3(バス停)
雪が降っていた。
下校時間。朝から降っていた雨が、雪に変わったのだ。本格的な降り方というわけじゃない。たぶん、積もることもないだろう。ためらいがちで、ちょっと地上の様子を見にきただけ、という感じの雪だった。白くて小さなその塊は、地面に落ちたそばから溶けてなくなっていく。
わたしは普段、自転車通学をしているのだけど、今日はバスを利用していた。中には傘をさして自転車のペダルをこいでいる生徒もいるけれど、やっぱりそれはちょっと危なっかしい。
部活のない日だったので、わたしはまっすぐバス停に向かっていた。同じように下校する生徒の群れが、色とりどりの傘になって連なっている。何だかそれは、カンバスにたくさんの絵の具を落としたみたいでもあった。
信号でとまり、いくつか横断歩道を渡ってから、バス停までやって来る。そこでわたしは、ふと見覚えのある人影がたたずんでいることに気づいた。
濃いめの黒色をした癖っ毛と、周囲との境界線がやけにくっきりしているように見える立ち姿。
――「みわちゃん」だった。
彼女はぼんやりしているわりには形のはっきりした視線で、どこをともなく見つめている。わたしのことに気づいた様子はない。もっとも、気づいてはいたけど注意を払っていないだけかもしれなかったけれど。
わたしは彼女を発見して、どうしようか少し考えた。小学校の頃は確かに友達だったけれど、中学に上がってからはまともに会話をしたこともない。高校になった今は、なおさらだ。
彼女がどんな声をしていたかさえ、わたしはうまく思い出せなかった。
けれど気づいたときには、わたしは彼女のほうに近づいていた。わたしはその手のことであまり悩むほうではなかったし、小学校の頃のつながりが、まだどこかに残っていたのかもしれない。切りとられたあともうねうねと動き続ける、トカゲのしっぽみたいに。
「――みわちゃんも、これから帰るところ?」
と、わたしは傘の向こう側に声をかけた。何故だか「みわちゃん」という呼びかけは自然と口の中から湧きだしてきて、自分でも違和感を覚えなかった。
「…………」
みわちゃんはわたしの言葉を耳にして、その意味を頭の中で組み立て、わたしのほうに顔を向けた。その一連の作業は、明らかに一つ一つが段落ごとに、きちんと区別して行われていた。
といって、別に彼女の反応が鈍かったとか、相手のことを気にもしていない、という感じじゃない。ただ丁寧に、ゆっくり、きちんとそれを処理している、という感じだった。
そうしてみわちゃんはわたしを見て、わたしのことをほぼ完全に認識して――でも、結局は何も言わなかった。それは返答を拒否しているというわけじゃなくて、わたしの質問の中に答えが含まれている、ということらしい。
なんにしろ、わたしは気にせず先を続ける。
「今日は部活がなくって、わたしも今から帰るところなんだ。よかったら、いっしょに帰ってもいいかな?」
それに対しても、みわちゃんはすぐには答えなかった。まるで正しい答えが天から降ってくるのを、少しだけ待つみたいに。
「……別に、かまわない」
しばらくして、みわちゃんは言った。不ぞろいの大きさの小石を転がすみたいな、ぼそぼそとした声だった。その短い返答にどんな感情が含まれているのかは、わたしにははっきりとはわからなかった。
けどともかくも許可が下りたので、わたしは彼女の横に並んでバスを待つことにした。バス停にいるのは、ほとんどがわたしたちの高校の生徒たちみたいである。傘の下で熱心に携帯をいじっていたり、建物の屋根に入って談笑していたり、その様子はいろいろだった。
停留所には雨よけはなくて、色の薄くなった青色のベンチが寒さに凍えるようにじっとしている。
「――みわちゃんは、いつもバスで通学してるの?」
無難な話題として、わたしはそんなことを訊いてみた。
「うん」
返事は、それだけだった。いくら逆さにして振ってみても、からっぽのままの貯金箱みたいに。
「…………」
わたしはなんとか笑顔のまま、表情を変えずに彼女の様子をうかがってみる。
みわちゃんはさっきまでと同じ、特徴のある視線でぼんやりしていた。数学の問題に出てきそうな、くっきりした視線だった。とりあえず、不愉快だとか、困惑しているだとかいう気配はない。
わたしはめげずに、会話を続けた。
「この雪だと、積もりそうにないね」
「そうだね」
「わたし、いつもは自転車なんだ」
「ふうん――」
「みわちゃんは、自転車で来ることはないの?」
「バスのほうが好きだから」
「……どうして、バスのほうが?」
「さあ、どうしてだろう」
会話は、思ったようにはつながらなかった。まるで、接触の悪いスイッチを操作しているみたいに。
「――――」
わたしはちょっと、時計を確認した。念のために、時刻表も。
バスはやがて、時間通りにやって来た。
ステップをのぼるとバスの中は暖かく、ぬくぬくしていた。いかにも大雑把に調整された暖房で、忙しくて一人一人の都合になんてかまっていられない、という感じである。
雪が降っているせいで、車内はそれなりに混雑していた。わたしとみわちゃんは、通路の半ばあたりで銀色の手すりにつかまる。乗車口がごたごたして、発車するまでに余計な時間がかかった。
やがてブザーが鳴ってドアが閉まると、重たい水をかきわけるみたいにして、バスはゆっくりと走りはじめる。傘から落ちる水滴が通路を濡らし、窓の外では温度を失った雪が降っていた。
わたしはさっきの会話を仕切りなおして、再びみわちゃんとのコミュニケーションを試みることにした。
――でも、やっぱりそれはうまくいかない。
「来月は期末試験だね」とか、「寒いのは嫌だね」とか訊いても、みわちゃんからは、「そうだね」という答えしか返ってこなかった。
その返事は曖昧で適当というよりは、やけにシャープでくっきりした印象を持っている。何だか、鋭利な刃物で切ったみたいな、滑らかな切断面をしていた。
「…………」
このままじゃ埒が明きそうにないので、わたしは単刀直入に例の話について訊いてみることにした。
「なんだか、部の担任がみわちゃんのこと心配してたみたいだよ」
「そう?」
みわちゃんは、まるっきり興味がなさそうだった。
停留所でバスがとまって、何人かが混雑をかきわけてステップを降りる。乗ってくる人は一人もいなかった。
軽いクラクションの音とともにバスがまた走りはじめると、わたしは質問を続ける。
「――部活にも顔を出してないんでしょ?」
「まあね」
彼女の言葉使いには、ちょっと男の子っぽいぶっきらぼうさがあった。そういえば小学校の頃もそうだったな、とわたしはふと思い出す。
「どこか体調が悪いとか、そういうの?」
「いいや、違う」
「部活で何かあったとか?」
「ないよ、何も」
みわちゃんは内容はともかく、返事だけははっきりしていた。そのせいか、
「悩みがあるんなら、言ってみなくちゃ」
と、わたしはつい説教臭い提案をしてしまう。
「もしかしたら案外、それで解決できるかもしれないんだし」
「――――」
その言葉に、みわちゃんはわたしのことを見た。たぶん、はじめて、わたしの顔をまともに。ちょっと言いすぎちゃったかな、とわたしは後悔する。
でも、わたしのことを見るみわちゃんの表情にあるのは、苛立ちや苦痛や傷心といった、そんなものじゃなかった。
そこにあるのは、もっと別の――
「――かもしれないね」
と言って、みわちゃんはまた窓の外に顔を戻した。どこかを見ているようで、どこも見ていないような、そんな視線。
わたしはまごついて、けれど懲りもせずに言葉を続けた。
「何かあるなら、言ってくれなくちゃわからないよ。一人で抱えこんでてもいいことはないと思うし」
それに対して、みわちゃんは少しうんざりしたふうに、窓の外を見たままですぐに返答する。
「言わなきゃわからないなら、言ってもわかるわけないよ」
「けど、何か力になれることだってあるかもしれないし――」
わたしがそう言うと、みわちゃんは再びわたしのほうに顔を向けた。
「――本当に、そう思うの?」
彼女の瞳はまっすぐに、本当にまっすぐに、わたしへと向けられていた。
その視線はわたしの奥の、わたしも知らないような場所まで届いていた。遠くの星の光が、何百年もかけて、それでも地上までやって来るみたいに。それでわたしは、少しまごついてしまう。居心地の悪さとか、戸惑いとか、反感とかとは、何か違ったふうに。
わたしは彼女にどう答えていいのか、まるでわからなかった。月がどうしてあんなに小さくて、あんなに離れているのか、子供から突然訊かれたみたいに。
けれど、彼女のその瞳――
その瞳に、わたしは何故か見覚えがあるような気がした。とても昔、とても大切な場所で、とても大切な時間に、同じものを見たような、そんな気が。
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