。
「もしかしてもしかして、コレ?」
「ちッ……がう!」
店員はにこにこと笑った。
「いや別に良いと思うよ? リンネちゃん、心は枯れちゃいるけど体は永遠の二十代だし。あれ、と言うかお客さんも魔物? だったら余計に問題ないか。そりゃ昔は異種族間恋愛ってちょっと抵抗ある風潮あったけど、今どきそんなに珍しいこともないし。被食捕食の関係でもなければ気にすることないでしょ」
「そもそもそういう関係ではない!」
「じゃあ何」
このところ一言一言がゆっくりとしているリンネとしか交流がなかったため、やや混乱する。何、と言われれば、元は患者と薬師だった。しかし今は違う。その関係を何と言えばいいのか。後から考えると居候と家主とでも言えば良かったが、慌てた魔王にはその言葉が思い浮かばなかった。
「リンネの代わりに……家事を……している……」
「家事? ……あ、内弟子?」
「弟子?」
店員は早合点する。
「なるほどねぇ。とうとうリンネちゃんも弟子を取ることになったか。どんな心変わりがあったんだか」
勝手に納得されたが、訂正するのも面倒になって曖昧に流した。恋人は不味いが弟子であれば後々困るようなこともなさそうである。
「まあ、魔術師の性みたいなもんだもんね」
「……魔術師?」
聞いて、思い出した。
鏡文字を使う、元人間の話。
人間と魔物は、魔力を扱うための器官である魔器の有無によって、決定的に分かたれている。魔物はどの種族でも生まれながらに魔器を持っているが、人間には存在しない。
しかし、人間の中には、何らかの手段によって後天的に魔器を獲得し、魔物と同様に魔力を扱うことが出来るようになった異形が存在するのだという。
そうした異形は人間からも魔物からも忌み嫌われ、人間と名乗ることも魔物と名乗ることも出来ず、いつしか魔術師と自称するようになった。
彼らは普段は人間の中に潜んで生活するか、全く逆に人間から距離を置いて生活している。見た目には人間とは変わらないため普通は魔術師とは分からない。故に同族と群れることも出来ず、孤独に暮らすしかない。ただ、それでは生きていくのに心もとないと考えた一部の魔術師は、身近に鏡文字を忍ばせることで、同じ魔術師に存在を知らせて、極秘に情報網を作り上げているのだという。
あまりにも不可解な存在であり、実際に見たことがある人も滅多にいないため、時に実在すら疑われる。
戦争の折に、魔物に革命など出来るはずもないから首謀は魔に堕ちた魔術師だという説が一地方で流布したこともあった。特にその説が信憑性を持って広まった土地にいた魔物からは、何の罪もない人間に魔術師の疑いをかけ、人間が人間を殺していたという報告が上がっていた。
「あれ、知らなかった? まあちゃんとした魔術師って感じでもないしなリンネちゃん仕方ないかってちゃんとした魔術師って何だかよく分かんないけどアタシだってこれ魔術師だけど魔術は普段そんな使わないし魔力見るのにもこの眼鏡頼りだし」
「話の途中悪いが」
「はい」
「……代金はそれで足りているか」
店員が代金を数えている間、流れるように与えられた情報に思いを巡らせる。
魔術師。巷間で聞く話では伝説上の生物のような扱いだったため、リンネがそれだと聞いて驚いたが、よく考えれば思い当たる節はある。あの魔物ともつかぬ蛇や、魔草や魔虫を当然のように使う手管。言われてみれば、魔術師と言われるに相応しい。
「つかぬ事を聞くが、お前はリンネとは長い付き合いなのか」
「長い。長いよー。アタシ自身は見ての通りまだ若いし、そんなでもないけど……」
店員は指で自らの頭を突いた。
「えっと……これは婆ちゃんの記憶かな。婆ちゃんってことは四十年前? あっ違うこれもっと前の記憶だ。あれ、ここどこ……まあいいか」
誤魔化すように笑みを浮かべる。
「アタシも会ったことないアタシのご先祖様の時から、交流あるっぽい」
「記憶を引き継ぐ一族か」
「そ。ま、一応そんなでも魔術師ってね」
店員は胸を張っていたずらっぽく笑った。
「で、リンネちゃんの何について知りたいの?」
唐突に聞かれて面食らう。
「え。いや、別に」
「またぁとぼけちゃって。聞きたいんでしょ? 師匠の弱み、一つや二つ握っておきたいんでしょ? 分かる分かる。基本的にウチは魔術に使う魔道具やら材料を取り扱ってるけど、情報だって言われりゃもちろん扱うよ。どんなのがいい?」
少し、考えてしまった。
しかし、世話になった相手の話を、本人の知らぬところで隠れるように聞くというのは仁義にもとる。すぐに我に返って首を振った。
「え──いいの?」
「いい。聞きたくなったら本人に聞くから」
「あそう……」
ふぅん、と店員は首を傾げたが、それ以上は言わなかった。どうやら止めずにいるとどこまでも突っ走るが、止めれば止まる性質らしい。
店員は台に頬杖を着いて、大袈裟なくらい大きくため息を吐いた。
「ま、恋人にせよ弟子にせよ、一緒にいる人が出来て良かったよ。あんなおっかない谷の側に住んでるのに、市には滅多に顔出さないでさ。知らん間に落ちたってだぁれも気付けないんだから」
話が長くなりそうだからこれ以上はもう何も聞かないでおこうと思っていたのに、思わず聞き返してしまった。
「谷?」
洞窟の側に谷はない。魔王もずっと洞窟にいる訳ではなく、狩りや採集などで山を巡ることはあるが、谷と言えるような地形は一度も目にしていない。
店員は、ふと暗い目をした。
「あぁ、さすがに連れてってないのか。──幽境だよ」
ぞくりと、背筋が凍る。
幽境。
聞いたことはない。しかし、その単語を思う酷く不吉な気分になる。
「噂ばかりでアタシもよく知らないけどね。底が見えないくらい深い谷だって。そこにしかない魔草が生えるとか、誰にでも行ける場所じゃないとか、魔法使いが作ったとか」
つらつらと言いながら指を折る。
店のあらゆる場所にある影が、強く濃くなる。
「死者に呼ばれる──とか」
驚いて肩が震えた。身に覚えはあり過ぎる程にあった。
「リンネちゃん、幽境に行くためにあんな辺鄙な所に住んでるらしいんだよね。まあ噂は噂だけど、現実的にもね。谷なんて、不老不死だからこそ落ちたらオシマイじゃん? 這い上がることも出来ずに、ずうっと食べ物もなく谷が終わるまで歩き続けるしかない。さすがにゾッとするよ。何の拷問かって。だから、いくら研究のためとは言え心配してたんだけど、同居人がいればね。まあ誰にも知られずってことはなくなるだろうから」
「その谷……」
どこにあるのか聞こうとした時、背後の戸が開く音と共に店内に外の光が射し込んだ。
客かと思い振り返ると、その客は唯一無二の赤髪をしていた。
「あっリンネちゃん! 噂をすれば影って奴だね。って言うかさっき控え見て驚いたんだけどあの注文リンネちゃんだったの? 言ってよもう」
慣れた様子で天井から吊り下がる草束をくぐりながら勘定台まで近寄ってきたリンネは、店員の言葉には一切答えずに魔王を見上げた。
「私の噂を?」
責めるような顔はしていなかったが、一方的に後ろめたく思って言葉に窮した。聞くつもりはなかったが結果的に色々と聞かされてしまっている。返事をしないでいるとリンネは店員に目を向けた。
「レオル?」
「いやいや大した話してない、してないから。大丈夫大丈夫。えーと何話したっけ婆ちゃんとの思い出? あと恋バナ?」
「……」
リンネは踵を返した。
「ご苦労。また来る。帰る」
「え、行っちゃうの? もっとゆっくりしてけばいいのに」
一切振り返らずに出入り口へ向かう。唐突な行動だが、この相手に対してはそうするのが正しいということなのだろう。残っているとまた何か話しかけられそうだったので、魔王も軽く頭を下げて後を追いかける。
リンネが開け放しにしたままの戸に手をかける。戸を閉じる直前に、明るい声が追いかけて来た。
「またね、お弟子さん! リンネちゃんをよろしく!」
「遅くなって悪かった」
出入り口の側で立ち止まっていたリンネに言うと首を振った。元々はお互いに用事を済ませた後に近くの酒場に集まる予定だったのだが、予定より遅いので心配して来たのだろう。
魔王の持っていた袋を奪って中を検めつつ、リンネは言う。
「お前なら。御せるかと、思ったけど。強いな、当代は」
「……ここのところお前としか話してなかったからな。口が回らなかった」
リンネに特に煽るつもりはないのだろうが煽られたようにしか思われず、あまり感じてもいなかった口惜しさが勝手に言葉に滲む。
「そう。……まあ、知識は豊富な人。魔物、魔術、今の世、色々とよく、知っているから。頼りには、なる」
いくつもの世代を引き継いでいるとあっては当然知識は豊富になるだろう。今に対する知識も貪欲なようだった。
だから、今に関して知りたがっていた魔王と引き合わせようと思ったのかも知れない。
「……」
リンネを良く思い過ぎのような気もしたが、そう思っておくことにした。
ふと思い出して「おまけにヒサキ六粒入れたって」と伝えると、リンネは「ヒメルの入れ知恵か」と呟いて袋の口を絞り直した。どうやら遅くはなったもののお遣い自体は無事に終えられたらしい。安堵しているとリンネは「では酒場に」と歩き出す。単なる待ち合わせの場所と思っていたが、魔王と会ってもなおまだ行くつもりらしい。魔王も口数の多い店員と話しはしたが、以前に感じたような疲労感はまだない。今の世に慣れるのなら酒場に行くのもいいだろう。異は唱えず、リンネの後を追いかけようとしたが。
「で、弟子、とは」
「……」
問われて歩調が落ちた。
「聞こえたか……」
「うん」
「お前とどういう関係だと聞かれて……いや、弟子と俺が言った訳ではないが、わざわざ訂正するのが……面倒で」
「分かる」
「機会があったら訂正しておく」
その機会が来るのはしばらく先のように思えたが一応言っておくと、リンネは思いの外明るい声で言った。
「いや。悪くない。弟子」
驚いて顔を見ると、日差しを眩しがるように目を細めていた。
今までも何度か見たことのある表情だったが、その表情が微笑みだとはっきり分かったのは、これが初めてだった。
「説明する、手間も省ける。今度からそれで。どう?」
「……え」
「あ、でも。私の弟子となると、かえって、色々と、あるか。妙に期待されて。診療しろ、薬を寄越せと言われて。顔を出しにくくなる? 止めた方がいいか……」
珍しく口角まで上げていたのに段々と喜色が失われて、いつもの無表情に戻っていく。
「いいよ、弟子でも」
咄嗟に答えていた。
「薬師のお前の手伝いでもしていれば、嫌でも人に慣れるだろうし。あと、調子が戻れば人捌きはお前より上手い自信がある」
リンネの顔に淡い笑みが戻る。
「……ついでに、薬のこと。教えたら聞く?」
「どれだけ覚えられるか分からないが、教えてくれるのなら」
「うん、うん」
声が弾む。やはり表情は淡いが、普段からリンネを見ている者にしてみれば驚くくらいにはっきりと喜んでいる。
夢見るように呟いた。
「私が――師匠か」
何故そこまで喜ぶのか分からないせいで、少し面白くなって来る。
「師匠と呼んでやろうか」
「それは……」
リンネは頬を赤らめた。
「さすがに、照れる」
──それ程までに。
何か思い入れがあるのだろうか、それは魔術師だという話と関係あるのだろうか、と疑問が浮かぶ。
けれど、聞かなかった。
笑って肩を叩き「師匠」と呼びかけると、リンネは恥ずかしそうに微笑んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます