間章
(1)
熱かった。頭も体も熱かった。
燃えているように熱かった。
呼吸が速く浅くままならない。
喉が渇いて仕方がなかった。
水が飲みたかった。体を冷やしたかった。死にたくなどなかった。
怖かった。たった一人、誰に看取られることもなく死んで行くことが怖かった。
自分は何もしていない。
自分は何も残していない。
自分がこの世にいた証を何一つ残せていない。
誰もいない暗闇の中、静かに忍び寄る死の気配が何よりも怖ろしくて仕方がなかった。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。
死んだらそれまでとは思っても、死ぬ瞬間が、死に捕らわれる瞬間が何よりも怖ろしかった。
助けて欲しいと手を伸ばす。
誰もいない空間に、助けて欲しいと手を伸ばす。
視界は霞がかかっていた。
いや、明かり一つない暗闇の中で霞が掛かるも何もあったものではない。
何も見えなかった。
耳鳴りだけがしていた。
それでも佐倉は這っていた。
這ってでも逃れたかった。
這ったところで救い主がいないことは百も承知。
家族はいない。訪ねて来る友人もいない。
自分は一人。たった一人。
誰にも看取られることなく、たった一人でこの世を去る。
存在など初めからなかったかのように暗闇に呑まれて消え去ってしまう。
嫌だった。
怖気が走る。
炙られているかのごとく熱いのに、体の芯は冷水に身を浸しているかのように冷たかった。
寒かった。震えが一切止まらない。
声が出なかった。手も喉も震えていた。力が満足に入らなかった。
死がすぐ傍までやって来ていた。
すぐ傍に。本当にすぐ傍に。
気配があった。明らかな気配が。
必死に死から逃れようと見苦しく足掻く様を嘲笑う気配が。
『生きたいか?』
暗がりの中、声なき声が訊ねて来たような気がした。
『死にたくない』
佐倉は答えた。声にならない言葉で、涙を流しながら。
『だったら、何を差し出す?』
と、声は重ねて問い掛けて来た。
『命以外なら何でも』
佐倉は叫ぶように答えていた。
実際は呻くだけで言葉にすらなっていなかったが、
『だったら、お前のその心をよこせ。死への恐怖に染まり切ったその心を』
声は佐倉の答えをしっかりと聞いていた。
見えぬ手が差し出された瞬間だった。
佐倉は縋った。誰も差し伸べてなどくれない救いの手だとばかりに。幼子が母の手に縋るかのように。二度と離されてたまるかと言わんばかりにしっかりと。
そして佐倉は――
◆◇◆◇◆
「佐倉! しっかりしろ! 佐倉!」
心配を滲ませた声に呼び起され、佐倉は目覚めた。
「…………すずめ丸?」
雀の羽のごとき髪色の少年の顔が、泣き顔にも見えるほっとした表情を浮かべて見下ろしてくるのを見る。
「あ~良かった。帰ってきたら手を伸ばして呻いてんだもん。何事かと思ったぜ」
それで自分の手は今、しっかりとすずめ丸に握られているのかと佐倉は合点がいった。
「すまない。久方ぶりに夢を見た」
紡ぐ言葉はいつものように淡々としてはいたが、いつもより幾分弱弱しい響き。
「悪い夢だったのか?」
訊ねながらすずめ丸は、佐倉の額から落ちた手ぬぐいを拾い上げ、盥の水に浸して硬く絞ると、額や首元に浮いた汗を拭いてやった。その手が、
「――君と初めて出会った時の夢だ」
止まった。
「おそらく、あの怒りの感情を取り込んだのがいけなかったのだろう」
深く一つ息をついて佐倉は告げる。
「あの取り込んだ怒りの焔の熱が、あの時のことを思い出させたんだろう」
身を焦がすほどの熱。
否が応にも思い出された死の恐怖。
お陰で佐倉は、お赤の心を移した後、高熱を出して倒れていた。
故に見た懐かしい夢。
恐怖を抱く心が喰われた今となっては、あくまで『思い出した』に過ぎない借り物の感情。
借り物の感情は、決して自分のものになることはない。どこまで行っても他人事。決して混ざり合わないもの。
だとしても、
「伸ばした手を掴んでくれるものがいるというのは、幸せなことだな」
熱を出して寝込むこと三日目。
ほぼ寝たきりの佐倉にとって、紛れもない事実。
「世話を焼かせてすまないな」
「世話ってほどのことなんてしてねぇよ」
ぶっきら棒に答え、バシャバシャと乱暴に盥で手ぬぐいを洗うすずめ丸。
その姿をじっと佐倉が見ていると、
「なんだよ」
どこか警戒心を覗かせる小動物のように威嚇してくる。
「いや。しみじみと噛み締めていた」
「何を」
「君が今いることだ」
「は?」
「君には解らないだろうが、人というものは弱ったときにこそ誰か傍にいて欲しいと思うものなのだ」
「……あんたも、そうなのか」
「そうだな。心細くもあるし、寂しくもある」
「?!」
「もちろん。こういう時の人の感情を表すとしたらそういう風に表現できるというだけで、実際に私が今そういう感情を抱いているわけではない。が、空虚な心が更に寒々しく感じることがこういう時、稀にある。実際、君と出会ったあの時は、不安と孤独に苛まれて気が触れかけていたからな。声も出なければ助けを求めに行くことも出来ない。誰も近寄らないし様子を見に来てくれることもない。あの当時は流行り病で多くの人間が命を落としたし、この長屋でも命を落とした幼子や年寄りがいた。故に、赤の他人の顔が見えないとしても気にする余裕などなかった」
「……」
「私はこのまま一人で死んで行くのかと思った。何一つ、この世にいたという証を残せずに夢も果たせず消えていくのだと。それはなかなかに堪えがたい恐怖だった。だからこそ、君の存在は私にとっての救いだった」
「は?」
「今もそうだ」
「な、に、言ってんだ?」
「こうやって、意識を取り戻したときに誰かがいるということは、それだけで救われるものなのだ。たとえ心が奪われ感情を抱くことが出来なくなったとしても、そういう感覚になるものだということは覚えている。だからな。あの時も今も、私の元にいてくれてありが――」
「っかじゃねえの!」
「ぐっ」
力いっぱい満足に絞られていない手ぬぐいが佐倉の顔面に叩きつけられる。
それを億劫ながらに脇に寄せ、
「さすがにこれは、死ぬ可能性があるので止めてもらいたいんだが?」
胸いっぱいに空気を取り込みながら佐倉が不満を口にすれば、
「あんたが気持ちの悪いことを言うからだろ!」
顔を真っ赤に染めて、引っ手繰るように手ぬぐいを奪われた上で怒鳴られた。
「そもそも! あの時はあんたの心を喰うために手を取っただけだし! 今手を取ったのは――」
「取ったのは?」
「取ったのは――」
「私にはもう差し出す心がないのに、君の理屈だともう手を取る必要なんてないはずだが?」
「う、うるせえよ! 知らねぇよ! 気が付いたら掴んでたんだよ!」
「そうか」
「笑うな!」
「笑ってなどいない」
「嘘だ!」
「嘘なものか。どうやって私が笑うと言うんだ」
「そ、れは、そうだけど!」
淡々とあっさりと返されてしどろもどろになるすずめ丸。
その様子を見て、佐倉はしみじみと思わずにはいられない。
「君は面白いな」
「面白くない! お前が変なだけだ!」
「そうかもしれないな」
「そうかもじゃなくて変なんだよ! 心を奪われておきながら、奪った相手を恨むでもなく憎むでもなく」
「そもそもそういう感情を抱く心を喰われたからな」
「それでも! 普通は恐れるものだろ!」
「そうなのか?」
「そうじゃないのか?」
「生憎、心を喰われたのは君が初めてだったからな。他に喰われた者たちはどうなのだ?」
「知らねぇよ」
「知らないのか」
「だって、喰ったら後は用済みだからな。さっさとそいつの元から移動してたし……」
「ふむ」
「なんだよ、ふむ。って」
「いや、だとしたら、何故君は私の元へ留まってくれているのかと思ってな」
「それは――」
「それは?」
「解んねぇよ」
ぶすっと不満全開に頬を膨らませてそっぽを向かれる。
それを見て、佐倉は思う。面白いと。楽しいと。
心からそう思っているのかと誰かに訊ねられれば、断言など出来はしない。
だが、もしも自分が戯作の登場人物だとしたら。その登場人物はこんな時、そう思うだろうと佐倉は思っていた。
人に宿る負の感情。恐怖や恐れや怒りや妬み。嫉みに憎しみ。その凝縮した感情に染まった心が好物だと言って喰い漁って来た《心喰い》と言う名の妖。
本来は人の姿などない目に見えぬはずのものだったとすずめ丸は言っていた。
だが、何の因果か、佐倉の心を喰らった後に人の身を得た。
確かに初めはすずめ丸も戸惑っている様子はあった。何が起きたのか理解できていない様子も見ていれば分かった。だが、それを押し隠す素振りがあったから、佐倉はあえて何も言わなかった。
すずめ丸が自分の命を救ってくれた。
ただそれだけで十分なことだった。
その後、まさか居つかれることになるとは思ってもみなかったが、すずめ丸は佐倉の傍から離れなかった。
不思議なものだと佐倉は思った。自分だけに見えている現象なのかとも初めは思ったが、すずめ丸は長屋のほかの住人たちにもきちんと見えていた。
あれ? どこの子だい? え? 佐倉さんの隠し子かい?
と、しばらく話のネタにさえなった。
それでもすずめ丸は傍を離れずに共に過ごした。
周りから言われたから。と言うわけではないが、佐倉はすずめ丸のことが自分の子供だったらと時々考えるようになっていた。
親から見た子供とはどういう存在なのかと思いを巡らせ眺めていた。
だが、相手は妖だった。人の感情に飢えるものだった。
人の食い物で腹は満たせるも、満足できるかと言えばそうではなく時々ふらりといなくなっては戻ってくると、とてつもなくご機嫌な時があり、本人は隠しているが誰かの心を喰らって来たのだということは佐倉にも解っていた。
故に不思議だった。何故戻って来るのかと。
ただ、しつこくそのことを聞いて、本当に帰って来てくれなくなったらと思うと、きっと淋しいのだろうと佐倉は想像していた。
心を喰われてから淋しいと思うこともなくなったが、ふらりといなくなった程度で狭い長屋の部屋が広く感じて落ち着かなくなるのだから、きっと光が消え失せたような詰まらなさが溢れかえり、佐倉は生きている意味を見出せなくなっているかもしれなかった。
手放したくないと、本能的に思っている自分に気が付いたのはその時で。
一人暮らしは自由気ままで楽なものと思っていた自分は、思っていた以上に孤独を受け入れられていなかったのだと思い知った。
だからこそ、すずめ丸が何であろうと共にいてくれることに安堵していた。
人ならざる妖だとしても。人の形をして、人のように振舞って。自分にはない喜怒哀楽を自分の代わりに沢山表現するすずめ丸。
すずめ丸を主人公に戯作を書いていると知れば、一体どんな顔を見せてくれるのかと考えると、共に作中に出て来る《佐倉》は楽しみで仕方なかった。
自身の感情は失われているが、登場人物としての《佐倉》は喜怒哀楽を失ってはいない。
素直とは程遠い《すずめ丸》と、その《すずめ丸》に振り回される《佐倉》の『物』にまつわる人情噺。
だからこそ、すずめ丸の反応が面白いと佐倉は思っていた。
一切の感情を表せなくなった自分より、ずっと人間らしいすずめ丸のことを見ているのは、何よりも佐倉にとって楽しいことのように思えていた。
素直ではなく、見栄っ張りで意地っ張りなすずめ丸。理由は何であれ、
「いつも共にいてくれてありがとう」
「だから! オレはオレの事情で居座ってるだけで礼を言われる筋合いはないってんだ!」
「っ」
ベシリと、今度は固めに絞られた手ぬぐいが顔面に叩きつけられる。
正直、水浸しの時より痛みが強かった。
「痛いんだがな。すずめ丸。もう少し優しくしてくれるとありがたい」
「知るか! そんだけしゃべられるなら自分でやれ!」
完全に機嫌を損ねたのか、背中越しに言い捨てられる。
それでも、仕方がないとばかりに体を起こすと、
「なんだよ。なんで起きてんだよ」
不機嫌ながらも問い掛けて来て、
「いや、少し厠へ行きたくて」
と、人である以上どうしようもない事情を口にすれば、
「面倒くせぇなぁ」
と言いつつも肩を貸して連れて行ってくれるすずめ丸が、やはり傍にいてくれることはありがたいと思わずにはいられなかった。
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