(5)
「どういうことなの?!」
あの優しい女将が、般若のごとき形相で療養室に上がり込み、お仙の枕元にいた母親を横に突き飛ばし、寝ているお仙の胸倉をつかんで無理やり引き起こすと、噛み殺さんばかりの勢いで詰問した。
お仙は泣いた。泣くことを女将は許さなかった。泣きたいのはこっちだと、涙をこぼしながら眦を吊り上げて怒鳴り付けた。どうしてくれるのかと、あの子を返せと。よくも生き残ったものだと。散々に罵られた。
お仙には責任があった。何が何でも守らなければならなかった。自分の命が危ういと分かっていても、命を賭けて守らなければならなかった。
自分を信じてくれた人のために。自分に懐いてくれた男の子のために。
男の子は一体どこへ連れ去られてしまったのか。
何の目的で連れ去られてしまったのか。
何故その子でなければならなかったのか。
自分に恨みのあるものの犯行なのか。
はたまた、この女将に対して、嫌、お店に対して恨みを持ったものの犯行だったのか。
もしも、お店に対しての、女将に対しての犯行なのであれば、お仙はただの巻き込まれだ。
あんたたちのせいで死ぬところだった! と、怒鳴り付けたところで、誰も責めたりはしなかっただろう。少なくとも、今こうして罵られて罵倒されるいわれはないはずだった。
死んでも放すものかと言わんばかりに強く強く握り占められた胸元。母親や父親。伝弥や医師たちが引き剥がそうとすることに、真っ向から逆らう女将。
だとしても、お仙に女将を責めるつもりなど欠片もなかった。
男の子を預かっていたのは誰でもない自分なのだ。
《神隠し》があることは知っていた。気を付けなければならないことは知っていた。
殴って気絶させられた間に連れ去られるという記述はなかったものの、油断などしてはいけなかったのだ。勿論、意識を子供から離したわけではないし、手はしっかりと握っていた。おかしな人が近づきそうだと思えば立ち止まり、背中を向けてさりげなく庇ったりしていた。
それでも、白昼堂々、人目もある中で突然襲われるとは思いもしなかった。
後日、役人が来て事情を訊ねられても、何も見ていなかったお仙に答える術もなく。
自分が長屋にいない間も、女将による嫌がらせがあったことも知らなかったお仙は、療養所を後にするや長屋を引っ越すことになったとしても、正直どうでも良かった。
自分は責められるだけのことをしたのだ。最愛の息子を奪われてしまったのだ。
しかも、見ず知らずと言っても過言ではない娘に預けている間に。
おめおめと生き残ってしまった。
悲しみだけが溢れ出した。
年端も行かないあんなにも可愛い子が、いきなり親元から引き離されて、見ず知らずの人間たちに取り囲まれているかと思うと、心の臓が痛くなった。
どんなに心細い思いをしているのだろうか。
どんなに恐ろしい思いをしているだろうか。
きっと泣いている。私や母親を求めて泣いている。
叩かれてはいないだろうか。罵られてはいないだろうか。
ご飯はちゃんと与えられているだろうか? 着るものは? お風呂は?
一体どこに連れ去られたのか。
周りはお仙のことを心配してくれた。だが、そんな価値はないと思っていた。
心配される必要はない。
ご飯を進められても食べる気にもならなかった。
もしもあの男の子がご飯も与えられず、布団も与えられず、辛い思いをしていたとしたら、守り切れなかった自分が腹を満たすことは出来ない。安眠を享受することも出来ない。幸せになどなる資格もない。
でも、死ぬことも出来なかった。
飲まず食わずでいれば死ねるかとも思ったが、思ったより丈夫だった。
眠る気がなくとも気を失うことを止めることは出来ない。
夢うつつの中で食事を取らせられることもあった。
放っておいて欲しかった。
だが、自分以上に傷ついているらしい両親を置いて行くことも出来なかった。
今ここで自分が死んでしまえば、きっと両親はずっとその気持ちを引きずって生きることになる。もしも後を追われてしまえばお仙の望むところではない。
死にたいが死ねない。
死ねないが生きている意味が見いだせない。
あらゆるものに対して罪悪感が芽生えていた。
そんな中で縁談はまだ白紙に戻っていないと言われても、嬉しくもなんともなかった。
あの子が生きて無事に戻って来ない限り、自分の人生もここで終わりだと決めていた。
だから――
「《心移し》完了」
「え?」
唐突に遮られた淡々とした言葉に、お仙は目が覚めるような驚きに見舞われた。
それまで、自分で語っていたことすら自覚がなかった。何を語ったのかもろくに覚えていない。
それでも、それまで沈んでいた闇から引きずり上げられたことだけはハッキリと解った。
色の失せた世界に色が付いていた。世界が明るかった。胸を圧迫していたものが無くなり、体も心も異様に軽かった。
生きている実感があった。生きる気力が湧いていた。恐ろしく空腹だった。
「な、にが?」
「お仙?」
「え? 伝弥兄、なんで?」
「お仙!」
「うわっ」
それまでとまるで違う、はっきりと認識して意志の籠った声を聴いて、伝弥は思わずと言った様子で抱き着いて。
思わず、「おばさん! おばさん!」と、歓喜を滲ませて外へ待機させているお仙の母親を呼びつければ、何が起きたのかと飛び込んで来た母親と入れ違いに、すずめ丸に支えられて佐倉が出て行く姿を気にする者はいなかった。
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