2(みわちゃん)
教室には暖房がきいていて、冬の寒さをすっかり追い払ってしまっていた。元気のいいクラスメートになると、上着を脱いでしまっているくらいだ。一月も終わりで、季節は冬のまっただなかというところだったけれど。
「…………」
それでも朝礼前のこの時間、世界はまだ目覚めきっていないみたいだった。蛍光灯の明かりも、いつもより何割か暗く感じられる。窓の外には今にも雪の降ってきそうな鉛色の雲と、その下で身を縮ませる町の景色が広がっていた。
わたしは立ったまま、窓際で二人の友達と話をしていた。別にたいしたことじゃない。いつも通りの、他愛のない話だ。日常を健康的に通過させていくための、必要不可欠で儀式的な行為。
「――それでさ、忘れ物をとりに戻ったら、びっくりしちゃって」
「何で?」
「だってさ、そこに先輩がいたんだけど、二人とも距離が近くて。もしかして、あの二人……とか思ったわけ」
二人が交わす、テレビやら身近な人間関係やらの話題に耳を傾けつつ、わたしはふと教室の向こうのほうに目をやっていた。
そこには一人の女子生徒が座っていて、わたしの視線は自然と彼女のところに落ち着いていた。夜空を見上げたときに、特別な形をした星座に目をとめるみたいに。
――彼女の名前は、
鳥の巣みたいなひどい癖っ毛の髪をしていて、櫛を通すのにも苦労しそうだった。高校生の女の子としては平均的な背丈で、外見的にはその髪以外に特に目立ったところはない。鼻の形とか、耳の具合とか、あとは胸の大きさも。
ただ、彼女の瞳には不思議なほどぶれが少なくて、まじろぐということがなかった。いつも対象をまっすぐそのまま観察しているみたいで、それは何だか測量器具的な正確さを感じさせる。
彼女は自分の席に座って、一人で本を読んでいた。そのじっとさかげんは、何だかまわりの世界なんて存在していないようでもある。
「――ねえ、聞いてるの?」
しばらくのあいだ、わたしはそんな彼女の様子を眺めていたけど、声をかけられて現実に戻った。彼女だけが存在する世界から、彼女も含めて存在する世界へと。
そうして自分自身の中心を、日常を過不足なく通過させるための、他愛のないおしゃべりへと移行させる。最近できたばかりのお店とか、知りあいの噂話とか、こまごました家庭の出来事とか、そういったものへ。
けれど――
わたしの頭のどこかには、ついさっき見た彼女の姿が頑固な幻みたいにちらついていた。
その姿は不器用で、危なっかしくて、頑なで――何より、傷つきやすそうに見えた。
――彼女のことがそんなふうに気になっていたのは、先生から頼まれたせいというのもあった。
数日前、職員室に呼びだされたわたしは、何かと思っていたら、「最近、藤梨の様子はどんな感じだ?」と訊かれたのだ。
休み時間の職員室には、教室と同じでいろいろな物音にあふれていた。机に向かってペンを走らせる音、授業のことで質問に来た生徒の声、ストーブの上で薬缶の水が沸騰する音。
「……どんな、ってどういう意味ですか?」
わたしは質問の意図をはかりかねて、戸惑いながら訊き返した。わたしはクラス委員長というわけでもないし、ことさらクラスメートについての詮索を行うような立場でもなかったから。
「いや、何……」
と、クラスの担任教師である
「実は文芸部の
言われて、わたしは国語の先生である池原
「――――」
わたしはちょっと胡乱な目つきで、担任教師の顔を見る。もうすぐ中年にさしかかった、視力を矯正する必要のある人間が裸眼で見ないかぎりは、冴えているとは表現しにくい風貌。あまり格好がいいとは言えない野菜みたいな――
「なんだ、そのカボチャの品定めでもするみたいな目は」
豊島先生は不満そうに唇をつきだして言った。どうやら、わたしが何を考えているのか十分にわかっているらしい。
わたしは軽く、ため息っぽいものをつきながら言う。
「……池原先生が美人だからって、これは職権乱用じゃないですか? いくら担任で、バレー部の顧問だからって」
わたしはバレー部に所属していて、豊島先生がその責任者なのだ。
「確かに池原先生は美人だが――」
その部分に関しては、否定しなかった。
「この話はそれとは別問題だ。俺はクラスの担任として、心配して言っているんだぞ」
わたしはあまり、無垢とはいえない目で先生のことを見た。先生にしてもあまり、それを期待しているようには見えなかった。
――とはいえ、生徒のことを気にかけているというのは本当だろう。藤梨さんの様子がおかしいというのも。だから、
「けど、どうしてわたしに聞くんですか……?」
ずっと疑問に思っていたことを、わたしは訊いてみた。最初から、そのことが引っかかっていたのだ。
「
と、豊島先生は言った。沢本
「杏子が、何て言ったんですか?」
わたしが訊いてみると、先生はごく簡単に言った。教科書の年表に出てくる、歴史的な出来事みたいに。
「お前たちは小学校の頃、仲のいい友達同士だった――ってな」
確かに、わたしたちは友達だった。
――小学校の頃、それはつまり、今から三年以上前のことだ。
仲がよかったというのも本当のことで、わたしたちはいっしょになってよく遊んでいた。具体的にそれがどんなふうだったかは思い出せないけど、それは間違いのないことだ。
でもいつ頃からか、わたしたちは疎遠になっていた。中学校に上がる頃には、もうほとんど没交渉といってもいいくらいだったと思う。
それがどうしてなのかは、わからない。
何かでこっぴどいケンカをしたわけでも、ひどい裏切りがあったわけでも、つまらない誤解をしたわけでもない。
気がついたら、そうなっていたのだ。大昔は一つだった大陸が、今はいくつにも分かれているみたいに。
わたしはその後、新しい友達を作って、新しい環境を築いて、その中でごく自然に生活をしていた。彼女のことは気にかけず、注意することもない。まるで、最初から彼女とは友達でもなんでもなかったみたいに。
考えてみると、それは少しだけ不思議なことだった。
――わたしはその頃、彼女のことを「みわちゃん」と呼んでいた。
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