目が醒めると勇者に斃されてから

 目が醒めると勇者に斃されてから「百年くらい」が経っていた。

「もしかしたら、十年くらい、かも。知れない」

 寝癖もそのままに、魔王を死に至らしめた胸の傷を手当てしながら、人間は続ける。「まあ、一年ということはない」と。

 ふざけているのかとにらむが、赤銅のような色の右目と蛇のような縦の瞳孔を持つ金色の左目には、何の感情も見当たらなかった。

 この人間はいつもこの調子で、真面目なのか不真面目なのか分からない。自分が魔王であると伝えた時にも無表情に「知っている」と答えたきりで、焦ることも忌む様子もなかった。目覚める前から行われていた治療も止める様子はない。

 そうした態度に怒りを持っても不毛であることは既に理解した。人間のとぼけた発言に対して怒ることはせず、魔王もまた人間の態度に対抗するように淡々と質問の仕方を変えた。

「お前の年齢……は」

 しかし、不意に訪れた胸の痛みに、魔王は眉を寄せた。意識を取り戻した以上、人間の前でみっともなく呻くのは矜持が許さず、唇を噛んで天井を見た。そこにはムカデのような形を持った魔虫が這っていた。魔虫は魔王に見られたことに驚いて逃げ、洞窟の奥に積み重なる骨の山の隙間にぽとりと落ちた。

「最後に数えた時は十五」

 人間は傷口に強い臭気を持つ塗り薬をすりつけた。

 明らかに見た目よりも若い数である。魔王の目には人間は二十前後に見えた。

「戦争の記憶はあるのか」

「……ある」

 問いかけながら、戦争が別に起きている可能性に気がついた。

「魔物の嘆きを聞いたことは?」

「聴覚支配による開戦宣言?」

「それだ」

「それは聞いた」

「あれを聞いたならば、百年は経っていないだろう。何歳の時に聞いた? 十五より前か後か」

 魔王が斃されたのは、魔物の嘆きから三年後のことである。魔物の嘆きを聞いたのが零歳の時だったとすれば、魔王の死の時には三歳。そこから二十になるまでは十七年。この人間が二十だとすると、魔王が勇者に斃されてから、十七年しか経っていない。

 十七年でも充分に長いが、百年よりは良い。

 百年経ったところで魔王自身には影響はないが、人間社会は刻々と移り変わる。百年も玉座を空ければ社会にどのような変化が起きてもおかしくはない。その変化を魔王は恐れていた。

「ちょうど十五の時。……だが、だからって、百年経っていないとは、限らない」

 人間は問いに答えながら、右目と同じ色をした髪をまとめて片側に流す。

「私は不老不死だから」

 あらわになった首には、左目と同じ色形をした第三の目。

 その目には人間よりも余程強い意志があるように思えたが、あくまで上辺だけしか分からない。普通の魔物とは違って何の思念も感情も受け取ることは出来なかった。本来なら魔王は全ての魔物と意志を通じ合わせることが出来るから、これは奇妙なことである。魔物ともまた異なる生物、としか言いようがない。

 しかし、今はどうでもよいことだった。

 期待を空振りさせられた魔王は、何か言葉を返すのも億劫になって、視線をそらした。

 洞窟の狭い入り口から見えるのは、何百年経とうと変わらないであろう木々ばかり。木々より手前にはこの人間の乱雑な生活の跡があるものの、時代の進歩を感じさせるような物は何一つ見当たらない。

 この人間以外の話を聞こうにも、言語を持つような魔物は全く現れない。いっそ別の人間でもいいと思うのにそれも見かけない。

 当然、数多の部下も、ただの一人も側に居ない。

 勇者によってつけられた傷は胸だけでなく、全身にある。徐々に回復しつつある魔力によって体の修復は進められているが、いまだ足は両足とも膝から下がなく、右腕は動かず、左腕は欠けている。この状態で魔術を使えば、再び魔力が枯渇し体の修復は止まると人間は言った。

 魔術による伝達手段も取れない。それだけでなく、人間が虚言を吐いたとしても、確かめる術もない。

 この無力さのお陰で、勇者に斃されたあの時から百年が経っているという言葉を否定出来ない。

「他に質問は」

 治療道具をザルに放り込みながら人間は問う。

「もういい」

 いい加減な情報しか持たず、重要なことを話さず、その上その言葉を確かめる術はない。

「……」

 この人間が虚言で魔王を惑わそうとしている可能性は、まだ大いにある。あの戦争を経験した大概の人間は魔王に恨みを持っているはずだ。

「……では、終わり」

 人間はザルを抱えて立ち上がった。物の溢れた棚には置けず、棚の周囲の地面にザルを置いた。ザルは倒れて中に入っていた道具がいくつか地面を転がったが、人間は気に留めもせず、魔王のいるのとは反対側の壁に沿うように敷かれたムシロにあぐらをかいて座った。

 そこは寝床にもなっており、周囲には服や本などが散らかっている。さらに枕元では、酒瓶が異様な存在感を放っている。

 人間は散らかった物のうちから杯を探し当てると、酒を注いだ。この人間が朝から酒を飲むのはいつものことだった。

 こんな人間を信じられるはずがない。死んでから時が経っていることを、信じられなくても仕方がない。


 翌日、人間は認識阻害魔術のかかった、頭から足元までをすっぽりと覆う外套を着て、洞窟を出て行った。

 人間が洞窟を出て行くのは初めてではない。緻密に編まれた背負い籠や手提げの袋を持って出て行って夕方頃に草花を詰めて帰って来たり、弓を持って出て獣を狩って帰って来るのは、むしろ日常の一つである。

 しかし、外套を着て出て行くのは初めてだった。カゴも弓も何も持たず出て行った。

 このまま人間が戻って来なければ、魔王に成す術はない。痛みに耐えながら、少しずつ体が修復されるのを待つしかない。

 面倒がられて聞けてはいないが、人間はただ痛みを止めるだけでなく、魔力の回復量が上がる薬や、生命維持のために消費される魔力量を減らす薬を用いることで、体の修復速度の促進もしているようだった。その処方もなくなれば、ただでさえ遅々として進んでいないように感じられる修復が、さらに遅れる。

 万全の状態に戻るまで、それこそ百年かかっても不思議ではない。

 誰も来ない、木々に囲まれた洞窟で。

 話し相手もなく一人。

 洞窟の外ばかり照らすようだった日は、夕刻になって炎のような色をまとって木々の隙間をすり抜け洞窟の中まで差し込んで来る。しかし、それもほんの一瞬。あっという間に日は沈み、夜闇が天井から落ちて来る。灯りをつける人間はいない。魔王は夜目もきくが、あえて見る物もなく、目を瞑った。風が吹いて木々が揺れ、蝙蝠が鳴く声が聞こえる。騒がしいが、静かだった。何一つ心にまで触れるような音がなかった。

 ふと、土が崩れる音が混じる。

 手元もおぼつかない暗さになっていた。洞窟の入り口を見ると、夜闇を凝固させたような色の陰が、洞窟の外にあるらしい坂を少しずつ上って来ているところだった。

 認識阻害魔術のせいで姿がかすむ。頭巾を取ると赤髪が胸元に落ちて、その姿を明瞭に知覚出来るようになった。抑えられていた臭気も溢れた。酒を飲んで来たらしかった。

「どこに行ってたんだ」

 人間はすぐには答えなかった。外套を脱いで洞窟内にある物干し竿の端に引っかけて、灯りをともす。

「市に」

 その声には強く疲労が滲んでいた。

「……疲れた」

 ムシロの方に向かって歩いていた人間は、その途中で魔王に向かって何かを投げて寄越した。空気の抵抗を受けて軌道が歪む上、手も動かず魔術も使えないため受け取れず、やや離れた位置にバサリと落下する。紙の束である。紙が広がったが、一箇所を紐で結んでいるようで散らばることはなかった。

 人間は一度立ち止まったが、結局そのまま向かってムシロにうつ伏せになった。

 質問をするのは起きてからでもいいかと諦めて、地面に落ちた紙束を見る。

 手に持ちやすい大きさの紙が、およそ十枚綴になっている。その紙一枚一枚にびっしりと人間文字が書かれていた。さらに、その字を錨として意思疎通の魔術を固着させることによって、人間文字が読めずとも、その紙に書かれた意志を読み取ることが可能になっている。

 理解するより先に、心臓が嫌な音を立て始める。

 術式は魔力を流すまでは発動しない。魔力を扱うことの出来ない人間には無意味な措置だ。

 それは、完全に魔物だけのためにかけられた手間であることを意味している。

 死ぬ前にはなかった技術、あるいは、あったとしても必要とされなかった技術である。

 元々、魔物が知恵をつけることを厭い、情報を隠すために作られたのが人間文字だった。時を経て人間文字を理解する魔物も出たが、多くはなかった。

 魔王が革命を起こすまで、人間文字による情報の分断は、各地の魔物たちの連携を少なからず隔てていた。

 その特権を、人間共は手放している。

「……新聞」

 くぐもった声にはっとして目を向けると、人間が体勢を横向きにしていた。目は紙束に向けられている。

「講とか、大区とか……統括局とか……」

 声が消えていき、目がしばたたかれる。

「今の、ことが……」

 声が途絶え、完全に目が閉じた。

 今のはどうやらこの紙束のことらしい。

 悩んだ末に、魔術で「新聞」を近くまで引き寄せた。魔力を操るだけで乾いた砂のように体から魔力が流れ出て行くのが分かり、冷や汗が出る。しかし耐えて、続けて新聞に魔力を通し、術式を発動させる。人間文字は読めたが、意思疎通の魔術によって表れる内容との比較をしなければならなかった。人間文字で伝える情報と魔術を介して伝える情報とで、内容を全く変えて、人間文字を読めない魔物に異なる情報を伝えている可能性も捨て切れない。

 たった一枚めくるのにも命を削ったが、目を通していった。

 見慣れない語が多く、意思疎通の魔術を介してでも内容の理解に難儀する。ただ飛び飛びにでも内容に目を通していけば、この新聞という仕組み自体が、各地の人間と魔物に分け隔てなく重大な決定を伝えるための仕組みであることは分かった。先程人間が言っていた講や大区、統括局というのは意志決定を行うための組織のようだ。その組織からの告知や、組織で現在行われていることの報告などが紙面には記載されていた。

 束の中に、人間と魔物が両方とも通うことの出来る学院の創設が決まったという内容の見出しが書かれた紙を見つけ、凝視する。

 それは革命を起こした時に掲げた目標の一つだった。

「――こん、な紙が……」

 信じられるかと言いたかったが、悔し紛れにも口に出せなかった。全ての紙に、一朝一夕には用意出来ないような大量の情報があった。ただでさえ口下手でいつも酒を飲んでいるこの人間が零から用意したとは思えない。それに紙面の中に一つ、これは嘘だと一蹴出来ない情報があった。

 かつての部下。最も信じた第一側近の名。

 胸が痛むのは傷ばかりのせいではない。早く強く心臓が打つ。頭が理解を拒むが、発動したままの魔術が強制的に意味を流し込んでくる。

 接続を切った。

 目を瞑ると、人間の寝息が聞こえた。

 再び目を開き、新聞に目を落とす。術式は切ったまま、文字を理解しようともせず、ただ眺めた。

 そしてふと気づく。紙の左上に日付。

 咄嗟に目をそらした。

 見るな、と心臓が鳴る。

 しかし、目は自然、そこへ戻っていく。

 冷たい空気が背をなぞり、まだ存在しない足先まで震えを届ける。

 あと少し目を上げるだけで、不確定の安寧は失われる。

「火……」

 声に、視線が上がった。

 紙の向こうに、人間が薄く目を開いているのが見えた。灯りの火を消すために起き上がろうとしていた。

 次の瞬間、日付に焦点が合った。

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