いくら見ても、日付は変わらない。

 百五十年。

 紙によって最大で一年程度のズレがありはしたものの、どの紙にも魔王が生きていた時代のおよそ百五十年先が記されていた。

 いくら見ても、日付は変わらない。内容にも変化はない。しかし、魔王は全ての記事を暗記する程に繰り返し読んだ。分からない語句は人間に聞き、人間にも分からない語句は前後の文脈を読むことで推測した。

 意思疎通魔術の精度を上げればもう少し情報が手に入ったはずだが、それには魔力が必要で、人間からの承諾が出るはずもなかった。

 しかし、日付が確定してしまった今、魔王はとにかく情報が欲しかった。

 魔王の死後、魔物たちはどうなったのか。

 魔物と人間は、友好的な関係を築いているように、記事からは読み取れる。学院が創設されることを考えても偽善ではないようだ。第一側近だった竜人は現在は統括局局長という肩書きを得て、魔物を総括する役割を担っているようだった。

 記事の中には訴訟や市の規則に関する注意書きなどが載っている記事もある。人間と魔物が対立している内容も中にはあったが、あくまで当事者たちが人間と魔物であるというだけで、個人の間での小競り合いの域を出ないものだった。記事の書き方も種族の対立を煽るようなものではなく、人間の非も魔物の非も等分に扱っている。

 革命を起こした時に理思としていた世界に、限りなく近い世界があった。

 本当のようには思えず、魔王はうすら寒いような思いで記事を通読したら、また記事の始めに戻る。

「……出て来る」

 投げられた新聞よりも無惨に地に落ちる声を、辛うじて聞きつけた魔王は新聞から顔を上げた。

 人間は両手に何も持たず、洞窟を出て行こうとしていた。

「カゴは持って行かないのか?」

 採集の時には、採集物を入れるために必ず持って出かけていく。

 人間は立ち止まって、振り返る。表情はない。

「……市に行く」

「外套は?」

 市へ行く時には、認識阻害の魔術のかかった外套を必ず来ていく。恐らく目を隠すためだろう。土地柄によっては赤髪も目立つ。

 人間は少し戻り、外套を身につけると、じっと魔王を見た。無表情だがどことなく「これで文句はないか」と言いたげに見える。

「市に行くなら袋があった方がいいんじゃないか」

 悪戯心が湧いて、表情には内心を出さぬようにしつつ言うと、人間は微細に頬を引き攣らせて頭巾を被った。表情にまで感情が出たのを初めて見たような気がして凝視したが、認識阻害のせいで何も感じ取れなくなった。

 何も持たずふいと洞窟から出て行くのを、軽く手を振って見送った。

 人間は市から新聞を持ち帰った日以来、ずっと「二日酔い」が続いているらしい。

 表情にはほとんど変化はないが、心ここにあらずという雰囲気でいることが増えた。背負い籠を背負って出かけて、空のままで帰って来ることもあった。こうして謎めいた外出をすることも一度目ではない。そういった不可解な行動に理由を問うと人間は「二日酔い」と一言答えた。その声は説明を面倒がっているように聞こえた。

 さすがに「二日酔い」で誤魔化されるにも限度があるが、追いかけようにも魔王の足はまだ治っていなかった。形だけは戻りつつあるが、中身が伴っていない。歩こうとすれば痛みが生じるだけでなく、自重に耐えられず表皮が薄氷のように割れる。

 「だから、けして無茶をしないように」と言われていた。加えて、次に命令を無視したら三日三晩のたうち回ってから死ぬ薬を飲ませると、訥々とした口調で釘を刺されていた。治療が後退することが相当に嫌らしい。

 魔王につけられる薬はどれもあの人間による調合のようである。通常の人間には魔草や魔虫などの魔力を持つ素材は扱えないはずだったが、人間はそれらも当たり前のように扱っていた。効果の程は自らの体で体感している。態度は悪いが、あの人間は腕の良い薬師らしかった。だから、魔王は大人しくしているしかない。三日三晩のたうち回って死ぬ薬を作ることくらいは出来るのだろうし、人間が魔王を殺すことを躊躇うとも思えない。

 大体が、魔王が人間に助けられているということ自体が不可解なのである。革命の折、魔王は人間たちに相当に恨まれたはずである。しかもあの人間は不老不死故に当時の記憶がある。何かしらの恨みがあって当然、その恨みに従って殺される方が納得がいく。

 何故治療を施しているのか。そもそもここはどこなのか。お前は誰なのか。聞きたいことは山程あるが、藪をつついて蛇を出すことになりかねないと何も聞いてはいない。人間も自ら説明しようとはしない。

 気づいた時には人間に助けられているという事実があった。この生活は雲より曖昧模糊とした経緯の上にある。そして行く末もまた、同様に不明。

 新聞を置いて、ぼんやりと木々の隙間に見える空を眺める。空気が冷えるせいか綺麗に澄んでいた。


 日が暮れて、再び空が白み始める頃。夜に取り残されたような色の陰が、ひっそりと洞窟に忍び込んだ。陰は魔王のかたわらに立つと、頭巾を取った。酒の臭いが漂う。

「おかえり……」

 笑い混じりに言うと、微かに人間の足が地面を擦る音がした。

「……まだ起きてるの」

 人間の顔を見上げるが、表情は変わっていない。しかし、魔王の茶化しを無視せずにわざわざ言い返すことからして、相変わらず「二日酔い」は続いているようだった。

 その顔を見ていると、困らせてやりたいような、さらに苛立たせてやりたいような気分になる。魔物としての性なのか、少しでも表情が歪む様を見てみたくなる。

「傷が痛んで眠れなかった」

 人間への嫌がらせのためならば軽々と矜持を投げ捨てられた。

 人間は無言で外套を脱ぎながら、持っていた紙袋を地面を置いて、治療道具の置かれた棚へ向かった。紙袋は倒れたが、人間は見向きもしない。灯りをともして治療道具を抱えて魔王のところへ戻って来る。「どこ」と聞かれて痛む箇所を答えると、いつもより苛立たしげに薬を塗りつけられる。いくらか小気味好い気分を味わいながら魔王は紙袋に目を向けた。

 紙袋の中からは布がはみ出していた。様々な色をした布が、乱雑に押し詰め込まれているようである。

「……本当に市に行ったんだな」

「嘘と?」

 首にある目が正面まで移動して来て、魔王を見た。

「様子がおかしかったから」

 人間は黙った。手に残った薬を魔王の着ている服になすりつける。

「何を買ったんだ?」

 急に立ち上がった人間は、魔王の上で紙袋を逆さにした。中に入っていた布が広がって視界を覆い、頭にこつんと小さくて硬い何かがぶつかって側に落ちた。

「──お前の」

 顔にかかった布を剥いで広げると、飾り気のない服だった。

 今までは足や手が通常の形を取っていなかったため、一枚の布を所々縫い繋げただけの、布と大差ない物を着せられていた。

「……どうも」

 寒さを防ぐ魔力もないため純粋にありがたくはあった。

 紙袋から落ちてきたのは服だけではなかった。単なる一枚の布や端切れ、釦に簪にブローチに糸や紐。内の一つに魔王の目は惹き寄せられた。

 花を模した細工である。花弁や萼は布で、雄しべや雌しべは細い金属で作られている。灯りを受けて煌めくのが不思議で目の前で揺り動かしてみると、どうやら花弁に輝く色粉が振りかけられているらしい。自然の花を完全に写し取るような精巧さよりも、感性で捉えた美しさを表現しようという意欲が感じ取れる品だった。

 どこからも魔力の残滓が感じられないことが奇妙だった。

「これは?」

 広がった布の中から白い布だけを選り分けていた人間は、魔王が持つ花の細工を見て、素っ気なく答えた。

「誰か、勝手に、入れた」

 一瞬盗んだのかも知れないと思ったが、あまり興味のなさそうな様子に否定する。他者と交流があるようにも思えなかったが、外ではまた異なる顔をするのかも知れない。それよりも気になることがあった。

「人間に作れるのか、こういう物を」

「私には作れない」

 花の他にも、獣や植物を模した細工があった。いくつかには魔力の残滓がある。全くない物もある。ただ一口に花と言っても、その再現の形は様々だった。厚い布一枚で花弁を作る物や、複数枚を重ねた豪奢な物もある。金具をつけて飾りにした物もある。ただ布を切り貼りするだけで多彩な形を作るものだと感心した。魔術もなしに作っているのが面白かった。人間が作ったとするなら、どれだけの手間がかかっているのだろうかと思う。

 すぐに使うことのなさそうな物はひとまず紙袋に戻したが、最初に手に取った花の細工だけは手元に置いた。

 白い布と共に治療道具を棚やその周辺に戻した人間は、灯りを吹き消した。

 魔王も痛み止めが効き始めて、眠りに誘われる。枕元に置いていた新聞の上に細工を置いて寝転がった。あまり寝心地の良くない寝床には慣れたが、寒さは身に応える。もらった服を布団の上に重ねて暖を取る。惨めだったがあの人間よりは良い環境だった。あの人間は地面に直接ムシロを敷いただけの場所に、薄い布一枚で眠っている。服はあまり着替えず、泥に草や獣の液、こぼした酒で汚れている。

 紙袋の中にあの人間の服がなかったことに、今になって思い至った。あの白い布は恐らく治療に使うための物である。

 寝返りを打って天井を見る。

 何か形容しがたい気分だった。良いとも悪いともつかず、ただ落ち着かない。

「……私に構うな」

 そう向かいの壁から声がして、少しだけ意識が浮上する。目を向けるが人間の背しか見えない。夢と混じったかと思ったが、続けて声がした。

「人と会うと、疲れて。お前に気を遣う、気が失せる。だけ。何も企んじゃいない」

 少しでも身じろぎすれば失われてしまいそうな微かな囁きだった。野生の獣を狩るために陰に潜んでいる時の心持ちで、人間の言葉を聞いた。

「お前のことは治す」

 聞いて感じたのは安堵ではなく、疑念でもなく、何故か腹立たしさだった。先程紙袋の中に人間の服がなかったことに対して感じた形容しがたい気分と地続きにその感情はあり、矛先はこの人間に向けられていた。

「お前を疑ったんじゃあない。機嫌が悪そうだったから気にしていただけだ」

 きちんと届くように声を上げたが、人間は何も答えなかった。問いかけの形をしていても無視されることも珍しくはなかったから、またそれと同じことだろうと、魔王も返事は待たなかった。空は大分白んでいたが、目を瞑って睡魔に身を委ねる。

「……」

 人間が何か言った気がしたが、その声は今度こそ夢と共に消えた。


 物音が聞こえて顔を上げると、いつの間にか洞窟のすぐ外に人間がいて、背負い籠を下ろしているところだった。

 何気ない風を装いつつ、魔王は持っていた物を新聞の束の陰に隠して、それから人間に声をかけた。

「おかえり」

「……」

 人間はちらと魔王を見て、顔の前に落ちた赤髪を耳にかけながら、軽くうなずく。

 すぐ顔を逸らした人間は背負い籠の淵に手をかけて、カゴの中に頭まで突っ込んだ。カゴが深く、そうしないと底まで手が届かないらしい。カゴを中から布の袋を四つつかみ取ると、洞窟の中に投げ入れた。布の袋は弧を描いて飛び、洞窟の中央にバラバラと落ちた。口は紐で絞られていたものの、落下の衝撃で中身が少しこぼれ出てしまう。

 魔王は杖をついて立ち上がり、痛みに堪えつつ歩いて落ちた袋を拾い上げた。木の実のような物が入っている。中身は気にせず、袋の方をじっくり見る。

 布が厚いおかげで丈夫ではあるが、口の絞りが弱くなってしまっているらしかった。採集に使うならば丈夫な方がいいだろうと考えて作ってみたが、中身がこぼれてしまうのは大きな短所のような気がする。以前のように背負い籠に全部放り込んで、洞窟まで持って帰ってきてから仕分けするよりは楽なはずではあるけれど、どうせならばより楽にしてやりたい。

「……耐久性はないが口をキツく絞れる袋と、丈夫だが口が開きやすい袋と、どちらがいい?」

「歩くな」

 手から袋を取り上げられる。

「余計なことをするな」

 袋を採集物置き場に投げ直した人間は洞窟の外に戻って、物干しに吊るして乾かしていた服や布を取り込み始めた。

「手伝おうか」

「動くな」

「畳むくらいはいいだろ」

「……戻れ」

 大人しく寝床に戻ると、洗濯物を入れたカゴが側に置かれた。

 魔王がムシロの上に洗濯物を畳んで置いていく間に、人間は洞窟の中に置かれた物干し竿に吊るしていた果実を一つ切り取り、頬張った。そのままでも食べられるが、干すことで美味くなる果実と聞いている。

 満足のいく出来になったのか、人間は二つ実を切り取ると、一つを小皿の上に置いて、魔王の側に置いた。

 もう一つはすり鉢の中に入れ、また別の場所から魔虫の死骸や乾燥させた魔草などをかき集めて来てそれもすり鉢の中に入れ、まとめてすりこ木ですり始める。

 すりこ木をする音が洞窟に響く。

 今日は調子が良いようだった。心持ち表情も穏やかである。

 この暮らしにも慣れて段々と分かって来たが、人間が調子を崩すのは市に行った日だ。あの夜に聞いた言葉は全く言葉通りでしかなかったらしく、本当にこの人間は、人と会うと疲れ、魔王に気を遣う余裕を失うらしい。そして何やかやと市に行く回数が増えて来た最近では、慣れたのか疲労感も軽減し始めたようで、以前程に疲れを引きずることもなくなっているようだった。

「両方」

 ふと人間が顔を上げ、目が会った。

 右目が赤銅色で、左目が金の虹彩に縦長の瞳孔をしている。

「袋」

 機嫌が悪くなくても、この人間の言葉の不足はあまり変わりがない。

「……あぁ、袋。両方はなし。どちらか。その内両方作るけど。今、少し数を増やすとしたら?」

「なら……口の絞れる方」

 言いつつ人間は、ほんの僅かに目を細くした。真正面から顔を見ていなければ気づかない程に僅かな変化である。しかし、そのまま目を逸らすので、追いかけるように問いかけた。

「他に何か? 要望でも?」

「ない」

「要望がないなら文句か?」

「……」

 眉の間にうっすらと皺が入り、首にある第三の目が正面まで移動して来て双眸と共に魔王を見る。それが機嫌を損ねた印だというのは分かりつつあったので、魔王はあっさりと「まあ何もないならいいけど」と引き下がった。首の目は少しの間警戒するように魔王を見ていたが、人間が軽く首に触れると、よく居る髪に隠れる位置に戻っていく。相変わらずあの目もよく分からない。人間とは独立した意志を持っているのかなんなのか。

 洗濯物を畳み終えた魔王は服置き場に置きに行こうとしてまた叱られ、ムシロに戻って新聞を読む。新聞を読んでいると、自分の預かり知らぬところで刻々と変わっていく社会に焦燥と不安が湧く。記事の中に知り合いの名前を見つけると、誇らしさと同時に疑念を感じる。

 焦燥と不安があるだけまだ自分の中に外に出て行く気力があるのだとも思えるし、かつての同胞たちに再び会わなければならないという思いも募った。読み比べようとすると魔力の消費もあって疲れるし、人間に市にまで新聞を取りに行ってもらうのもほんの少し申し訳なく思っていたが、読まずにはいられない。

 しばらく読んで休憩がてら干し果実をかじると、口の中に甘さが広がった。

「俺、あとどれくらいで治る?」

 食べつつ聞くと、「あと少し」と答えが返って来た。

「具体的には」

「……」

 この人間は市から新聞を運んで来るだけで、内容には全く目を通していない。日付を持たず、ただ一日を生きている。

「……温かくなるまでには治るか?」

 助け舟を出すと、人間は少し考えてうなずいた。

「トウジロが花を落とすまでには」

「知らん。魔草にしてくれ」

「……ヌクミダの花が咲くまでには」

 思いの外その時は近いらしかった。

 夜、人間が眠りについた頃を見計らって、新聞の束の陰に隠した物を取り出す。巾着袋などで練習し始めたお陰か、作り始めた時よりもいくらか上達しているような気がする。嬉しくなったものの上手くなったところで何の意味があるのかと思う。

 技術の向上どころか、この物そのものにも、意味はないのかも知れない。そう思いつつ、魔王は手を動かす。

 日中は人間と他愛のない会話を交わし、夜には裁縫をする。昔と違って何一つ意味のあることをしている実感はなく、新聞を読んでいる間ばかりはもどかしさに身が焼かれそうになったけれど、それ以外の時間は不思議な程に穏やかだった。

 そして、花の咲くより少し前。

「出来た」

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