我を思う彼は無し

 男は正気を失ってしまったようだ。しきりにあたりを見回し、落ち着きなくうろついては、時に聞くに堪えない罵詈雑言を喚いた。男は首を掻き毟り、指を伝う血液を、まるで至上の芸術のように眺め、悦に入った。なんと気味が悪い。ぽたりと滴り、白を染め上げる赤を男は崇拝の対象としだしたのだ。困難に打ち勝つために自前の偶像を作りだす、それは典型的でもっとも単純な人間の行動であった。男はその遊びを満足げに続け、時折奇妙な笑い声とも泣き声ともつかない声をあげた。

しばらくして、彼は、はっと気が付いたように上を見上げた。

「もう沢山だ!君(もちろんここには男以外に人はいない)、私が何をしたというんだね。いったい何の恨みからこんなことをしているのだ。この気の違えた世界に私を閉じ込めて満足か。私は苦しんだ。苦痛の中で人はどうにかして幸福を見つけようとするというが、それが嘘だということが十二分に分かった。ここには全くの苦痛しかない。ほら、見なさい!この爪を照らす赤黒い塊を。ここには何もないのだよ、私を証明してくれるものが!私は私を確かめるために、自傷するしかない。あたりに転がるものにこの血は流れていない。血液という高尚な概念をもつことのないとは、哀れなやつらだ。しかし、私は違う!首筋をガリリと抉れば、肉との境には血が染み込み、この爪を汚す。赤い命の源が、この爪に流れ込むのだよ。いいかね、君。君の思惑通りに私は――――。」

始めの方の男は噛みつかんばかりの勢いであった。しかし徐々に勢いをなくし、終いには言葉を区切り黙り込んだ。そうして、何か決心めいた瞳を自分の足元に向けるのであった。足元の白には赤がにじみ、古いそれは黒く変色していた。男の指先から流れる鮮血は、ぽたりぽたりと新しい赤をつくっていた。

「……そうなのかもしれないよ。」

 男の口が沈黙を破ったのは、それから四時間以上も経ってからだった。一人の男がただ足元を見ながら潰したにしては、その時間は不気味なほどに長い。

「そうなのかもしれない。それ正しいのかもしれない。」

先ほどと打って変わって男は落ち着いていた。それでもその瞳の奥には依然として狂気が宿り続けていた。

「私は大きな思い違いをしていた!この世が一瞬にしておかしくなり、そこへ私は取り残されたのだと考えていた。……しかし、それは全くの見当違いだったようだ。」

そうして、彼は苦々しく顔を歪める。

「私以外すべてがおかしいなど、そんなことがあり得るのか。真実に気づいたのはこの疑問がきっかけだった。君(くどいようだが、ここにはこの男以外に生物がいないことを覚えておいてほしい)、よくよく考えてみたまえ。そんな大げさなことがあるかな。もし、この世界が現実だとすると、いろいろと不都合が出てくると思わないかい。

例えばだ、どうしてこれほどまでの変化の過程を私は覚えていないのか。この原因は大規模なものであると推測されるのに、どうしてそれを私は知らないのか。兵器然り、災害然りそれらは一目に犯人がわかる。しかし、辺りを見回してもそれらの痕跡はない。これは奇妙だ。

 ……しかし、その解がわかったよ。私もこれ以上、君に踊らされるほど馬鹿ではない。腰の抜けるほど簡単な結論がここにはあるのだ。そうだろう。笑わないでくれよ、私は真剣なのだからね。」

男は秘密を知った喜びを隠し切れない子供の様に興奮気味に、けれども眉をひそめた真剣な様子でひっそりと続きを語った。

「この世界の真実、それは、『ここが私の妄想である』ということなのだよ。どうだい。私にぴたりとあてられて、君はさぞ悔しがっているだろうね!そう怒らないで、今回は僕の勝ちだよ。きっとね、自分は精神を患っているのさ。この空間だって恐らくその精神病が作り出したんだろう。僕しかいないこの世界、概念のないこの世界……。うん、いかにも精神病患者が考えだしそうな設定だ。いまに僕は良くなるぞ。よく言うだろう、病を認識しだすことが第一歩だって。本当の僕にはお医者さんがつきっきりで看病してくれているさ。そして、良く調合された薬をつくってくれてるだろうね。僕の仕事はお医者さんに従うことだ。めざめた頃にはこんな世界は消え去っている。心配そうに見つめる家族に囲まれて、僕は微笑む。どんなに悪い夢でもお母さんの怒鳴り声には勝てないよって言ってうんだ。」

 言い終えた途端、それはごろりと寝転がった。そして、だんだんと形を失い、ざらざらとした白の中に溶けていった。

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彼思う、故に我あり @FUMI_SATSUKIME

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