7(雪が降る頃には、あの子は)
空がそのまま落ちてきたみたいな、大雪の日だった。
――一月も終わって、二月の初め。
夜に降りだした雪は、誰にも知られないうちに世界の様相を一変させていた。暗闇を通り抜けてきた小さな氷の結晶は、地面を真っ白に染めている。
降ったりやんだりの不安定な天候は、放課後を迎える頃には小休止を迎えていた。灰色の絵の具を塗りたくったみたいな空からは、またいつ雪が降ってきてもおかしくなかったけれど。
部活はなかったので、わたしはそのまま下校した。雪の上を歩いて、バス停まで向かう。さすがにこの状態だと、自転車で来るような酔狂な人間はほとんどいない。
歩道の雪は踏み固められ、融雪装置のついた車道では、自動車が霙になった雪をかきわけて進んでいた。
「…………」
わたしは歩きながら、担任の豊島先生に言われたことを思い出していた。
数日前、例によって職員室に呼び出されたわたしは、先生からこんなことを告げられたのだ。
「――実は俺も知らなかったんだが、藤梨のところの両親が離婚することになったらしい」
職員室は相変わらず雑然としていて、先生のその言葉は本来の重みを欠いているような気がした。
「だから頼んでおいてなんなんだが、藤梨のことはあまり刺激してやらないほうがいいのかもしれない。他人がどうこう言うことでもないし、本人にとっても微妙な問題だからな」
歩きながら、わたしはその時のことを思い出す。どことなく現実感が損なわれてしまったような、その時のことを。
バス停に着いてみると、いつぞやと同じく大勢の生徒たちが集まっていた。傘こそ差していなかったけど、たぶん前よりも人数は多いだろう。ちょっとした集会といってもいいくらいだ。
わたしは適当なところに場所をとって、バスを待つことにした。
そうして、ふとあたりを見渡してみると、そこにみわちゃんの姿を見つける。
彼女はこの前と、同じ場所に立っているような気がした。もしかしたら、いつもその場所でバスを待っているのかもしれない。何故だか、そんな気がした。
わたしは彼女のことに気づいて、けど声をかけることはしなかった。どうしてなのかは、よくわからない。先生の言葉が頭に残っていたせいもある気がする。向こうでは相変わらず、こっちに気づいた様子はなかった。
――雪のせいか、バスはなかなかやって来なかった。
予定より十分以上遅れて到着したバスの車内は、すでに乗客で混雑していた。何しろ、大雪なのだ。いたしかたのないところだった。
近づいてくるバスの様子を見るかぎり、停留所の全員が乗るのは難しそうだった。そのことに気づいた何人かが、乗車口になりそうなところに集まりはじめる。こうなると、早いもの勝ちとしか言いようがない。
バスが停車して、ブザーといっしょにドアが開く。順番も何もなく、ちょっとした押しあいになっていた。何しろ外は寒いし、次のバスはいつ来るかわからないし、みんな必死だ。蜘蛛の糸にすがりつく亡者さながらである。
わたしはとりあえず、そんな様子をそばから眺めていた。もちろん、バスには乗りたかったけど、冷静に考えるかぎりでは難しそうだった。みんなに混じって仲よくおしくら饅頭をする気にもなれない。このまま大人しく、次のバスを待ったほうがよさそうである。
その時、ふとみわちゃんのほうを見ると、彼女は一人で停留所を離れて、さっさと歩きだしているところだった。
どちらかというと、みんなを置き去りにするみたいに。
わたしは慌てて、とっさにそのあとを追った。バスではまだ押しあい中で、しばらく発進しそうもない。
雪道を、みわちゃんはただ黙々と歩いていく。その歩調は何となく、怒っているようでもあるし、不機嫌そうでもある。けれどそれがどこに向けられたものかは、はっきりとはわからなかった。
わたしは小走りになってその後ろに追いつくと、同じ速さであとについていく。
その足どりのまっすぐさと断固さからいって、みわちゃんは家まで歩いて帰るつもりみたいだった。距離的には、がんばればそれが十分可能なことをわたしは知っている。でも雪道を徒歩で行くのは大変だし、風は刃物みたいに鋭かった。
「――ねえ、みわちゃん」
と、わたしは声をかけた。比較的、大きめの声で。
でも、返事はない。振り向く気配さえなかった。しかばねじゃないのははっきりしていたけど。
歩道を歩いているのはわたしたち二人きりで、その隣を車がいつもよりゆっくりと通りすぎていった。ぐしゃぐしゃにかき回された雪の中に、二本の轍が残されている。一体何台くらいの車が、その線の上を走っていったのだろう。
「ねえ、みわちゃん――みわちゃん!」
わたしはしつこく声をかけた。距離も、少しだけ縮める。けどそれでも、みわちゃんは自分一人しかいないみたいに足をとめなかった。
幹線道路を外れて、坂道を下り、小道に入る。そこは川沿いの、住宅地の脇にある細い道だった。川床にはごくささやかな流れがあって、白い雪の中に不規則な線を刻んでいる。
雪道の上にはまだ誰の足跡もなくて、わたしとみわちゃんの歩いた跡だけが、そのままの形で残っていた。
「本当に、歩いて帰るつもりなの?」
影みたいにあとを追いながら、わたしはまた声をかけてみた。
「バスを待ったほうがいいよ。次は乗れるだろうしさ。この雪道じゃ、靴だって濡れちゃうよ」
みわちゃんは何の反応もしなかった。急に、耳が聞こえなくなってしまったみたいに。
「…………」
わたしは立ちどまって――
それから突然、腹が立ってきた。
理由は、自分でもよくわからなかった。何に対してなのかも、どういうふうに怒っているのかも。けど何故だか猛烈に、頭にきてしまったのだ。みわちゃんや、世界や、自分自身に対してさえ。
それで気づいたときには、わたしは地面の雪をすくって、手で強く固めていた。そうして作った雪玉を、みわちゃん目がけて放り投げる。
――正直なところ、当てるつもりはなかった。そもそもの話、わたしにそれほどの投球コントロールはない。
でも――
雪玉は見事に、みわちゃんの後頭部を直撃していた。
瞬間、わたしはさっと青ざめてしまう。喉の奥で声がつまって、手を振り切った姿勢のまま体が固まった。いくらなんでも、これはまずい。
みわちゃんはさすがに、これには振り返ってわたしのほうを見た。もちろん、雪玉を誰が投げたかは一目瞭然だ。容疑者のアリバイやトリックを暴きだすなんて、まどろっこしい真似をするまでもない。
「…………」
わたしは言葉も出ないまま、ただ呆然と立ち尽くしているしかなかった。謝罪の言葉さえ、頭に浮かんでくることはない。
みわちゃんはそれから、ちょっとしゃがんで地面の雪をすくいとった。
その雪を手で小さく丸めると、わたし目がけて放り投げる。
――ぱぁん
と確かに音がして、それはわたしの顔面に命中した。四散した雪の冷たさと衝撃が、そのことを親切にもわざわざ教えてくれる。
わたしは頭を振って雪を落とすと、すばやく次の行動に移っていた。すなわち、雪玉を作って投げるのだ。
それは、みわちゃんも同じだった。わたしたちのあいだで、にわかに雪合戦が始まる。
とはいえ、大抵の雪玉は相手にかすりもしなかった。
二人とも、そんな制球力は持ちあわせていないのだ。最初に当たったことのほうが、むしろ奇跡だった。
白い雪玉は子供が描く線みたいな、でたらめな軌道で交差していく。どれも相手からは大きく外れて、命中はしなかった。それでも懲りることなく、わたしたちは雪玉を投げ続ける。
そうして下手な鉄砲を打ちあっているうち、不意にみわちゃんからの雪玉が飛んでこなくなっていた。見ると、みわちゃんは手をとめて、笑いだしている。それも、お腹を抱えるくらいに。
わたしも同じように手をとめて、そうしてやっぱり笑いだしてしまう。
確かにそれは、とてもおかしなことだったから――
ささやかな雪合戦が停戦を迎えると、わたしたちは橋の上に並んで立っていた。
それは自転車が一台ようやく通れるくらいの、何の変哲もないコンクリートの塊だった。誰も名前をつける気にならないような、橋と呼んでいいのかどうかさえ危ぶまれるような代物だ。
そこから二、三メートル下を、今にも途切れそうな細い川が流れている。誰かの都合で世界の隅っこに追いやられたような、不遇な川だった。けど、水はそれでも文句一つ言わず、懸命に下流へと向かっていく。
わたしは大きく口を開けて、息を吐いた。呼気は迷惑そうに白い痕跡を残すと、そのまま冬の中へと消えていく。
「――別に、何がどうってわけじゃないんだ」
と、みわちゃんは言った。とても静かな、雪が積もるくらいの声で。まるで、自分自身に言いきかせているみたいに。彼女の言葉も白い痕跡を残して、そしてやっぱり消えていく。
「不満だとか、反感だとか、軽蔑だとか、そんなのがあるわけじゃない。本当は、みんなともっと仲よくしたほうがいい、みんなといっしょにいる努力をしたほうがいい、そう思う……でも、どうしてもそんな気になれないんだ」
わたしは黙ったまま、ただちゃんと聞いていることだけは示しておいた。そうするほうが正しい場合だって、あるのだ。
「できるだけ一人にならないほうがいい、それは確かだと思う。でも、私にはそれがうまくできない」
そう言ってから、みわちゃんは悪い夢でも見ているみたいに、ものすごく苦い薬でも飲まされたみたいに、表情を歪ませる。
「――怖いんだ。私はただ、すごく怖いんだよ」
みわちゃんはあのバス停から歩きだしたときと同じような、方向性のない怒りや不機嫌さを滲ませながら言った。
「このままだと、世界が無価値になっちゃうような気がするんだ。ロウソクの炎が、そのうち燃え尽きてしまうみたいに。何もかもがバカバカしくて、醜悪で、何の意味も持たなくなってしまう。そうなったら、私はどうやって生きていればいい? 真っ暗闇の中で、どこに行くあてもなく」
「……みわちゃんは、世界のことが嫌いなの?」
と、わたしは訊いてみた。
それに対して、みわちゃんは軽く首を振っている。肯定と否定の、その両方がない交ぜになったみたいな首の振りかただった。
「私はただ、世界が好きになれないだけ。ただ、それだけなんだ――」
みわちゃんは何かをそっと握りしめるような、何かをそっと手放すような、そんな口調で言った。
「みんなが誉めているから、賛成しなくちゃいけない? 興味のないことでも、うまく話をあわせないとダメ? 誰ともいっしょにいたくないと思うのは、そんなに変なこと?」
「…………」
「私はただ、世界をできるだけきれいな場所にしておきたいと思ってるだけなんだ」
と、みわちゃんは言った。大切なものをしまっておいた箱を、そっと開けるみたいにして。
「でも、その〝きれいなもの〟は、ほかの人にとってもそうだとはかぎらない。私が混乱しているのはね、世界をきれいなままにしておくためには、私は世界と関わるのをやめにしなくちゃいけない、ということなんだ。そうしないと、すべてをきれいなままにしておくことなんてできはしない。私の望むような形のままにしておくことなんて、できはしない――だって、世界は私だけのものじゃないんだから。いくら私が嫌だと言ったって、そんなものは誰も聞いたりなんてしない」
みわちゃんは、そして最後に言った。
「でも、そんなのが生きてるだなんて言える? 誰とも関わらずに、たった一人だけの世界で生きてることが。そんなことに、何の意味があると思う? 宇宙空間を、ただ慣性に従って漂ってるだけみたいな、そんなことに。その場所がどんなに暗くて、狭くて、救いがなくて、苦しいかがわかる? そして結局のところ、私はそこにしかいられないんだっていうのが、どういうことなのか――」
気持ちが悪いときに無理をして胃の中の物を吐きだすみたいにして、みわちゃんは言った。とても苦しそうに、とても辛そうに。
「…………」
わたしはもちろん、そんなみわちゃんに簡単に答えてあげられる言葉は持っていなかった。どんな慰めも、どんな導きも、わたしには思いつくことなんてできはしない。
でも、たった一つだけ、確かなことがある。それは――
「……わたしは、みわちゃんの味方だよ」
そうだ、わたしは彼女の力になりたいと思っている。できるなら、彼女と友達になりたいと思っている。
小学生の時にはもうすっかり忘れてしまっていた、あの時の空を映している瞳――
今なら、はっきりとそれを思い出すことができるから。
わたしの真剣な口調に、みわちゃんは不思議そうに振り向いた。癖のかかった髪に、それ以外はあまり特徴のない外見。その姿はやっぱり不器用で、危なっかしくて、頑なで、何より傷つきやすそうに見えた。
――たぶん、誰かが守ってあげなくてはいけないくらいに。
「わたしは、みわちゃんの味方になりたい」
と、わたしはもう一度言った。自分でも不思議なほどの強さと確かさで、照れたり、ためらったりせずに。
「みわちゃんがきれいなことを、わたしは知っているから。それがどんなふうにきれいなのかを、わたしは知っているから。だからわたしは、それを守りたい。この世界で、みわちゃんの味方でいたい」
「…………」
「みわちゃんは、どう思う?」
わたしは訊いてみた。
「わたしを、みわちゃんの味方にしてくれる? みわちゃんのそばに、いさせてくれる? みわちゃんが世界に対してどうしようもなくなったとき、支えさせてくれる? あまり、頼りになるとはかぎらないけど……」
それが提案なのか、嘆願なのか、それともまったく違う何かなのかは、わたしにもよくわからなかった。それはたんなる余計なお節介なのかもしれないし、見当違いの自己満足なのかもしれない。
ただ――
それでも誰かがそうすべきなんだと、わたしの心の声が強く主張していた。
みわちゃんはそれに対して、長いこと黙っていた。その様子は何も考えていないようでもあったし、本当は迷惑に思っているようでもあったし、ただ戸惑っているだけのようでもあった。空を見上げたら、見覚えのない星が光っていたみたいに。
そうして、どれくらいの時間がたったのかはわからないけれど、
「――うん」
と、やがてみわちゃんは、かすかにうなずいてみせている。それは注意深く耳を澄ませていなければ聞こえないような、とてもとても小さな声ではあったけれど、わたしはちゃんと聞くことができている。
だからわたしは、にっこりと笑顔を浮かべた。
――彼女に対して、心からの感謝と祈りを込めて。
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