5(文芸部)

 バスでのことがあってから数日後――

 わたしは学校の階段をのぼって、ある場所に向かっていた。放課後で、バレー部はお休みの日。

 先生の話によれば、とりあえずみわちゃんは部活に出ていないということだった。

 そこで、わたしはその部室を訪ねてみることにしたのだ。ちょっとお節介すぎる気もするけど、仕方がない。前みたいに直接尋ねたとしても、みわちゃんは答えてはくれないだろうし。

 校舎の最上階、その突きあたりまでやって来る。

 そこには、図書室があった。別にたいした広さも変わったところもない、ごく普通の図書室だった。文芸部の活動は、その隣にある図書準備室で行われているのだ。

 わたしはドアの前までやって来て、中の様子をうかがった。磨りガラスの小さな窓からは、室内をのぞくことはできない。辛うじて、明かりがついているのがわかるくらいだった。

 躊躇するより先に、わたしはドアをノックした。わたしが学んだ、何か思い切って行動するときのコツの一つだ。昔の人はそれを、見る前に飛べ、と言った。

「――どうぞ」

 ほとんど間を置かずに、中から返事がある。まるで、最初から待ってみたいに。わたしはドアを開けた。

 図書準備室兼文芸部部室というだけあって、部屋の中は本でいっぱいだった。それも、本棚にきちんと整理されているわけじゃなくて、あちこちの棚や机の上に山積みになっている。何だか、建設工事中の資材置き場みたいな感じだった。広さ自体は十分なのに、有効に活用されているとは言いがたい。

 部屋の中央には大きなテーブルがあって、そこには男子生徒が一人で座っていた。

 見たところ、ほかに人はいない。

 文芸部の活動日は事前に確認していたのだけど、わたしは一瞬何か間違えたのかな、と思った。この広さの部屋に人がたった一人しかいないと、何だか絵の中の人物がいなくなってしまったみたいな、妙な違和感がある。

「こんにちは、何か用事でもあるのかい?」

 たった一人の男子生徒が、わたしのほうに向かって訊いた。ノックに返事をしたのも、この人で間違いないだろう。

「……あの、ここって文芸部の部室ですよね?」

 念のために、わたしはまず訊いてみる。

「もちろん」

 その人は、にっこり笑って言った。ネームプレートの色から、一つ上の二年生だとわかる。名前が、「久戸くど」だということも。

「……一応訊くんですけど、あなたは文芸部の人ですよね?」

「そうだよ。幻でも錯覚でも幽霊でもなく、ね」

 笑顔のまま、その人は言う。

 品のいいセルフレームの眼鏡をかけた、わりと整った顔立ちの人だった。表情はフレンドリーで、人あたりもよさそうな感じをしている。それから、頭も同じくらい――

 けど何故か、遠すぎてうまく聞きとれない音みたいに、その姿がはっきりしないというか、本当はそこに存在なんてしていないというか、何だか妙な感じもした。

「ほかの部員の人はいないんですか?」

 と、わたしはもう一度部屋を見渡しながら訊いてみた。もちろん、何度見たってそれは変わらないし、わざわざ姿を隠す必要なんてなかったけれど。

「今日は運悪く、ね」

 久戸さんはわざとらしく残念そうな顔をしてみせる。

「週に一度の集まりだけど、それでもこういう日があるんだ」

「ずいぶん自由なんですね」

 別に皮肉のつもりじゃなく、わたしが言うと、

「それが人間の本質だからね」

 と、ずいぶん形而上的な答えが返ってきた。

 とりあえずここが文芸部で、この人が間違いなく部員だということがわかったので、わたしは当初の目的に戻ることにした。

「ここに、藤梨美和さんて、いますよね? 一年生の――」

「ああ、いるよ」

 久戸さんは気さくに答える。何かの親善大使にでもなったほうがよさそうな笑顔だった。

「彼女のことで、少し教えて欲しいことがあるんです」

「――――」

 その言葉を聞くと久戸さんは不意に、真顔になったみたいな目でわたしのことを見た。それは機械の部品を組みあわせたみたいな、温もりと柔らかさを欠いた目だった。

 この人は本来、そういう目をしているんだろうか――?

 わたしはふと思ったりしたけど、それは一瞬のことで、久戸さんの表情はまた元のような親切そうなものに戻っている。

「どうやら、君は真剣みたいだね」

「――一応、そのつもりです」

 久戸さんは立ちあがると、イスを一つ持って来てわたしの前に置いた。

「どうぞ、座って話そう。お茶の用意はできないけどね」

「大丈夫です、お構いなく」

 そうして、わたしは久戸さんと向きあって座った。

 何故か、陽気で親切な悪魔にでも出遭ったみたいに、心のよくわからないところで緊張を感じながら。


 部屋の中には毛布をこすりあわせるような暖房の音が響いていた。窓の外には、雪のない冬の景色が広がっている。

「さて、藤梨のことだったね」

 と、久戸さんは言った。あくまでにこやかに、あくまで感じよく。

「彼女の、何を聞きたいんだって?」

「――その前に、いいですか?」

 わたしはいったん、話を横道にそらした。

「何だい?」

「久戸さんは、藤梨さんと親しいんですか?」

 質問に、久戸さんは少しだけ間をあけた。手から転げ落ちたボールの、その行方を見定めるみたいに。

「親しいという表現が正しいかどうかはわからないけど、似たところはあるかもしれないね」

「……例えば、どんなところですか?」

「本の好みとか、そういうところだよ」

 久戸さんの言う「」が、どれくらいの範囲を含んでいるのかはよくわからなかった。

「部活では、藤梨さんに最近変わったところはありませんでしたか?」

「さあ、どうかな」

 久戸さんは曖昧に首を傾げてみせる。

「けど――」

 わたしはちょっとだけ、身を乗りだすようにして訊いた。

「休んでるって話ですよね、文芸部を」

「活動の参加、不参加は強制じゃないよ」

「心配じゃないんですか?」

 訊くと、久戸さんはわたしのことを見た。たぶん、きょとんとした表情で。

「無理をしてここに来ることのほうが、僕は心配だけどね」

 その言葉はある意味では正しいことのような気がして、わたしはとっさに何も言い返せないでいる。

「……けど、藤梨さん、クラスではあまり元気がなさそうでした」

 少しして、わたしはようやくそれだけを口にした。けれど久戸さんは、

「元気がなくて、それで?」

 と不思議そうに訊き返している。

「え――」

「元気がないと、そんなにダメかい。いつも元気よく、機嫌よくしてないと、許してもらえないのかな?」

「えっと……」

 わたしはなんとなく、しどろもどろになってしまった。久戸さんは責めるでも、反論するわけでもない、とても静かな口調で言う。

「何でもないのに元気なほうが、僕には異常に思えるけどな。むしろ元気のないほうが、普通なのかもしれない」

「それは――人による、と思います」

 わたしはそう言い返すのが精一杯だった。

「藤梨の場合も、そうかな?」

 久戸さんはあくまで、落ち着いた調子で言う。

「……わかりません」

「君は、藤梨の友達か何かなのかな?」

「わたしは――」

 答えようとして、けれど何も言葉が出てこなかった。わたしにとって、彼女は何なのだろう。あるいは、彼女にとって、わたしは――

「さっきも言ったけど、人間は本質的には自由だよ」

 わたしの答えを待つでもなく、久戸さんは言った。どちらかというと、至極どうでもよさそうに。

「元気があろうとなかろうと、無理をしようとしなかろうと、それは本人の勝手だ。誰かに強制されたり、励行されたりする必要はない。そんなことをしたら、人間の存在そのものを冒すことになる」

「でも、何もかも自分の自由にするなんてわけにはいきません」

「そりゃ、そうだよ」

 あっさりと、久戸さんはまるで気にしたふうもなくうなずいた。

「僕だって、そのくらいの譲歩はするさ。責任とか、義務とか、約束とか。社会のルール、倫理、法律。人が効率よく生きるために生みだしてきた、制度や習慣。でもね、それ以上のことは。いくら僕が他人に貸し借りがあるといったって、奴隷じゃないんだ。最低限のものは守らせてもらう」

「最低限のもの?」

、だよ」

 瞬間、わたしは心の裏側みたいなところがぞっとするのを感じた。草むらをかきわけて進んでいたら、足元のすぐ下に断崖絶壁が広がっていたみたいに。

 その崖は細くて狭くて、簡単に飛びこえてしまうことができる。そのくせ、太陽の光も受けつけないくらいに深くて、どこまで落ちていったとしても底なんて存在しないかのように思えた。

「…………」

 わたしはあらためて、久戸さんの顔を見つめた。その柔和で、あどけなささえ感じさせる顔を。

 この人はみわちゃんのことを、自分に似ているところがある、と言っていた。人間には自分の生命を自由にできる権利がある、とも。

 それは、どれくらい本当のことなんだろうか――

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