少しずつ魔王の行動範囲が広がって
少しずつ魔王の行動範囲が広がって、家事分担で魔王がすることの割合が増えていく以外には、あまり変わりのない日々が始まった。しかし、魔王はけしてその生活に安住しようとは思っていなかった。いよいよ温かくなり森のあちこちに花が咲き始める頃、川のそばでヌクミダの花が咲いているのを見つけた晩、そろそろ頃合いかと魔王は夕食の場で話を切り出した。
「あの外套を貸してくれないか」
人間は答えず、視線すら向けないが、それでも聞いているのは分かっているのでそのまま話す。
「市に行く。認識阻害は使えるが何があるか分からないから、間違いのない道具に頼っておきたい」
長く魔術を使っていなかったのと、まだ自分の魔力量の変化になれていないせいで、極稀にではあるものの魔術を失敗することがあった。
人間は食事を取る手を止めた。
「……行く、理由を。聞いても?」
「新聞で今の世の在り様については知ってはいるが、あれには市井の生活については詳しく載っていない。それに、自分自身の今後の身の振り方を考えるためにも――やはり一度は、実際の今の様子をこの目で見なければならない」
「……」
嘘は言っていないが、全てではない。魔王が見たいのは特に魔物たちの今の生活だった。新聞によると人間と良好な関係を築いているようではあったが、まだ信じ切れていない。そう簡単に人間が変わるものかと思う。もし魔物がかつてと変わらず虐げられていたら、あらためて人間に反旗を翻さなければならない。そこを見極めるつもりでいた。
これで人間の理解を得られず外套を借りられなくても、市に行くことは出来る。しかし、何があるか分からない以上、安全に済ませるためにも出来れば借りて済ませたかった。
無言が続き、魔王が口を開こうとした時、人間が言う。
「……貸す。ただ、条件がある」
「難しくないなら」
「難しくはない」
ひたと色の違う双眼が魔王を見詰めた。
「私も行く」
瞬間、色々と言いたいことや聞きたいことが出来たが、いの一番に聞いたのは。
「……お前の外套は?」
「私は着ない」
「いいのか?」
「良くはない……」
眉の間に皺が入る。しかし、言を翻そうとはしなかった。
「逆に聞くが、何故?」
見張りかと、考えた。魔王は人間という種族と敵対した。かつて人間を滅ぼそうとした者が人間が大量にいる場所に行くと言い出したら見張ろうと思うのは自然である。しかし、この人間がそこまで同族を気にするかが疑問だった。市に行って酷く疲れていたのを思うと、同じ人間であっても同族意識は低そうだ。人間が滅びても我関せずといった調子でこの洞窟で暮らし続ける様が容易に浮かぶ。
それなら案内役はどうか。自分からは言い出さないなと思う。
「どうせ、用もある」
人間は思い出したように箸を動かす。
「……何か、に備えるのなら。居た方が、良かろ」
「まあ、それは……」
理由は曖昧だが、特に拒む理由もない。市のことを知っている人物がいるのは、むしろ願ったり叶ったりでもある。
「こちらとしても助かる」
元々は明日行く予定だったが、人間の準備のために一日だけ日が伸びた。人間は洞窟のまだ片付けの追いついていない一角から、大きな木製の箱を引っ張り出して来た。両開きで中が戸棚のようになっている。元々薬を入れるために使っていたらしい。壊れてはいなかったが汚れていて、一日かけて掃除してみたもののすぐに使うことは出来なさそうだった。
結局準備は終わらないまま、人間は袋だけ持っていくことになった。魔術がかかっていなくとも顔を隠す服くらいはあるにも関わらず、それも着ることなく行くつもりらしかった。
市への道の下調べは既に済んでいた。洞窟の前にある坂を下りていき、獣道のような細い道を進んで、分岐に突き当たったら左へ。歩くと時間がかかるが、既に知る場所であれば魔王の魔術で移動することが出来る。魔器の損傷によって一度で移動出来る距離や同時に運ぶことの出来る質量は落ちたが、二人分を運ぶくらいであれば何も問題はない。事前に下調べしておいた市が見える場所まで人間もまとめて移動する。
遠目に市を臨む。尖塔に黄色の旗が立っている。尖塔の周囲には石造りの建物が多いようだったが、視線を移すと木製の屋台ばかりが立ち並ぶ区画などもある。まだずいぶんと距離があるにも関わらず、人の賑わいがどことなく感じられる。
市とは。かつては部と呼ばれる人間の共同体が集まって度々行う、単なる交易の場だった。しかし現在では市は定期的に、出展する店の業種を変えながら常時展開されており、交易だけでなく各地方行政の中心にもなっているらしい。
ふと、手が震えていることに気がついた。
この先にあるのは、自分が生きていた頃より百五十年後の社会。人間と魔物が手を取り合い暮らしている街。自分が夢見た暮らし。
人間が道を歩き出す。その背を追うように歩いて行くと、徐々に周囲に建物が増えていく。
そして、人間が。
魔物が。
共に道を歩いているのを見た。二人共笑い合っていた。
「……おい」
人間に腕を引かれるけれど、すぐに動くことは出来なかった。知識として知ってはいたが、実際に魔物が人間と同じ立場で生活しているのを見ると、まさか本当に、と自分の目を信じられなくなる。
半ば引っ張られるような形でさらに進んでいく。市の中心地に向かっているのか、魔物も人間も徐々に増えていく。
「ここが大通り。今日は、黄色だから……家の市」
人間の言葉を聞くのも忘れて見入る。
ずらりと道の両端に向かい合って並ぶ屋台。店先には様々な物が置かれている。目立つのは大きな家具である。棚や座卓や鏡台などの実物を狭い屋台に所狭しと置いている店もあれば、魔術で実物と全く同じ幻を見せている店もある。店先には何も置かずにカタログを見せ、客に聞かれた時にだけ奥から怪力を持つ魔物が運んでくる店もある。店によって様々な形で販売しているらしい。大きな家具ではなく様々な形の皿のような雑貨を売る店や、好きな設計の家具を一から作ると店先に立って呼びかける店もあった。相当に雑多である。
しかし、それ以上に魔王の目を引いたのは、向かい合う屋台の間を行き交う、あるいは屋台の裏で人間と共に働く魔物たちだった。
その中に、首輪をつけられ、粗末な服を着せられ、檻の中にいるような魔物は一人もいなかった。家族から引き離されて異郷の地で奴隷となって苦しむ魔物は一人だって見当たらなかった。泣いているのにさらに打たれる魔物の子供も、見世物のように殺される魔物も、いない。
皆、当たり前のように人間と同じ道を堂々と歩いていた。
目の前に、いつか夢見た光景がある。
息が詰まった。
そういう社会になっていることは知っていた。思像もしていた。しかし思像も理解も足りなかった。
そして――湧いた思いはそれだけではない。
身の震え。息の詰まる感覚。目の眩み。自分の中に思いもしなかった感情が生じ、意思関係なしに頭を揺さぶる。
胸の辺りがいやに冷える。
「……」
呆然と、目に映る物に打たれていた。
「あれ、薬師さん!」
「……」
目の前に、年嵩の人間が立っているのにも気が付かなかった。向こうも認識阻害がかかっている魔王には気付かない様子である。
「久しぶりねぇ。何年ぶり? 診療しに来てくれたの?」
「……いや。今日は」
「違うの? あ、でもちょっと聞いてくれないかしら。最近膝が痛くってしょうがないのだけど」
さらに別の方向から、元気そうな青年が呼びかけた。
「あ、あーっ! 薬師さん! ねぇねぇ俺のこと覚えてる? 建部のギンジの孫。ちっちゃい時に世話になったんだけど。爺ちゃん、死ぬ前にいっぺん薬師さんに会いたいってさぁ。ちょっと来てくれない?」
声を聞きつけてさらに幾人もの人が人間を見ては、話しかけたさそうに近寄って来る。ちょっとした人だかりが出来ようとしていた。中には人間もいれば魔物もいる。
腕を引っ張られて耳に口が寄せられた。
「……四ツ辻。旗が見えるね」
言われて見ると、少し行った先にある四ツ辻の中心に、旗がはためいていた。先程尖塔の天辺に見たのと同じ色である。さらにその先の四ツ辻にも旗が立っている。
「四つ目で右に。少し先、左手側に、蛙のいる甘味処が見える。店員に、リンネを待つから二階を使うと言え」
袋の中から出した小さな袋を手渡される。その重みで金が入っていると分かる。
反駁する余裕もなくうなずいたが、すぐ首をかしげた。
「……リンネ?」
「私の名」
人だかりを抜けて言われた通りに道を行くと、ちょうど四つ目で街の様子が変わるのが分かった。三つ目までは店員が店先まで出て呼び込みをする屋台が多かったが、四つ目の辻では屋台よりも、どしりと店舗を構えた店が目立った。この先の店は屋台のように定期的に変わるのではなく、この市に常駐しているのだろう。人通りは少し落ち着いている。
右に曲がり、少し先。左手側に蛙。
もう少し詳しく聞いておけば良かったと後悔した。まず「蛙」の意味がよく分からず、どこを見ながら探せばいいのかが分からない。甘味処と言える店は複数あった。看板に何か書いてあるのかと思って見上げるが、蛙はいない。
人に聞くしかなさそうだった。
道の端に寄って休憩しつつ、聞く相手を探る。自ら話しかけると認識阻害は弱くなり、外套の中の顔もはっきりと分かるようになる。つまり魔物に話しかければ魔王であることが直ちに発覚する。た人間は不老不死のような特殊例でもない限り、直接には魔王のことは知らないから恐らくは気付かれないが、今は少し抵抗があった。結局行き交う魔物の中で、魔王と気付かれてもあまり騒ぎにしなさそうな人物を選んで、話しかけた。
「すまない。蛙……のいる甘味処を知らないか」
「え、あぁはい、蛙なら……。……え?」
キツネのような耳と尾を持つ獣人の少年である。まだ幼さの残る見た目をしている。人間の街の中にいるにも関わらず、これまで見かけた他の魔物たちと同じように足取りは軽く、健やかな横顔をしていた。
目が会って、つぶらな瞳がますます丸々と見開かれる。
「ま……ま、ま、ま?」
やはり気付かれてしまうらしい。騒がれる前に口の前に指を立てた。
「静かに。訳がある。……今は騒がないでいてくれるか」
手で口を覆った獣人はこくこくとうなずいた。手を離すと、息をすることまで忘れていたかのように慌てて息を吐いて吸って、既に通り過ぎていた方を指し示した。
「蛙のいる店なら、た、たぶん、そこのお店じゃないかと」
「蛙というのは何なんだ?」
「店長さんが蛙なんです。軒先に吊られてる箱の中にいつも」
確かに指された店の軒先には箱が吊られている。箱の側面の下部には丸い穴が空いていた。獣人に言われて穴を覗き込むと、蛙と目が会った。ほとんど無我になっており、これはこれであの蛇のように思念が全く伝わって来ない。ただ魔王の機能のお陰でこの蛙が魔物であることは確かに伝わって来る。
それにしても、「蛙のいる甘味処」とだけ言われてこの店に辿り着くのは相当に難しかった。
「これでどうして分かると思ったんだ……」
「あ、あの。大丈夫ですか?」
「あぁ。たぶん、ここだろう」
言いつつ獣人の頭を撫でた。血や泥水で汚れておらず、栄養失調で抜け落ちた箇所もない綺麗な毛並みをしていた。
「君の名前を聞いても?」
「ユウェンです」
「覚えておく。ありがとう、ユウェン」
「そんな……身に余る光栄です! まお――」
咄嗟に手で口を塞いだ。
別れを告げるとユウェンは当然のように、たった一人で人間の中を歩いていった。周囲の人間もそれを当然のように受け入れている。しかし、魔王には違和感が拭えず、不安が募る。その姿が見えなくなるまで見送ってから、魔王はやっと店に入った。
どことなく甘い匂いが漂い、そこかしこに蛙の意匠が使われた二階建ての建物である。一階には円形の卓と椅子が数組置かれているが、埋まっているのは二つだけだった。しかし、店の建材や家具は濃い茶色をした木材で統一されており、長居したくなるような落ち着いた雰囲気がある。時間帯を考えてももっと人が居ていい店のように見えて、微かに違和感を抱いた。
店員には魔物も人間もいたが、悩んだ末に人間に話しかけ、言われた通りに「リンネ」と名を出した。すぐに合点がいったようにうなずいた店員は魔王を二階へ案内する。二階は簡単な仕切りで分けられた座敷席だった。他に客がいる気配はない。魔王は市を見下ろすことの出来る窓のある席を選んで腰を下ろした。
お品書きを渡されたが、甘味処に馴染みがなく何を頼んだらいいのか検討がつかない。
「……リンネがよく頼む品はあるか?」
「リンネさんはいつも冷やし飴と、牛乳の寒天を頼まれますよ」
「じゃあ……同じので」
菓子が届いて店員が下がる。それでやっと、張り詰めていた糸が緩んで、息をついた。
行儀が悪いとは思いつつ寝転がる。天井には灯りが下がっているが、火ではない力で周囲を明るくしているようだ。洞窟よりもずいぶんと眩しい。
目に腕を置いた。
自分でも、まだ、何にこれ程衝撃を受けているのか分からない。
ただ、人間と魔物が同じ場所で、平和に暮らしているのを見た時。間違いなく喜ぶべき場面だと頭では考えているのに、胸に思わぬ痛みがあった。
目を瞑っているとひたすら自分の頭の中を覗き込んでしまうことに気がついたので、起き上がって窓から市を眺めた。
窓から見えるのは魔王が来た方向である。所々に穴あきを挟みながらも低い屋根が連なっている区画は、先程見た屋台が集まっている場所だろう。屋台の立ち並ぶ区画よりも奥へ視線をやると、ちらほらと高い屋根や細工を凝らした建物が見える。市の外から見た時一際目立っていた尖塔も、屋台のある場所ではなく、石造りの建物の側に立っていた。
他の土地にある市と比べればあまり規模は大きくないと聞いていたが、記憶にある人間の集落と比べると大分大きく見えた。建物自体が大きくなっていることに加えて、以前よりも多くの魔物が人間と共に暮らしているせいだろう。人間から迫害される恐れがなくなれば、習性でもない限りは険しい山や秘境に住まなくてもいい。新聞によれば魔物の食料の代替物や育成も日々進化して、わざわざ採りに行かずとも済むようになっているようでもある。
この視界の中、この空の下には、どれだけの人がいるか。
昔広々とした景色を見た時に思ったのは、その空の下にいる多くの魔物たちの苦しみだった。
今は、何も浮かばない。
街並みを眺めていると時が過ぎた。
自分の中に生じた感情を知るには充分な時間だった。
行き交う人の中に赤髪が見えた。少し安心しつつも、人の中にいる光景が珍しく、何だかまじまじと見てしまった。
この辺りの人間には黒や茶の髪が多いようである。昔魔王がいた場所には金もいた。赤を見たのは初めてだった。上からその赤だけを見ていると、魔物と勘違いしてしまいそうになる。実際一言に魔物とは言いがたい物と体を共有してはいるが、魔王としての機能があの人物は魔物ではなく人間だと告げて来る。どうあれ、あの洞窟から出ても、やはり奇妙な人であることは間違いなさそうだった。
あの人だかりは撒いたらしかったが、まだ時々話しかけられては応えているので、姿は見えてもすぐには辿り着かなかった。無視せずに一々立ち止まっては応対しているのが意外である。話しかけるのは魔物人間区別なく、老若男女も問わない。顔が広いのも意外。
まだ知らないことが多いと思った。少し考えて、思い直す。あえて知らないようにしていたような気がする。
名前すら聞かないでいた。
「リンネ」
二階に上がって来た人間に、そう呼びかけた。
「リンネ」は目を細めた。
「外套、脱いだら」
「客か店員が来たら騒ぎにならないか」
「人払い、口止めはした」
鬱陶しくはあったので外套を脱ぐ。リンネは魔王の向かい側に腰を下ろす。以前のように酷く疲れている様子だったが、気分まで落ち込んではいないようだった。
リンネは卓の上にある皿に目を留めた。もう空になっているが、リンネにはそこに何があったか分かるらしかった。
「一番、つまらない物を、食ったな」
「お前がいつも食う奴をと頼んだ」
「……」
気まずそうな空気を漂わせたリンネは窓の外に目を向けた。
「百五十年前からある菓子」
その菓子を頼む気持ちが、分かるような気がした。
「……道理で。昔食ったこともないのに、懐かしい味がした」
卓上にあった鐘を鳴らして店員を呼ぶと、リンネは同じ物を頼む。「何か頼んだら」と促され、魔王は冷やし飴だけを頼んだ。
店員が一階に行った後、何か探るような沈黙が出来た。
「知り合いが多いな」
魔王がそう言うと、リンネは自分の首に手を当てる。手に覆われた目はそろそろと逃げるように首の反対側に移動する。
「目立つから。髪も、目も。それに、長くいる」
「それだけじゃあないだろ、たぶんだけど。薬師さん?」
慕われている様子であったことを揶揄するもリンネは無表情に流す。
「……さて。どうか」
階段を上る足音が聞こえて言葉を切った。店員が戻った後、器に入った牛乳寒天を匙ですくって飲み込んでから続けた。
「憐れと、思っているのかも」
「お前を? 何で?」
「……憐れだろう。山に、一人で。見た目ばかりは、若い女が」
確かに言葉だけ聞くと心配になるような境遇だが、魔王は目の前の人間が割合自由に暮らしているのを知っている。魔王が知っていることをリンネも知っているにも関わらず、しらっとした顔で言うので笑ってしまった。
笑いが収まってから、じっと覗き込まれているのに気がつく。
「お前は。……落ち着いたか」
市に入ってから茫然自失でいたことには当然気が付かれていた。問いに一度うなずいたが、その後で少し首をかしげた。人混みにいた時と比べれば落ち着いてはいるのだろうが、まだ内心には荒ぶる波がある。落ち着いているようで、ふとした瞬間糸が切れて倒れ込んでしまいそうな緊張感が自分の中にずっとあるのを感じている。
「見て、どうだった」
「……んー」
じっくりとは考えていなかったが、街並みを眺めている内に、自分の中に湧いた感情とその理由が少しずつ分かりかけていた。
「お前が市に行った後疲れていた理由が、何となく分かった気がする」
「……そう」
窓の外を見た。
「人間と魔物が対等の立場になっている社会っていうのを、治療を受けている間ずっと思像してはいたんだけど。いや……死ぬ前からずっと夢見てもいた。こういう、魔物が誰も傷つかず、人間と同じように生活出来る世の中にしなきゃいけないと思って、俺は魔王になったんだよ」
「へぇ」
「どうでもよさそうだな」
「うん」
今更ながら不思議に思う。いつか、リンネはちょうど十五歳の時に、開戦の合図となる魔物の嘆きを聞いたと言っていた。そして不老不死になったのが二十前後と考えると、十五歳から三年間は不老不死でもないただの人間の立場で戦争を体験しているはずだ。しかし、社会を乱し、時に人間を殺した者共の首魁に対して、何も恨み言を吐いたことがない。不思議と生き返ったとは言え途切れかけていた命を助けてさえいる。どんな辺境にいても魔物が一斉蜂起したあの戦争から逃れられた訳もなく、何かしらの被害を受けていることはほとんど間違いないと言っていい程にも関わらず。
気にはなるが、聞くのが怖いと思った。
「……ま、そういう訳で。だから、この光景は……本当に、嬉しい」
「……」
治ったはずの胸の傷が痛む。
「はずなんだけどな。実際見たら、寂しくなった」
「寂しいか」
「いや……どう言ったらいいのか」
いくらリンネ相手でも心情をそのまま明かすのは躊躇われて、少し笑って誤魔化そうとする。しかし、ふと見ると、リンネは頬杖をついて、まっすぐに魔王を見つめていた。
「偉いな」
初めて会った時よりも冷たい顔をしていた。
「偉い? 偉くは……」
「偉いよ。いつも、私は嫌になる。何もかも壊して、更地に、してやりたいと思う」
リンネは首を振った。
「お前は、お前を忘れたこの世界に、復讐したって良いのに。寂しいと、言うのだから。偉い」
その言葉を聞いて、やっと、自分の中に湧いた感情の輪郭をはっきりと捉えられたような気がした。
急に苦しくなって顔を覆う。自覚した途端胸に空いた大きな穴に冷たい風が吹き込んで、また市の中で感じた震えが起こる。
自分に言い聞かせるように呟いた。
「俺が始めた革命は……俺を置いて、もう、終わった……」
誰も責められることではない。それは当然のことである。
何せ、魔王は死んだのだから、魔王以外の誰かが革命の続きをしなければならなかった。
残された皆で魔王の夢を叶えてくれた。むしろ喜ばしいことである。自分が居なくても革命は成った。ここまでの成果を上げた。魔王の亡き後、夢を継いで叶えた同胞たちには頭が上がらない。そのはずなのに、思ってしまう。
命を賭しても叶えたかった夢は、もうない。
「……どうして俺は、生き返ったんだろう」
リンネは、黙っていた。
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