第1話 暴れるポニー
赴任初日。和泉綾芽は緊張していた。
副担任を受け持つ2年C組の教室に向かいながら、この学校は目に映るすべてがちょっと仰々しすぎる、と思う。
小等部、中等部、高等部、大学、そして寄宿舎までを包括するその広大過ぎる敷地。
端正に刈り込まれた芝生と植え込みの緑が目に眩しい。
石造りの噴水、その背後にそびえるのは尖り屋根を有した真っ白なチャペル。
レンガ屋根に白璧の校舎には、年季を感じさせるくすんだゴールドの格子窓がはまっていた。
どこかヨーロッパの町並みを彷彿させる学院内を、紺のブレザーにグレーのプリーツスカート、えんじのリボンタイに紺のハイソックスをはいた女生徒たちが闊歩している。
しかも挨拶は「ごきげんよう」ときた。
この浮世離れしたお嬢様学校として名高い西華女子学院で、教師として上手くやっていけるのか。不安で綾芽の表情は強ばる。
それでなくとも、二学期が始まって3週間という中途半端な時期。
前任の教師は体調不良で辞めたと聞くが、こんな急に副担任が変わったのでは生徒も不安だろう。
先程、院長室で学院長の四ノ宮円香と対面した際に言われた言葉もプレッシャーだった。
四ノ宮には人を威圧するようなオーラがあった。
60を過ぎているはずだが、ほっそりとした体型に肌のハリもあり、白髪も目立たず若々しい。
なのに、対面すると思わず萎縮するような威厳があった。
口調は穏やかだが、その眼光は思慮深く鋭く、嘘をついてもすぐに見抜かれるだろうと思わせる。
「うちは、これまで先生がいらした公立高校と比べると何かと特殊ですし、苦労も多いかもしれません」
「はいっ」
「その分教師として学べることも多いはずです。まだ20代であるなら、なおさら」
「はいっ」
綾芽には、愚直に返事をする以外の選択肢はない。
「……もう少し、顔を上げて、堂々としなさいな」
「は、はいっ」
慌てて背筋を伸ばし、前を向く。
その様子を見ていた四ノ宮はクスリと笑った。
「真面目で可愛らしくて、あなたのような人は、きっと生徒に好かれるでしょうね」
四ノ宮の笑顔に、綾芽の緊張が少しほぐれる。
「でもね」
四ノ宮が真顔に戻り、綾芽は慌てて居住まいを正す。
「生徒に足元を見られないよう、くれぐれも当校の教師であるという自覚を持つこと」
「はい」
「生徒たちは毛並みも良く能力も高い、無限の可能性を秘めたポニーです」
ポニーという単語に、紗耶香は純真で元気いっぱいに牧場を駆け回る制服姿の女の子たちを思い浮かべる。
若葉。そんな言葉がぴったりだ。
「高等部の生徒たちの中には、もう大人と変わらないほど精神的に成熟している子もいます。けれど、人生の経験値はあくまで子供です。なにかあればあっというまに判断力を失う程度の年数しか彼女たちは生きてきていません。そのアンバランスさは、時に思いもつかないトラブルを起こします。ポニーでも、暴走し、柵を蹴り倒し、いなないて暴れまわれば手に負えません」
「……はい」
ここに通うようなお嬢様たちが、自分を見失い、暴れるような状況を綾芽は上手く想像することができない。
暴力沙汰を起こすことなどあるだろうか。それとも、他の何か……?
と、ふいに強く手を握られる。四ノ宮だ。その手は思いがけず熱っぽかった。
驚いている綾芽を気にもとめず、四ノ宮は続けた。
「そんなとき、手綱を握るのは他の誰でもない、教師のあなたですよ」
ぐっと綾芽の顔を覗き込み、有無を言わさぬ強さで四ノ宮は告げたのだった。
その後、何か困りごとがあれば相談して下さい、とフォローはされたものの、今後の業務に対して相当な圧をかけられたことに変わりはなかった。
さて。早速困りごとだ……。
綾芽は足を止めた。高等部の校舎がどこだったか分からなくなってしまった。
そろそろ始業ということもあり、生徒たちの姿もまばらになる。
そのうちの一人をつかまえ、道を尋ねる。
小柄で丸顔の小動物のようなその生徒は、にっこりと笑むと
「あちらです、チャペルの裏側のほうですね」
と指をさした。
「ありがとう、助かったわ」
といえば
「どういたしまして。お気をつけて」
とお辞儀をかえす。その礼儀正しさに綾芽は軽く感動を覚えていた。
しかし。
「こっち? 本当に…?」
いつの間にか生徒たちのざわめきも人影もなくなっている。
綾芽がたどり着いたのは高等部の校舎ではない。チャペルの裏をさらに奥まで行くと、木々の間に見えてくるのはガラス張りの温室だ。
温室は、ガラス張りとはいえ、中にはいくつもの棚が備えられ、目線以上の高さにも鉢植えや植物が並べられている。角度によっては、中に人がいたとしても表からその姿を見ることはできないだろう。
間口は6、7メートルはあるだろうか。奥行きも10メートル近く、高さも3メートルはある。
小さな植物園といっても過言ではない。
学校に設置されるものとしては立派な部類だろう温室を、しげしげと眺めながら引き返そうとしたその時。
「最後に、足なめさせてあげる」
思わず耳を疑うセリフが飛び込んできた。
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