人間は洞窟の外にある坂に座って

 人間は洞窟の外にある坂に座って、冷たい風に吹かれながら杯を傾けていた。

 日差しはちょうど、微かに風になびく髪と似た色をしていた。

 魔王は洞窟から出て、人間の人間の背中まであと五歩という所で立ち止まった。戻って、洞窟の中の物干し竿にかけられた、人間が市へ行く時に着る外套を持って来ると、背後から人間の頭に被せて、自分は隣に腰かけた。

 人間は慌てもせず、外套を肩にかけ直すと、また一献。美味そうには飲まず、淡々とかっ食らう。

「……一杯寄越してみろ」

 手を差し出すと杯を渡され酒が注がれた。澄んだ茶色をしている。

 飲んでみると辛く、熱く、不味かった。

「生臭ぇ……」

 杯を取り返して人間は言う。

「蛇酒」

「共食いか?」

 思わず言ってしまって気分を害さないかと少し慌てた。涼しい顔をした人間は、目を細めて軽くうなずいた。

「この蛇の呪は、生らしい。なら、常に生き、常に死ぬ。かのウロボロスのごとく。尾を飲めば、全となり。死を得るかと。思う日があった」

 いつの間にか魔王の耳は、人間の言葉に微かに混じる感情を、少しは聞き取れるようになっていた。いつも通りの淡々とした口調だったが、怒ってはいない。それどころか、その言葉の不穏さとは裏腹に、気分は良いようである。

 呪。死。思うのは内心でだけで、口には出さない。口を挟む時期を間違えないようにその呼吸を読む。

 人間はまだ言葉を続けようとしていた。

「……そうは、ならかったけれど」

 また酒を注ぐ。杯が酒に満ちると、持ったままで、飲もうとせずに、前へ視線を向けた。

 前にあるのは木々と、人間が市へ行く時に使う細い道の先である。特に変わったところも見るべきところもない。きっと人間は、その方向に視線を向けているというだけで、心は全く違う物を見ていた。

「しかし、どうも、諦めの悪いたちで。まだ、いつか、その時が……」

 色も形も異なる両眼は、元々視線の在り処が取りにくい。

 しかし今、自分がその両眼の行く先を計りかねるのは、この人間にしか見えないものを見ているからなのだろうと思う。

 人間は目を伏せて。

「――来たら、と」

 杯に口づける。

 それを見て、不意に身の内から焼けるような思いが湧いた。

 いつ話しかけようかと機を窺っていたのも忘れ、横から杯をすくうように奪い取った。

「その時とやらがまだ来てなくて良かった」

 杯を引っくり返す。

「もしここにお前がいなければ、俺はまた死ぬか、永劫苦しんでたろうからな」

 苛立ちのまま吐き捨ててから我に返るも時すでに遅く、人間は固まっている。

 やっと満足のいく物が完成したから、ただそれを渡そうと思っていただけだった。もう少しきちんと、感謝と共に渡す予定でいたはずが、むしろ喧嘩を売るようなことをしている。

 こうなったらもう破れかぶれと、魔王は杯を奪われ空いた手に、代わりに、渡そうと思っていた花を置いた。

「まあ、だから……やる。髪紐」

「……何」

 珍しく人間は目を見開いて、呆気に取られた顔をした。

 その顔を見て少し胸がすく思いがして、笑った。

「よし、一本取った」

「……勝負を? しかけられて?」

「いや別に。それはともかく」

 話を戻すため、杯を持った手で人間の手に置いた花を指し示す。

「それ、礼。気が早いかも知れないが、とっくに散々世話になってるしな。ありがとう」

 もう日も暮れかかっているのに、人間は日にかざすようにその花を掲げて、眩しがるように目を細めた。

 花と言っても生きた花ではなく、布を重ねて留めて作った、命を持たない細工の花である。

 以前人間が持ち帰った細工を参考にして、魔術を使えない間に作っていた。さらに作った花を紐に飾りとして付けて、髪紐として使えるようにしている。

 花弁は赤。人間の髪より鮮やかな赤。

「……礼は、いらない」

「じゃあ返せ」

 人間は拒むように少し腕を引いた。その反応で、少し安心した。

「嘘だよ。嫌がられても押し付けようと思ってた。返されたって受け取るか」

 あっさり「いらない」と言われる光景は容易に思像出来たから、何としてでも受け取らせようと決意していた。

「それは……礼か?」

「……」

 問われて、礼ではなかったのかも知れないと気づいた。全くその気持ちがない訳でもなかったが、それだけでもない。

 本当に人間を喜ばせようとしたなら、もっと実用の品を贈っていた。

 わざわざ人間が普段使いもしない髪紐にしたのは、そこに飾りをつけたのは、その色に赤を選んだのは、感謝以外の感情に違いない。言われてみればその感情に心当たりはあった。自らの服を持たず、魔王の治療のための品だけ買って帰った時や、ついさっきの死を望むような態度に感じた人間への怒りめいた衝動が根底にはずっと潜んでいたように思う。

「嫌がらせのよう」

 人間は目を細めて言うと、手を上げて背に回す。乱れた髪を軽く手櫛で整えて、もらったばかりの髪紐で一つに結わえる。

 赤髪に埋もれるように赤い花が咲く。

 もっと大振りな方が似合ったかも知れない、と思う。あるいは別の布、別の色。考えながら返事をする。

「少なくとも、嫌がらせではないから」

「……」

 花に休む蝶の羽ように、人間の目はゆっくりとまたたいた。

「……そう」

 人間はふと立ち上がり、着ていた外套を魔王の頭に落とした。

「なら、お前は、余程贈り物をする才がないか、あるいは。嫌がらせの才に、長け過ぎている」

 外套を取りつつ言葉を聞く。隣に人間なく、酒瓶だけがぽつんと置かれているのを見つつ答えた。

「俺じゃなくてお前に、贈り物される才能がないんだろ」

 人間の声は静かだった。

「……納得した」

 酒瓶と杯と外套を持って立ち上がる。ムシロに寝転がる人間に「髪は解けよ」と声をかけたが、もう返事はなかった。


「治療は終わり」

 翌日。採集物の入った袋を抱えた人間は、魔王に背を向けながら、素っ気なく告げた。

 洞窟の外で干していた肉を中に入れようとしていた魔王は、突然の宣告にやや呆気に取られて、洞窟の中に戻っていく背中を無心に少しの間ただ眺めていた。

 まだ先のような気がしていたが、花が咲くまでと言うなら、花が咲くまではいつだってその時になる可能性があったのだと、今になって気づく。

 人間は何でもないように袋を採集物置き場に置いて、ムシロに腰を下ろした。立膝をついて壁に寄りかかり、うつむき加減にぼそぼそ喋る。

「ただ、前に、少し話した通り。魔力は、元には、戻らない。魔器自体が破損して、以前よりも容量が……ない」

 確かに体に巡る魔力の量は少なくなっていた。全盛期には到底及ばず、最早全世界の魔物たちに呼びかけることも出来そうにない。魔術を使うことに問題はないが、人間を相手取って反乱を起こすような大掛かりなことは難しいだろう。

 不満ではないと言えば嘘になる。

 しかし、かつて失われていた腕は戻り、足も痛みもなく自由に動く。胸にあった傷は何故か痕を残したが、それ以外には問題なく完全に塞がれた。

 そもそも、一度は死んだのだ。

「ま、仕方ない。生きているだけで御の字だ」

 答えつつ魔王も洞窟の中に戻って、肉を寸胴の筒に放り込んでいく。底の方にまだ残っていたのを取り出してかじる。

 ふと隣に置いていた筒の中に何も入っていないのに気がついてほくそ笑んだ。前は生食していた木の実を炒っただけだがお気に召したらしい。

「胸の傷も、痕が残った」

「それも別に――」

 振り返ると、人間は手に杯を持っていた。

「……力及ばず、すまない」

 消え入りそうな声で言うと、杯を仰ぎ、さらに瓶から新たに一杯注いでそれも飲み干す。

「私には、もう、出来ることはない。好きな時、どこへなりと行け」

 人間は洞窟の外を、腕をのばして指し示す。杯を持った手をゆらゆらと揺らしながら説明し出す。

「坂を下りると、道がある。道なりに進むと分岐がある。左に折れると市。私の足で二時間、お前なら、もっと早く辿り着ける。たぶん。右は、その先何があるかは、知らない」

 ゆっくりと腕を下ろすと、また酒を注いだ。

「……あ。待ておい、飲むな」

 制止は聞かず、人間はついついと酒を注いでは飲み干していく。

 仕方無く酒瓶も杯も取り上げて強制的に中断させた。代わりに干し肉を口の中に突っ込むと大人しく噛み始める。

 少し希望的観測を以って言えば、大人しくというよりは、消沈として。

 ため息を吐きつつ、取り上げた物をすぐには手の届かない所に移動させてから、魔王は間近に立って人間を見下ろす。

「お前、言いにくいことを言おうとする時に逃げるよな……」

 この暮らしの中で気づいたこの人間の癖だった。後ろめたさや気まずさで言いにくいと感じながらも言いたいことがあると、この人間は元より小さな声をさらに小さくしたり、魔王に対して背を向けたり、方法は様々だがとにかく正面から告げることを避けつつ言おうとする。どの道言うべきことは言うのだが、言われた方が聞き逃しかけたりその言葉を軽く見てしまったりする。けして褒められた癖ではないが、慣れればかえってはっきりと分かることもある。例えば、この人間にとって、「治療は終わり」の一言は、何かしらの理由で言いにくいことだったことが、この癖のお陰で逆に明らかになる。

 杯を呷ろうとしていた手首には、昨夜贈った髪紐が巻かれている。

 無表情。しかし、無感情ではない。よく見ていればいつも、どこかにその思いを読み取ることの出来る箇所がある。

 「嫌がらせ」と責めつつ贈り物を身につける、その感情を完全に理解しているとは言い難かったが、賭けてもいいかと思うくらいには期待した。

「なぁ。どこへなりと、と言うが、魔王が人に混じることが出来ると思うか?」

「……魔王の姿を、知る人間は、もう亡かろ」

「あいにく魔物は皆俺を知る。見合えば、それが一度目であっても俺が王と分かる」

「魔物なら、お前に味方する、のでは」

「どうだか。世が変わったからな」

「……」

 少し嘘をついたが、人間は気づかない様子だったので押し通す。

「このままだと、俺は行き倒れるかもな」

 人間は魔王を見上げた。

「つまり、まだここに、置けと」

「そうは言ってない。ただ、こういう俺はどうしたらいいのかと、ちょっと聞いてみているだけだ」

 手から酒を取り上げられ、逃げる先も塞がれた。

 魔王を仰ぎながら人間は、観念したように答えた。

「……そういうことなら。今しばらく、ここに、置いても……まあ、仕方ない、か」

「どうも」

 酒瓶と杯を返すと、人間はため息をついた。

「上手くやる」

 元々は、人間から完治を言い渡された時、普通に頼み込む予定だった。情に訴えてもあっさりと放逐されるだろうと考えていたから、家事などで自分の有用性を示した上で、治療費や生活費の返済が出来ていないことも理由に付けて、きちんと交渉をしようと思っていた。

 しかし、いざその時になって、人間に少し情があるように見えた。

 そうしたら、少しでも相手にも情がある、その可能性に賭けてみたくなった。交換条件を出してその対価として滞在を許してもらうのが無難とは思いつつ、その情を試してみたくなった。

 多少同情を引くような言葉を使いはしたが、この人間はそれだけで慈悲をかけるような性格はしていない。つまりこの結果は、魔王が上手くやったからではない。

 お互いに離れるのを寂しく思うくらいには、相手を好きになっていたというだけである。

 今それを言うと今度こそ放り出されそうな気がしたので、計画通りだったということにしておくことにした。

「……そうだろ?」

 言いながら少し頬が熱くなって、隠すために人間の頭に手を置きぐいと下を向かせた。

「そういう訳で、これからもどうぞよろしく」

 手を離しながら外に足を向ける。今日は棚の修理の続きをしようと昨日から決めていた。洞窟を出て行く直前、聞こえなくても仕方ないような小さな声で呼び止められる。

 振り返ると、人間は髪紐をつけた方の手を軽く振った。

「これ、もう一つ作って。私、青の方が好き」

「まあ……いいけど」

「あと、あの炒った奴も」

「はいはい」

 手のかかる人間である。

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