6(「秘密の花園」)
しばらくのあいだ、わたしは何となく上の空だった。思考が頭の中からふらふらと出歩いてしまっているみたいで、時々自分のしていることがわからなくなったりする。
わたしは主にみわちゃんと、それから久戸さんのことを考えていた。
――あの人は、自分は彼女と似ているところがある、と言った。
――人間は、自分の生命も含めて本質的な自由がある、とも。
わたしは教室で、たった一人きりで本を読んでいるみわちゃんを眺める。彼女はどんな場所にいて、何を考えているんだろう。そこにはもしかしたら、あの時わたしが感じた断崖絶壁みたいなものがあるんだろうか――
それで、ある日のこと。
世界史の授業中だった。チョークが黒板を打つ音がかつかつ響いて、相変わらず暖房がうなっている。窓の外は、この時期には珍しいくらいの青空だった。
「…………」
わたしはやっぱり上の空で、授業にはあまり集中していなかった。機械的に黒板の文字をノートに写すだけで、内容はほとんど頭の中に入ってきていない。
それでしばらくすると、先生が授業とは関係のないことについて話しているのに気づいた。
「――死ぬ前に、せめて誰かに相談すべきだった」
ごくまじめな、真剣な面持ちで言う。
先生が言っているのは、県内の高校で起きた、ある自殺についてみたいだった。いじめとかそういうのではないので報道沙汰にはなっていないけれど、噂だけはきちんと伝わってきている。
「死ぬだけの勇気があるということは、生きるだけの勇気もあったということだ。安易な道を選んでもいいことはない。そういう時は、最後にもう一度よく考えるようにしなければいけない」
しみじみした感じで、先生はしゃべっている。まるで、自分ならその死んだ生徒を救えたみたいに。
――その時、不意にがたんという音がした。
教室中の人間が、いっせいに振り向く。その先には、みわちゃんの姿があった。音は、イスが倒れそうになるくらいの勢いで立ち上がったせいで起きたものだった。
ほんの一呼吸分くらいの、奇妙な間があく。花瓶が地面に落ちて割れるまでの、そのあいだの時間みたいな。
やがてみわちゃんは、何か発言が必要なことに気づいたみたいだった。急に立ちあがったのは、自分でも思いがけないことだったらしい。
「――あの、気分が悪いので、保健室に行ってかまいませんか?」
みわちゃんの口から出てきたのは、そんな言葉だった。ずいぶん勢いよく立ちあがったあとのことではあったけど。
世界史担当の先生はちょっと面食らったみたいだったけど、余計な詮索はしなかった。たぶん、そのほうが賢明ではあったんだろう。怪しげな藪があったら、つつかないほうが無難だった。
許可が下りると、みわちゃんは教室をあとにした。ひっそりと、最初からその場所にはいなかったみたいに。
彼女が姿を消す頃には、教室の空気はまたいつもの通りに戻っていた。チョークの音が響き、暖房がうなり、みんな創造的とはいえない手つきで鉛筆を動かしている。
だから、みわちゃんがさっきの発言とは裏腹に、保健室があるのとは逆の方向に向かったことに気づいたのは、たぶんわたし一人だけだった。
休み時間のチャイムが鳴ると、わたしはすぐに教室をあとにした。
張りぼてみたいに空っぽな、まだ誰もいない廊下を歩いていく。そのまま階段をのぼって、ある場所に向かった。
何となく、わたしには予感があったのだ。
やがてわたしは、屋上に続くドアの前に立った。鍵はかかっていない。取っ手をつかんで横に引くと、それは簡単に開いた。
屋上にはざらざらした地面と、音まで凍りついてしまいそうな冬の空が広がっている。
そして、そこには――
思ったとおり、みわちゃんの姿があった。
彼女は柵のところに立って、ぼんやりとどこか遠くを眺めていた。その姿は空から間違って落っこちてきたようでもあって、変に寂しい感じがしている。とはいえ、彼女が雪みたいに溶けて消えてしまうなんてことはない。
わたしはみわちゃんが気づく程度に、でもむやみに空気をかき乱さないように注意して、彼女のほうに近づいていった。
「…………」
その途中で、みわちゃんはちらっとこっちのほうを見たけど、特に何かを言ってきたりはしなかった。歓迎してるわけでもないけど、迷惑なわけでもない、のだと思う。わたしはそれを、勝手に進入許可として受けとった。
わたしはみわちゃんの隣に、しかるべき距離をとって立った。ものさしで測ったわけじゃないけど、ちょうど一メートルくらい。たぶん、それが適切な〝隙間〟のような気がした。
それからわたしは、同じようにして柵の向こうを眺める。
乗りこえられないように、背丈より高くされた鉄柵の向こうには、わたしたちの住んでいる街の景色が広がっていた。単調な住宅地の所々に、ビルや公園が仕方なくといった感じで並んでいる。遠くのほうには、見えるか見えないくらいの水平線があった。残念ながら、地球が丸いことを実感するほどじゃなかったけれど。
鉄の棒で区切られたそんな景色を眺めていると、何だか自分が特殊な檻の中にでも入れられたみたいな気分になる。
「ねえ、みわちゃん――」
と、わたしは彼女のほうを見るともなく、けどこれ以上ないくらい自然な声で言った。
「どうして、さっきの授業で急に出ていっちゃったりしたの?」
みわちゃんはすぐには答えなかった。答える気配もなかったし、それはそれでかまわないような気もした。でも、みわちゃんは答えた。
「――さあ、どうしてかな」
返事はそれだけだった。でもそれだって、答えには違いない。
わたしは冬の空気を胸いっぱいに吸って深呼吸をした。空気はもちろん冷たかったけど、それはそれで悪くない気がした。
何も言いたくないなら、何かをうまく言えないなら、別に無理をして言う必要はなかった。歯医者で虫歯を抜いてもらうわけじゃないのだ。
わたしとみわちゃんはそうして、長いこと何も言わずに並んで立っていた。時間が光の粒になって消えていく。校舎の喧騒も、ここまではなかなか伝わってこない。まるで、神様の手のひらにでもいるみたいに静かだった。
見上げると、冬の青空が広がっている。それは濃い群青の、どこまでも続く色のついた世界だった。
「きれいな空だね――」
と、わたしは自分でも知らないうちにつぶやいていた。まるで、雪の一片が偶然手の上に落ちてきたみたいに。
それに対して、意外にもみわちゃんからの返事があった。
「――ああ、きれいだな」
彼女は首筋をまっすぐのばし、何か大切なものでも受けとろうとするみたいに空を見上げている。
その瞳――
彼女の瞳が何を映していたのか、わたしはようやく思い出していた。その瞳はずっとずっと昔の、あの場所につながっていたのだ。
※
幼稚園でのことだった。雨に滲んでしまった絵みたいに、もう記憶もおぼろになってしまっている頃――
いつだったか正確には覚えていないけど、園の先生が絵本を読んでくれたことがあった。確か、『秘密の花園』だったと思う。天涯孤独の身になって急に引きとられたお屋敷、暗い病室に眠る幽霊みたいな少年、土の中から偶然拾った古ぼけた鍵、蔦に覆い隠された秘密の扉。
昼食後の自由時間になったとき、わたしの中にはその絵本の世界がまだまるまる残っていた。わたしはメアリーになって、お屋敷を探検した。園舎の風景は、簡単にイギリスのそれに交代した。
その時、わたしと同じように空想世界を満喫している人間がいた。
――みわちゃんだ。
わたしたちは自然と協力して、「秘密の花園」ごっこをはじめた。建物の中や、運動場、遊具のあたりを駆けまわって、絵本の場面を再現していく。
そうして、どちらが言いだしたのかは忘れてしまったけれど、幼稚園にある秘密の扉を探検することを思いついた。
子供らしい、他愛のない噂話だ。
幼稚園には一つの扉があって、そこには絶対に近づかないよう注意されていた。扉は建物の奥にあって、ちょっと薄気味の悪い雰囲気をしている。普段から近づくような場所じゃないから、子供たちにとっては格好の題材だった。
扉はあの世につながっているとか、金銀財宝が隠されているとか、恐ろしい怪物が閉じ込められているとか――まあ、そんな感じだ。
わたしとみわちゃんが思いついたのは、その扉への挑戦だった。秘密の扉の向こうには、秘密の花園が広がっているかもしれない。
園内のあちこちで遊ぶ子供たちを尻目に、わたしたち二人は先生の監視をすり抜けてその場所に向かった。廊下を建物の奥に進んでいくと、急に人気がなくなってひっそりとしている。何となく墓地を思わせるところで、あんまり心楽しくなるような雰囲気じゃなかった。
わたしたちは多少怯みはしたものの、それでも二人いっしょだという心強さがあった。絵本のページもまだ開かれたままになっている。おっかなびっくりではあったけれど、先に進んだ。
問題の扉は、確かにそこにあった。不気味な赤色をしていて、何か読めない文字が書かれている。今から思うとたぶんそれは、「開放厳禁」とかそういう言葉だった気がする。
扉に手をかけると、鍵はかかっていなかった。わたしたちはどちらからというわけでもなく見つめあった。お互いの覚悟と勇気と信頼を、確認しあうみたいに。
そうして、わたしたちは〝秘密の扉〟を開けた。心臓を痛いほどどきどきさせながら。
――扉の向こうには、階段が続いていた。
どうしようかと迷ったかどうかは、覚えていない。
気づいたら、わたしたちは階段をのぼっていた。彼女が先だったか、わたしが先だったのか、それとも二人いっしょだったのか――
階段はずいぶん長く続いているように感じられた。子供の足だからというのもあるけど、緊張していたことのほうが大きいと思う。ジャングルの奥地にでも踏み込んでいくみたいな、神秘的な感じがした。
やがて階段は途切れて、わたしたちは〝その場所〟に立っていた。
そこは、屋上だった。階段はたぶん、非常階段か何かだったんだろう。
けどもちろん、当時のわたしたちにはそんなことわからなくて、それにそんなのはどうでもいいことだった。
わたしたちはその場所に立って、同じように空を見上げた。遮るもののないその場所は、両手をいっぱいに広げても抱えきれないくらいの青空が広がっていた。
どこまでも自由に、どこまでもきれいに。
そうだ――
どうして、忘れていたんだろう。
わたしとみわちゃんはあの時、確かに同じものを見ていた。手をつなぎあわせるのより、ずっと確かに。言葉で何かを伝えあうより、ずっと確かに。
そしてみわちゃんの瞳は、今でもまだその空の青さを映しているのだった。
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