4(体育館で)
部活が終わって、わたしは杏子と床掃除のためのモップを取りに向かった。
練習のあとで体はまだ熱を持っていたとはいえ、恐竜の骨みたいに天井が剥きだしになった体育館は、いかにも寒々しい感じがした。窓の外には濃い夕闇が迫っていて、ガラスにぺったりと張りついている。
二人で用具庫に向かいながら、わたしは訊いてみた。
「みわちゃんのこと、覚えてる?」
首筋を手でほぐしていた杏子は、「ああ――」というふうにわたしのほうを見た。さっぱりしたショートカットに、弾みのいいスーパーボールみたいに変化しやすい顔の表情。
ちょっと背中をのばしてから、杏子は肩をすくめるみたいにして言う。
「先生に何か言われたわけだ。最近、藤梨の様子がおかしいとかなんとか」
わたしのことを先生に推薦したのは、杏子なのだ。
「うん、そうなんだけど――」
うなずいて、わたしはちょっと困ったふうに続ける。
「中学になったあとは、あんまりつきあいがなくて」
「けど先生に訊かれたときは、ゆきなのことしか思いつかなかったしなぁ」
ゆきなというのは、わたしのことだ。
「少なくとも小学校の頃は、二人とも友達だったでしょ?」
杏子はのん気そうに言った。確かに、それはそうなのだけど。
「……どうも思い出そうとすると、記憶が曖昧で」
わたしは軽くため息をついて言った。実際、どうしてだかその頃のことをはっきり思い出せないのだ。
「ふうん」
と清掃用のロッカーを漁りながら、杏子は気のない返事をする。
「……みわちゃんて、どんなだったっけ?」
わたしはあらためて、訊いてみた。
「どんなって――」
杏子は、がたがたいわせながらモップを取りだそうとしている。ちょっとがさつなところのある性格なのだ。
「何考えてるのか、よくわからない子だったな」
「そう?」
「今でもそれはあんまり変わってない気がするけど、まあけっこう特殊だったと思うよ、藤梨は」
特殊、という言葉はわたしの中に不思議な反響を残した。
「なんていうか、いろんなことを難しく考えてるみたいだった。みんなとは存在してるところが違うみたいな、ね。私としてはむしろ、なんであんたがあの子と仲がよかったのか、そっちのほうが不思議だったけど」
そう――
確かにそれは、わたしも不思議だった。どうしてわたしたちは友達で、それはどんなふうに友達だったんだろう。
その時にはあんまりにも当たり前だったせいなのか、わたしはやっぱりうまく思い出せずにいた。昨日の晩ご飯を思い出せないのと同じで。
杏子は積み木を乱暴に崩すみたいにしてモップを取りだすと、一本をこっちに渡した。わたしたちはそれを持って、バレーコートのほうへと戻っていく。
三年生はとっくに引退していて、部員の数はずいぶん減っていた。だから片づけに手間どって、時間のかかることも多い。
ネットのところで誰かが何かもたついているのを見つけて、「またかな?」と杏子は言った。
確かにそれは、「また」だった。そこには予想通り、同じ一年生の
ポールからネットを外し、それを畳んでいく作業のところで、三人がまごつくように動いている。ネットにはかなりの長さがあるから、意外と片づけが面倒なのだ。特にそのうちの一人が、うまく協力できないとなると。
小宮山さんはどこか、見当違いな動きをしていた。ほかの二人と、明らかに畳みかたのイメージが違うのだ。でも、そのことに気づかないから、それを直そうともしない。結局、小宮山さんは脇にどいて、二人だけでネットを片づけることになった。
ネットをぐるぐる巻きにして用具庫のほうに持っていく二人を、小宮山さんは無人島に置き去りにされた漂流者みたいな、しょんぼりした表情で見送っている。
小太りで、動作が鈍くて、誰かに聞かされた悪い星占いを気にしているみたいな、おどおどした顔つき。
――別に、悪い子というわけじゃないのだ。
乱暴でも、無神経でも、自分勝手なわけでもない。
でもどうしてだか、彼女の行動にはちょっと見当違いなところがある。普通なら右に行くところを、一人だけ左に曲がっていくような、そんなところが。
それはほんの些細なことなのだけど、彼女の場合はどこか笑ってすませられないところがあった。
だから部活では、彼女に話しかける人間はあまりいない。いじめだとか、仲間はずれだとか、そんなことではないのだけど、何故だかみんな彼女と積極的に関わろうとする気にはなれないのだ。
それはたぶん、誰が悪いということじゃないような気がする。もちろん、小宮山さん自身にしたところで。
「…………」
わたしと杏子がモップをかけていくと、小宮山さんはすぐそばまで近づいたところで、ようやく気づいたみたいにして体をどけた。すごく慌てて、申し訳なさそうに。
それは何だか、こっちのほうが悪いことをしたような気にさせられる動きだった。
――みわちゃんのことについて、わたしは何故だかすっきりしなかった。
実際のところとしては、それはわたしの問題じゃなかった。そのことでわたしに何か具体的な責任や関係があるわけじゃないし、わたしが気にしなくちゃならないような理由や必要もない。
それでも、何故だか――
あの日、バスの中で見た彼女の瞳。
どうしてだか、わたしはあの瞳のことが忘れられなかった。記憶の中からすっかり消えてしまっても、写真の中ではしっかりとそれが保存されているみたいに。
それはとても大事なものかもしれないし、案外たいしたものじゃないのかもしれない。
でもそれは、確かめてみないとわからない種類のものだった。
だからわたし個人としても、このまま彼女のことを放っておくわけにはいかなかったのだ。
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