空飛ぶ自転車

伊丹巧基

空飛ぶ自転車

 空飛ぶ自転車



マイクは、一昨日〝空飛ぶ自転車〟から落ちて、泥の中に埋まって死んでいた。


町から少し離れた水田の真ん中に、それこそ漫画のように頭から突き刺さっていたらしい。早朝の事だったから誰も見ていなかったし、落ちた音を聞いた人もいなかった。マイク・ホールデンという38手前の男は、少し肌寒い朝に、誰にも看取られることなくこの世から去ったことになる。


最初に発見したのはその田んぼの持ち主で、死体を見つけた時は驚いたそうだが、すぐに警察に連絡した。この近く唯一の病院の、患者よりも死にそうなよぼよぼのじいさん医者は、死体を引き上げるまでもなく「ありゃあもうとっくに死んでるよ」とだけ言って、近付かないようにとお決まりの忠告だけするとさっさと引き上げ、マイクの死体の周りの田んぼ道は、有名人でも来たかのように野次馬で賑わっていたらしい。


かなり遅れてとなり町の方からダビンチ・コプターでやってきた警察は、近くに不時着していた空飛ぶ自転車から見ても、マイクは少なくとも高度四十メートル以上の地点から落下したことは間違いない、と結論付けた。いくらやわらかい田んぼに落ちたとはいえ、その高さから落ちたマイクの頭は、本当に鼻が胸の中にめり込むほどねじれて曲がっていた。僕の親父は僕が十二の時に死んだけれど、こんな悲惨な死に方はしていなかったはずだ。少なくとも、首は肩の上に乗っかっていたのは覚えている。


少し経ってからニュースがこのことを取り上げ、マイクが乗っていた空飛ぶ自転車を製造したスワロウテッツ社は激しい糾弾を受けた。会社がいくら安全性には一切問題が無かったと説明しても、メディアは受け入れず、毎日のようにニュースでその事件を取り上げた。


最初のうちはマイクという人物が死んだことも言及していたけれど、そのうち彼の死は形骸化していって、なぜ空飛ぶ自転車がこのような事故になったのか、安全性には問題が無かったのかをオウムのように繰り返し叫ぶばかりで、僕もしまいには空飛ぶ自転車の見出しが見えた途端に、18チャンネルの大人気子供向け番組『ラビッツ&タートル君の大冒険』に切り替えるようになった。




「ジム、この〝空飛ぶ自転車〟はな、『RH-4000R』というモデルだ。あのかの有名な空飛ぶ自転車乗りマイケル・マックスが、第6回サウスダコタ世界大会で優勝したチューンナップモデルのリメイク品なんだぜ」


 マイクは僕に会うたびにその自転車を自慢していた。自宅のガレージ、近所のバー、立ち寄った公園。いつでも彼は僕が聞いたこともない、そのマイケル・マックスとやらがいかに優れた空飛ぶ自転車乗りかを説明し、そしてその彼の乗っていた『RH-4000』というモデルがどれほど緻密で特別な設計かを熱っぽく語ることに終始した。別に僕は興味も無かったから、マイクが嬉々として語ったり、ガレージで熱心に整備しているのを奥さんと一緒に眺めていた。


 それでも、空飛ぶ自転車が安全性の高い乗り物であるというのは有名な話らしい。ルネサンスの天才ダ・ビンチのスケッチに着想を得たこの乗り物には、乗り手を保護するように球形に加工された耐衝撃ビニールが張り巡らされ、400mから落下しても中にいる乗り手には傷一つつかないという話だった。当然耐衝撃ビニールとやらはマイクの受け売りだ。確かに、彼の乗っていた空飛ぶ自転車は、ほとんど無傷で彼の家に戻された。本来ならその中にいるはずの乗り手は、永遠に帰ることは無かったけれど。


「俺は今でこそこんなんだが、昔は世界大会候補になるくらいには凄かったんだよ」


 マイクは少し酒が入ると、そのことを豪語した。そもそも僕は〝空飛ぶ自転車〟に世界大会なんてものがある事も知らなかったし、はっきり言ってマイクの過去にも全然興味が無かった。僕が知らないよ、と返すと彼は決まってこう言うのだ。


「それはお前が空飛ぶ自転車に乗ったことが無いからだ。あれに乗ってみれば分かる。どれだけ俺たちの生きてるこの日常がつまらないかを、な」


 そう悟ったように語るマイクは、何を言っても聞く耳を持たなかった。彼はここに住んでいる理由も、人気のない田舎は自由に空飛ぶ自転車を乗り回せるからだ、と言っていたし、高いところから周囲を見渡すのが最高なんだそうだ。


 逆に僕は歩いて移動する方が好きだったし、だいいち高所恐怖症だ。足元から地面が透けて見える上に、自分で漕ぐ必要があるあんな乗り物には乗りたくも無かった。それでもマイクは僕に熱心に勧めてきた。一度はわざわざカタログまで持ってきて、僕でも乗れる初心者用空飛ぶ自転車を片端から紹介していったこともある。本当に、マイクはうっとおしい奴だった。

 まあ、だから僕くらいしか友達がいなかったのかもしれない。

 

 僕たちがなぜ友達になったのか。それは単純な話で、マイクと僕のよく行くバーがたまたま同じで、帰宅方向も大体同じだっただけだ。僕は安いアパートを借りて住んでいたけれど、マイクは親から引き継いだというガレージ付きの結構大きな一軒家だった。その一軒家は意外に広い家で、最初マイクを介抱して運んだ時には、そこそこの金持ちかと思ったくらいだ。実際はろくな職に就いてないマイクは、いつも貧乏で、収入は奥さんに頼りきりだった。


 マイクを介抱するのはいつも僕だった。マイクは本当によく酒を飲んだ。自分が一杯カクテルを飲んでいる間に何杯も色々な酒を浴びるように飲むのだ。大して強い訳でもないのに、僕が止めようがマスターが止めようがマイクは一向に気にせず飲み続け、その挙句にいつも完全に酔って歩けなくなり、バーのカウンターで突っ伏して寝ていた。そうして閉店時刻にマスターは困ったようにマイクを無理やり立たせると、送ってやるように頼ん出来るのが常だった。

 僕がいる日はそれで済むから良かったが、僕がいない日は当然マイクは一人で帰ることになり、一度冬の雪が深々と降る日に、マスターが大丈夫だろうと追い出した後道端で寝ていたらしく、危うく凍死しかける所だった。偶然通りがかった宅配のおじさんがいなければ、彼は今よりも前にあの世に行っていただろう。もっとも、泥に埋まるのと、どっちが幸せな死に方だったのか、僕には分からない。


「酒はいいぞ、何もかも忘れさせてくれる。酔いつぶれて死ねば、俺はいつ死んだか分からないまま、天国で目が覚めるって訳だ」


 マイクがこれを言い出したら、相当酔っている証拠だった。彼のお決まりの文句みたいなもので、ほろ酔いの僕はこれを聞くたびにマスターと顔を見合わせていた。そもそも酔って死んだ人間が天国に行けるとは到底思えなかったし、これを言うマイクは既に夢うつつで、横にいるのが僕なのかすら定まっていなかっただろう。


 あまりにもしつこいので、一度僕は、そんなに死にたきゃ自殺でもしたらどうなんだ、と言ったことがある。そうすると、マイクは突然起き上がり、掴みかかって何かを捲し立て始めた。当然、酒が入り呂律の回らない舌で唾を飛ばして言われても、言葉なのか雄叫びなのかの区別もつかない奇声にしか聞こえない。だが、捲し立て終わった途端、すっと静かに椅子に座り直し、残っていたウイスキーを一気に飲み干すと、唖然とする僕をほったらかして、いきなり素面に戻ったかのように、低いトーンでぼそぼそと喋りだした。


「いいか、よっぽど幸せな奴じゃない限りな、人間誰しも死にたいと思うもんだ。だが、大抵の場合そう思ってる間は死なねえんだ」


いきなり何の話だ、と笑うと、マイクは「俺は真剣なんだ」とテーブルに拳を叩きつけた。ああダメだ、と僕はマスターと顔を見合わせる。こういう時は好きに話させるのが一番だということは、マイクとこのバーで知り合った時から知っている。


「あー、でも死ぬ手段はあるだろう。勧めるわけじゃないが、自殺とか……」


 マスターがぼそりと言う。マイクがまともに会話するのは僕と奥さんを除くと彼だけだ。無論、マスターは客を適当にあしらっているだけなんだけど、マイクは良く見知った仲だからか横柄に返事を返す。


「自殺なんてもってのほかだ。怖くて出来たもんじゃねえ。それが出来る奴は、もう人間でもなんでもねえんだ。出来ない奴はずっと死にたい死にたいと思いながら、その感覚で潰れていくしかねえのさ」


 じゃあ誰かに殺されたり、事故で死にたいのか、と僕は言った。僕自身酔いが回っていたのかもしれないし、それにマイクが普段は言わないようなことを口にしたことに、驚いていた。だが、マイクはそれも否定した。


「他人に殺されるなんてもっと嫌だね。俺の命に価値があるかは分からねえけど、他人に取られるなんて反吐が出る。事故死はマシかもしれねえけどよ、自分が死にたいときには大抵事故なんか起きねえんだ、クソッタレ」


 じゃあどう足掻いても死ねないじゃないか、と僕が言うと、マイクは何度も「だよなぁ」と繰り返し呟き、そのまま潰れてしまった。僕が知る限り、マイクはろくに学校にも通っていなかったらしいし、口を開けば空飛ぶ自転車の事ばかりで、こういう話を酔って始めるような人間には見えなかった。


「ま、こんだけ飲んだくれてりゃすぐに迎えが来るだろ。ジム、そいつを送ってやってくれ」


その日以降、僕はマイクに死に関する話題に持ち込むことを避けた。マイクは大抵深く酔うと何も覚えていないらしく、その翌日、工具の散乱するガレージに来た僕に嬉々として空飛ぶ自転車の自慢を始めた。何度目か知れないその自慢を聞きながら、僕はマイクの奥さんと共に苦笑する。



マイクには奥さんがいた。彼女は若くて美人で、はっきり言って彼には不釣り合いだと僕は思った。マイクは正直顔も良くなかったし、頭に関しては掛け算すら怪しい。それに職に就いてないから金も無く、財産らしい財産は親から引き継いだ一軒家とずっと愛用している〝空飛ぶ自転車〟だけだ。


 それとは対照的に、奥さんはどこか遠い国の優秀な大学を卒業し、仕事も僕らの住んでいる町の公務員をしている。ここまで関わり合いのなさそうな二人がなぜ結婚したのか、僕には理解できなかった。マイクはそのことを尋ねると急に話題を逸らすし、奥さんに聞いてみても、『ああ見えてあの人、面白いから』という何とも漠然とした答えが返って来るばかりだった。


彼女がマイクの死を知ったのは、警察の更にあと、時刻は昼に差し掛かろうとしている時だったらしい。仕事場でてきぱきと働く彼女は、それを知らされても殆ど動揺せず、死体が搬送された病院に確認しに行ったそうだ。「どうにか抑えてましたけど、ノーラさん真っ青でしたからね。私、着いていこうかって声掛けたんですけど、心ここにあらず、って感じで。いやー、びっくりしましたよ」とは、僕のアパートに住んでいる噂好きのエイミーの弁だ。


それに「へえ、そうなんだ」と返す僕は、多分唯一彼女の本心を垣間見た人間だったのだろう。マイクが死んだあの日僕はというと、となり町に用事があって出かけていたのだ。午後になってこっちに戻ってくると、小さな田舎の話題に欠いた町ではマイクの死でもちきりで、僕はそれを聞いて慌ててマイクの家に向かった。


着いた時には幸いマスコミの取材なんかもいなくて、なぜか開いていた玄関から入ると、リビングで顔を真っ赤にして泣き腫らしていた奥さんに遭遇したというわけだ。ただ、僕はなんと声をかけていいのか分からなかったし、なにより彼女の泣いた顔は、不思議な憂いと湿った空気を帯びていて、僕の中で生まれた強い欲求と理性がごちゃまぜになり、余計に沈黙以外の解答が出せなかった。だから僕は、彼女の隣のソファーに座り込み、ただ彼女の悲痛に満ちた泣き声を聞いていた。彼女を上手く慰められない自分が腹立たしかったし、同時に彼女とずっと一緒にいられないことにも腹が立った。


 結局日が暮れたころ、僕は少し彼女が落ち着いたのを確認すると、一通りの励ましをして彼女の家を後にした。奥さんは顔を背けたままだったが、夜までいたかったが、僕には確認しておかなければならないことがあったのだ。


向かったのは、マイクの事故現場だった。別にマイクの死地が見たかったわけではなく、空飛ぶ自転車を見たかったのだ。僕が現場に着いたときは、とっくにマイクの死体は片付けられ、死体がめり込んでいた位置には白いテープと申し訳程度の番号が書かれたプレートが置かれていた。当然、ぬかるんだ土はマイクが埋まっていた痕跡も消し去っていた。だけど、僕はそれを見に来たのではない。


離れた所に落ちていた空飛ぶ自転車は、いったん検証が終わったのか、適当にテープが張られただけで放置されていた。泥が表面にこびり付いているが、ほとんど形すら歪んでいない空飛ぶ自転車を見て、マイクの話は本当だったんだな、と今更のように思う。僕の小さな心臓は針金のように高鳴りながら、マイクの空飛ぶ自転車に近付いていく。周りにだれか見ている人間がいないか、それこそ犯罪者のように僕は挙動不審になりながら、僕は空飛ぶ自転車を見つめていた。


『いいか、ジム、空飛ぶ自転車はメンテが命だ。乗り物の事故は大抵整備不足が原因なんだよ。例えばここだここ、ペダルと衝撃カバーの間の――』


「『――二本のネジは、片方でも緩いとあぶねえんだ』」


 ゆっくりと周囲を回りながら、僕は見る角度を調整する。空飛ぶ自転車は、構造や原理はともかく乗る感覚は自転車に近い。そして工業製品である以上、部品をつなぐ金具が必要だ。部位によっては、その存在が極めて重要になる場合もある。マイクが言っていたのは、搭乗者の安全のためには欠かせない大事な留め具のことだ。そのペダルと耐衝撃カバーを繋ぐ二本のネジは、安全性のためにも定期点検は怠らないようにしないといけない――そう教えてくれたのはマイクだ。


ネジ穴に、ネジは無かった。知っていて当然のはずが、僕には数倍の衝撃として襲い掛かってきた。二本のネジが収まっているべき場所には、虚ろな穴が二つばかしあるだけ。それを確認した途端、僕は現場から逃げ出すように立ち去った。


「全能なる神よ、神聖なる慈悲深き救いの父たる神よ、罪深き我らに永遠の苦痛を……」


その翌日、僕はマイクの葬式に出席した。

マイクの葬儀に参列している人は、殆どいなかった。彼の葬式がしめやかに執り行われている最中、僕は何度か奥さんを見た。彼女は、ずっと無表情でマイクの棺を見つめていた。僕の目から見ても、奥さんはマイクの事を愛していたように思えた。だからまた泣き出してしまうのではないか、と思ったのだ。彼女が泣き出したその瞬間、僕は自分のしてしまったことを大声で言いだしてしまいそうで、必死にその衝動を押さえつけていた。僕がマイクの死の原因だと知ったら、奥さんは僕を嫌うだろうか。なじるだろうか。詰め寄るだろうか。マイクを返せと、泣き叫ぶだろうか。そんな考えが頭を離れず、僕は何度も顔を上げて奥さんを見ては、再び顔を下に向け、葬儀中ずっと彼女の様子を伺っていた。


 結論から言うと、奥さんは一度も泣きださないまま、棺に土が掛けられ、神父が祈りをささげている後ろで、ただ黙ってどこかの宙を見つめていた。そして終わった後も、そのまま一人でマイクのいない家に帰っていった。僕はその後ろ姿を、見えなくなるまで黙って見続けていた。そして僕のよこしまな願いは実らず、僕はマイクの家に訪れる機会がなかった。いや、むしろ僕の方から避けていたのだろう。

 


「事務的にお聞きしたいのですが、これも仕事でして。彼の死に、何か気になることはありましたか?」


 そう聞くよれよれのコートを着た警官の男に、僕は少し考え込むそぶりを見せてから、「特に何も」とだけ答えた。ここは現場から離れたアパートの玄関、そして死者の親友だったという男。その警官は別にコロンボじゃない、特に僕に疑いの目を向けることなく立ち去り、その後二度と僕の前には現れなかった。あの時の心臓の高鳴りを聞かれていたら、少しはあの男も考え直したかもしれない。そして僕に聞くのだ、「いや、うちのカミさんがね……」と。


 だが、待って欲しい。これは別に僕の犯した罪の告白じゃあないのだ。確かに、僕はほんの少し、本当に少し悪意の種を捲いた。淡い願望だけがあり、本気でマイクを殺そう、なんて考える訳がない。僕はマイクがいなくなれば、あの奥さんが僕の物になるんじゃないか、とどこかで期待していたのは事実だ。

簡単に言ってしまえば、僕はマイクに嫉妬していたのだと思う。自分よりも何もかもが劣っているように見えるマイクが、完璧ともいえる伴侶を持っていることに。それに、その奥さんの容姿や、話している時に感じる知性は、僕を魅了した、いや惑わしたとすら言ってもいい。だが、その為に彼を殺すなんて、僕にはできっこない。僕はそこまで強い人間じゃ無いのは、自分自身良く分かっているつもりだ。


 僕がしたのは、本当にちょっとしたことだったはずだ。彼の〝空飛ぶ自転車〟の、ネジを近くにあったネジ抜きで一本抜いた、ほんとうにたったそれだけ。

 酔いつぶれた彼を家に送り届けた帰りに、ガレージに安置されたそれ飛ぶ自転車を見て、ふとペダルと耐衝撃カバーの境目近くにあるネジを、一本だけ抜いたのだ。魔が差したとでも言うのだろうか、気まぐれに僕はその一本を抜いて、外の堀に捨てた。本当に、たったそれだけ。マイクのガレージには予備のネジだってたくさんあった。それにあれだけ念入りに整備をしていたのだ、気付かないわけがない。どうせすぐに付け替えるさ、と僕は少し酔いから覚めつつある頭を抱えて家に帰った。



そしてその翌日、朝日が昇るほんの少し前に、マイクは田んぼに落ちて、死んだのだ。

 


「久しぶりね。もう二ヶ月かしら。この間はごめんなさい、私、動転しちゃって……」


 開口一番、奥さんは前にマイクと一緒にいたころのような温和な笑顔を浮かべて、僕を出迎えてくれた。

 結局、マイクの死因は事故で片付けられ、スワロウテッツ社が奥さんに多額の慰謝料を払う形で決着した。あの奥さんがそこまでお金に執着しているとは思えなかったが、マスコミは日々スワロウテッツ社をやり玉に挙げ、世間が払うことを強要したような形になった。当然数か月もするとマスコミはそのことも忘れ、スワロウテッツ社も一応空飛ぶ自転車の製造を再開した。


 そして僕が今こうして久々にマイクの家にいるのは、奥さんから直接連絡があり、引き取って欲しいものがある、と言われたからだ。少し迷ったが、僕は行くことにした。ある種の罪悪感と、単純な興味。なぜ今頃連絡があったのかという疑問。いろいろな不安を抱えつつも、淡い期待と共に僕はやってきた。当然その期待は裏切られ、マイクの家の中は、前に来たときに会った家具が殆どなくなっていた。あちこちに段ボールが積み重ねられていて、前までの生活感はすっかり鳴りを潜めている。

 僕はそうですね、と一言いうと、彼女の出方を待った。彼女が何を言い出すのか、怖かったこともある。彼女が煙草を取り出すと、一本抜いて火をつけた。僕は彼女が煙草を吸う所は初めて見た。彼女が僕の反応を見て自虐っぽく笑う。


「元々は吸うのよ。でも、あの人が嫌がってね。『煙草を吸う女なんぞ犬も食わねえ』とか訳分からない事言いながら、ね。自分だって飲んだくれのくせに、良く言うわよ」


 奥さんは懐かしんでいるようで、どこか寂しげな影がある。風貌は変わっていなくても、マイクがいたころの彼女とはどこかが違っていて、彼女にとってのマイクの大きさが、僕の心をゆるやかに引き裂いていく。無理やり笑みを取り繕い、周りにある大量の段ボールの事を、奥さんに尋ねた。


「……ああ、私、引っ越すの。流石に、ここの町には居づらくなってきて、さ。ほら、マイクとの思い出もあるし」


 僕は寂しくなりますね、とありふれた台詞を述べる。この一連の会話も、どこか芝居じみているような気がした。やっておかなければならない業務手続のようだ。奥さんは少し間を置くと、僕に言った。


「で、引きとって欲しいのはね、あの〝空飛ぶ自転車〟よ」


 急に周囲の景色がぐにゃりと歪んで、僕は身体から何かが重力に引っ張られて落ちていくのを感じた。必死に表面に出さないようにしなかったら、奥さんは訝しんだかもしれない。


「もちろん、断ってもらってもいいわ。その時は悲しいけど捨てることにする。あれを見ていると、あの人を思い出してしまうから」


 どうにか僕は彼女の言葉に頷いて、一緒にガレージに向かった。真っ暗なガレージに明かりが灯ると、主人を失った空飛ぶ自転車には、がらんとしたガレージの中でうっすらと埃が積もっていた。あの日のまま、僕がネジを抜いた日のままの空間がそこに広がっている。


「あの日、起きたら彼、いなくなってたの。ほら、いつもみたいにあなたに連れられて帰ってきて、すぐにベットに潜り込んで……朝早くに目が覚めて、気分転換にそれに乗ってたこともあったじゃない。だから、すぐ帰ってくると思って、朝食の準備をして、それで……」

 奥さんが泣きださな

かったのは、もう涙は枯れたからなのかもしれない。その声を聞きながら、僕はいまにも弾けそうな心臓と、吹き出し続ける汗に怯えながら、室内を何気ないふりをして見回していて、ふとある物が目に入る。


「いつも好き勝手にやってたけど、まさか最後まで、私に何も言わずに行っちゃうなんてね……」


 彼女の言葉は途中から耳に入っていなかった。鳴動していた心臓は凍り付いて、汗はすっとひいてしまった。何気なく目をやった工具箱の中に、同じように埃の積もったネジ抜きがあったからだ。そして、同時に工具箱の棚の下に、あのサイズのネジが転がっている。


二本、転がっている。


「なあ、ここ埃被ってるけど、アイツがいなくなってから、来てなかったのかい」


「……ええ、そうよ。何も触ってないわ。どうして?」


 彼女が間をおいて言ったその言葉が、急に僕を現実に引き戻した。ぐしゃぐしゃに絡まっていた糸が、急にまっすぐ、一本に解けたように。歪んでいた景色が急に元に戻り、むしろ離れた場所から見つめているように感じた。僕は別に探偵じゃない。だから言葉の端々に見え隠れする何かを看破出来たりはしない。でも僕は知っている。マイクは、ネジ抜きをわざわざ戻したりなんかしないってことを。そして僕はあの夜、同じようにネジ抜きを適当に放っておいたことを。


「どうしたの、ジム。顔色悪いけれど」


 問題ないよ、と答えられたのは奇跡に近かった。結局僕は空飛ぶ自転車を後日引き取ることにして、マイクの家を出た。奥さんは僕がどこか狼狽えているのにも、何も言わずに見送ってくれた。いや、あえて何も言わなかったのかもしれない。全身に鉛を打ち込まれたような気分だった。何もかも、ありとあらゆるものが気持ち悪かった。周りの人間に、そして僕自身に吐き気が込み上げて来た。


 マイクはあの早朝、何を見ていたのだろうか。ひょっとしたら、遠くの山間から差し込む朝の光を見て、彼は泣いていたのかもしれない。僕が見た偽物とは違う、心から湧き出てきた涙が、彼の頬を伝い、そして泥に吸い込まれていったのだろうか。


 後日、僕の家には、あのマイクの自転車が置かれることになった。当然僕は乗ろうとも思わなかった。すぐさまスクラップに送りたいところだが、それをすることはどうしても出来なかった。早く錆びついて使えなくなってしまえばいいと思った。


外出する時も、その空飛ぶ自転車を見ないように出て行った。そして、なるべく地面を見ながら歩いた。空を見上げると、何かが飛んでいるのが目につきそうだったからだ。

その途中で、僕はマイクが落ちた田んぼのそばを通りかかった。あの事件以降、そこは使われることなく、泥が嫌な臭いを放ち、良く分からない雑草がぼうぼうと生えていた。


ふと、足元の溝で、何かが光った気がして目をやる。


ネジだ。


紛れも無く、あのネジだった。僕が抜いた方か、それとも彼女が抜いた方か。だがそんなことはどうでもよかった。それでもそのネジは、泥だらけになり、錆で赤くなり始めていても、そこにあった。僕は、急いでそれを取り出すと、服が汚れることも構わず、田んぼの中に入っていく。その真ん中まで来て、僕はネジを埋めた。泥の奥底まで、永遠に出てこないところまで沈んで行ってくれと願いながら。

当然土と水が混ざり合い、雑草まで絡みついた汚泥は元あった場所に戻ってきて、深く掘り下げる事が出来ない。ちくしょう、マイクの事は受け入れたじゃないか。そう悪態をつきながら、僕は何度も何度も泥をかき分け、すくい上げて泥を掘ろうとした。無駄だというのは分かっていても、僕は掘り続けた。どれだけ掘れば僕が安心できるのかは、僕にも良く分からなかった。


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空飛ぶ自転車 伊丹巧基 @itamikoki451

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