(8)


「また読んでるのかよ、お久」

「当り前じゃない、お兄ちゃん」


 お久は小さな冊子をパタリと閉じて得意げに答えた。

 太吉の遣いに同行し、太吉が出てくるまでの間の愛読書。

 戯作者佐倉の書いた連作。最新作。巻の二十四。《心喰い》。

 自分の話が元になった物語。

 内容は同じようで少し違って。でも、同じで。


 佐倉に相談してから早一月半。今か今かと店頭に並ぶのを待ちに待ち。見つけた瞬間借りていた。

 手習いよろしく書き写し、それから何度も何度も繰り返し読んでいた。

 何度繰り返し読んでも飽きなかった。楽しかった。心が躍った。


「よくもまぁ、飽きねぇもんだな」

「いいじゃん。お兄ちゃんもちょっとは出てるんだよ」

「本当にちょっとだろうが。しかも空回り」

「外れてないじゃん」

「お前なぁ」


 と、他愛ない会話を繰り広げながら川沿いを歩いていると、前方に人だかり。


「なんだろ? あれ」

「人死にでも出たか?」

「ええ~」


 と、嬉々とする太吉とは対照的に嫌な顔をするお久だったが、


「ちょっと見物していこうぜ」


 嫌がるお久の意見など無視し、人だかりの中へ突入して行く兄を見て、お久はため息一つついて後に続いた。


 そして見た。川面に浮かぶ一人の男を。

 見間違いようがなかった。

 顔形が変わるほどに殴られて、簀巻きにされているその男を。

 そして聞いた。


 ――ああ。やっぱりこうなったか。

 ――死にたくなかったら手を出すなって言ってたのに……。

 ――絶対にその娘さんにだけは手は出さないって言っていたのに……。


 こそこそと囁く声。声。声。

 それを聞いて、お久は嗤った。薄く薄く。冷たく冷たく。

 遠くない過去の話。

 一度は惚れて憧れて。共に暮らすことを夢見て望んだ男の死。

 悲しくはなかった。まったくと言っていいほど悲しくはなかった。

 その代わりのように、男の名前を叫んで河原に駆け降りる娘の姿を見た。

 かつての自分。何も知らない自分。バカな自分。

 同情も何も浮かばない。

 ただただお久は見下ろして嗤った。


 ――恐怖心は自身を守るための本能。それが喰われて無くなれば、奴らは勝手に死を招く。


 作中で書かれた《心喰い》の言葉。

 恐怖心があれば。死を恐れる心があれば、決して越えない一線。誰もが持っている一線。

 だが、恐怖心がなければ抑制は効かない。結果――


(同じになった)


 戯作と同じく、防衛本能を失った男は自ら死を招き入れた。


(《心喰い》が現れてくれたおかげで、私と同じ思いをする子が減ったのね)


 それだけでお久は満足だった。

 その耳に、「お久……お前……」とどこか怯えの籠った呼びかけが。

 見れば目の前で太吉が顔を引きつらせて立っていた。


「どうしたの? お兄ちゃん?」


 いったい何に怯えているのか分からずに、一度背後を振り返って問い掛ける。

 対して太吉は何かを言いかけはするものの、最終的には口を閉じ、


「い、いいや。何でもない。行こう」

「うん。そうしよ。気味悪いもん」


 口を尖らせて同意するお久に対し、太吉は引きつった笑みを浮かべて「ああ」と一つ頷いたが、お久は全く理解できないとばかりに頭を傾げ、


「ま、いっか」


 すぐさま気持ちを切り替え、胸に大事に戯作を抱いて太吉の後を追いかけた。

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