第三章 紅倉の奮闘その一
「ここで安達くんが……」
海に花束を投げ入れ、手を合わせて重野は言った。
埠頭の先に立つ三人は黄色のヘルメットをかぶり、車のフロントガラスの内にちゃんと黄色い入場許可証が置かれている。
三人の背後にはまだ作業は始まっていないが、コンテナを積んだ大きな商船が横付けされている。船体にロシア語の文字が読める。読めると言っても芙蓉も紅倉も意味も読み方も知らない。紅倉は自分でロシアとのハーフを名乗っているが、ロシア語はまるっきり分からないようだ。
「で、」
と重野は不満そうに尋ねた。
「どうして僕がここに来なけりゃならないんです?」
紅倉はポカリと重野の頭を殴った。
「イッテー……くないけど」
殴った紅倉の方が手をさすっている。ヘルメットをかぶっているのに当たり前だ。
「あんたのせいよ」
と紅倉は恨めしそうに言った。
「あんたがわたしに安達くんのことを教えたんでしょうが? おかげでこっちは安達くんの両親に頼られて、すっごく迷惑してるのよ!」
「俺そんなこと一言も言ってないよ?」
「霊は口ほどにものを言う、のよ!」
紅倉はぷんぷん怒って、重野は理不尽な口撃に途方に暮れている。
芙蓉はおかしくて笑った。紅倉が若い男性にこれだけ近い距離でなれなれしくするのは珍しい。というか初めてか? どうやら重野少年は霊に好かれるたちらしい。
「てことはあー、安達くんはまだ成仏してなくて、この海の中をさまよっているってこと?」
前方の空に傾いだ日が眩しく反射する海面を遠くまで見つめて重野は言った。眩しさに細めた目に、悲しそうな陰りが滲んだ。そういうところが霊を招いてしまうのだろう。
「それで、俺が何か役に立つんですか?」
「役に立ってもらうわよ」
紅倉は嬉しそうに言って、そのまま重野を海に向かって立たせておいて、左手をヘルメットの後頭部に載せ、目を、赤くさせた。
「美貴ちゃん、メモ」
「はい」
芙蓉はメモ帳をさっと取り出し、ボールペンを構えた。
「……井上孝夫くん、三原……くん、岩田元喜くん、林多美さん……」
重野がびっくりして声を上げた。
「えっ! どうして俺の昔のクラスメートの名前を?!」
「いいから、あんたは海見てなさい」
重野を叱って紅倉は重野の頭の中……霊体にアクセスして昔の記憶を呼び起こしていった。
「杉浦有美子さん」
「わっ!!」
重野は声を上げてまた紅倉に叩かれた。
「だってさ〜〜」
「まだ黙ってなさい」
と言いながら紅倉の顔も笑っている。
「小林三吾くん、竹田ひろ子さん……」
十名ほど名前を挙げて、
「……と、こんなところ?」
紅倉は重野の頭から手を離した。もういいかなーと重野が振り返って訊く。
「すっげーなあ……。懐かしい……っていうか、俺もすっかり忘れてる名前があったぞ? どうやってんの?」
「記憶はしまわれているだけ。あなたも死ぬときに走馬燈のように全部思い出すわよ」
「うえ〜〜。やな例え〜〜」
「うるさい! さて、と。今度は思い出してちょうだい、今言った人たち、小学二年生の時のクラスメートたちでしょ? つまり、安達くんのクラスメートでもあった。みんなに集まってもらって、安達くんとの楽しい思い出を語り合ってもらいましょう」
「ええ〜〜!? そんな大昔のこと覚えてねえよ。小学二年だろう? 安達くんのことだって、……死んじゃったから思い出しただけで……、特に仲がよかったわけでもない?……し……。みんなだってそうじゃないかな? それに死んだのは……小六の時で、その頃の仲のよかった友達の方が良くない?」
「あなた、安達くんの顔覚えてる?」
「えーーと……、まあ、なんとなーく……」
「どんな顔?」
「どんなって……、縦長で、顎が平らで、天パで、色が白くて、鼻がぺちゃんこで、目が一重で真ん中に寄ってて、眉が薄くって……」
「よく覚えてるじゃない。で、表情は? 笑ってる?」
「笑って……るなあ……」
「そう」
紅倉は優しい顔でうなずいた。
「小六の安達くんは、もう、笑ってないのよ」
「笑ってない……」
その顔を想像して、重野はじわっと涙目になった。芙蓉もこの少年に好感を持った。
「きっと、その頃にはもう会社も倒産して、お父さんもお母さんも悩んでいて、家庭はいつも暗くて、やがて、学校も行かず家族で逃げ回る生活になっていったのね……」
「そうなんだ……」
重野はまた悲しい目で海を見つめた。
「お父さんお母さんがあなたを通じてわたしに助けを求めてきたのも、安達くんの心がその頃が一番楽しかったって思っているからなんでしょうね。
そうだ、今現在の安達くんの状態を説明しておきましょうか。
安達くんは海流に乗ってこのあたりの海の底をグルグル回ってます。
車と共に遺体が引き揚げられて、お父さんとお母さんは早く成仏したいと願っています。しかし安達くんの思いが重りとなって海底から浮上できずにいます。
一家心中はお父さんとお母さんが話し合って決めました。安達くんは、薄々感づいていたようですね。お母さんは当初反対していましたが、逃亡生活に疲れ、明日の展望が開けず、けっきょくお父さんに賛同しました。しかし、心の中ではやはり反対で、特に子供たち二人を道連れにするのはかなり抵抗がありました。それはお父さんも同じなのですが、子供たちにすまないと思いつつ、自分が社長で事業をしていた人ですから、実際にこれからどう生きていったらいいのか考えたとき、どうしても心がくじけてしまうのですね。妻と子供たちにすまないすまないと思いつつ、自分が家族のために何とかしなければと思いつつ、何ともならずに思い詰め、どうしても暗い袋小路に心が追いつめられていったのです。すまないと思いつつ、最後にはもう死ぬことしか考えられなくなっていました。
逃亡生活に出る前から、家の中はいつも暗い雰囲気でした。家にいるお父さんはいつも暗い顔で思い悩み、お母さんはいつも神経の張りつめた顔をして、何も知らない幼い弟はお父さんが家にいるのを喜んで遊んでとねだりましたが、お父さんはごめんなと謝るばかり。弟はいつもお兄ちゃんが遊んでやっていました。無邪気に笑う弟と遊んでやりながら、六年生の安達くんには家の事情が分かっていました。
小学六年生ですか……。まだ子供で、でも大人の知恵も知識もついてきている年頃ですね? でも、子供です。頭で分かっていても、現実的には無力です。早い子では反抗期にもさしかかるでしょうか? 父親を恨みはしていなかったでしょう。優しい良い父親でしたから。けれどその無能は、腹が立った。そんな父親をなじる母親も、好きだったけれど、腹が立った。何より、大好きな両親をこんなに追いつめた社会に腹が立った。恨んで、憎んで、悲しくなった。何もできない自分が、一番、腹立たしかった」
重野はひどく落ち込んだ顔で言った。
「知らなかった、まったく……」
「分かりませんとも、誰にも。わたしだって、彼らが死んでいるから分かるだけです。
そんな状態で、死んだとき、安達くんの心は、とても、重かった。
彼の心は、すべて、社会の全てに、未来の全てに、世界の全てに、人間の全てに、絶望しきっています。暗く冷たい海の底に沈み、流れながら、そこから外の、人の世界へ、出たいとは、これっぽっちも思っていません。暗く冷たい何もない世界が、絶望してすさみきった彼の心には安らぎの場なのです。ずいぶん後ろ向きで、寂しい、悲しい安らぎですけれどね。
他の家族三人も、安達くんにつき合って一緒にいます。お兄ちゃんが大好きだった弟は何も知らずに、自分が死んでいるんだということも分からず、ただ家族みんな一緒にいることを嬉しがっています。お父さんお母さんは成仏して楽になりたいと思いつつ、子供たちに申し訳ないと思い、特にお兄ちゃんに遠慮して、どうしても自分たちだけ海の上へ上がってくることが出来ず、苦しんでいます。
安達くんの絶望した心を、前向きな明るい感情に満たしてやらなければ、彼も、彼の家族も、海の底から救い出すことは出来ません」
分かった?と小首を傾げられて、重野はうなずいた。うなずいたけれども……
「あのー、それで俺たち昔のクラスメートに安達くんの楽しい思い出話をさせて、楽しい気分を思い出させようってことですよねえ?」
「そうよ?」
「うーーーーん……」
重野は腕を組んで考えた。
「だっからなーー、すっごく悪いんだけど、安達くんとの楽しい思い出って、特にないんだけどなーー」
「だーいじょーぶ!」
紅倉が自信満々にエッヘンと威張って言った。
「あなたの記憶を思い出してやったでしょう? みんなで集まれば、霊波を同調させて、安達くんの思い出を思い出させるようコントロールしてやるわ」
どーお?と紅倉は自信満々である。
「なんか危ないマインドコントロールみたいだな。それでいいんかい? それに……この場所がいいんでしょ? こんな所にみんな突っ立って、安達くんとの楽しい思い出を語り合うって、なんか……、ものすごーーく、白々しい気がしてならないんだけどなあー……」
「それもだいじょうぶ!」
紅倉はまだ自信満々である。
「あなたのお友達の岩田くん。お金持ちでしょう?」
「元、友達だけどな。うん……、たしか医者で、大きい家に住んでたとは思うけど……」
「彼の豪華クルーザーでみんなを招待してクルージングしましょう」
「えっ! あいつんち、そんな物持ってんの!?」
「ということにしておくのよ。船はレンタルして、岩田くんに口裏合わせてもらって、あんたが幹事で適当な理由で同窓会開いて、さっき言った安達くんと思い出のあるお友達を招くのよ」
「で、ここまでクルージングしてきて、実はここに安達くんの霊がさまよっていて……って言うの?」
「よけいなことは言わなくていいの。ちゃーんと、それとなくみんなが安達くんのことを思い出すようにし向けるから」
「マインドコントロールで?」
「人聞きの悪い言い方するんじゃないの!」
「やることはいっしょだけどなあ……」
重野はまた海を眺める。さっきとはちょっと違った見方で。
「やっぱ無理があると思うんだけどなあ……」
「あんたもいい加減しつこいわねえ。さっさと覚悟決めて協力なさい!」
「でもさー」
重野は助けを求めるように芙蓉を見て、訊いた。
「あなたは、どう思います?」
「センセ」
芙蓉も重野と同じような目で紅倉を見て言った。経験的に叱られることの分かっている紅倉は「なによお〜?」と警戒しながら訊いた。芙蓉はため息をつく。
「この冬空の下、カジキマグロと格闘でもあるまいし、いったい誰が好きこのんでこんな荒れ海をクルージングして喜びます?」
「へ?」
紅倉は首を傾げて、じいーーーーーっと、海を見た。ぼんやりと、滲んだ水墨画の景色にしか見えない。指さして、
「駄目?」
と訊いた。
「「駄目です」」
芙蓉と重野はハモってダメ出しした。
芙蓉は内心ため息をつく。紅倉は暑がりで寒がりだ。でも、度を越すと、何も感じなくなってしまう。非常に危険な体なのだ。
芙蓉は自分のコートの前を開いて紅倉を包み込んだ。
「先生。暖かいですか?」
紅倉は、ブルッと震えた。
「…………寒い…………」
同窓会クルージングパーティー案は、却下である。
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