調べはアマリリス

犬堂七理

プロローグ アマリリスの矢

ベッドの中で寝たふりをした私は、常夜灯の薄闇の中、細く目を開けて壁の時計が刻む針の音に耳を澄ませていた。

カチ、カチ、カチ……。

刻一刻と近づくその時に胸が高鳴り、ついそわそわと寝返りを打ってしまう。


カチリと重なる針の音とほぼ同時に、ボォンと時計が空気を震わせる。


1回、2回、3回……。


時計の音を12回数えた私は逸る気持ちを抑え、気配を殺すように息をひそめて体を起こす。

隣のベッドの、級友の健やかな寝顔と寝息と寝顔を確かめ、私はそっと部屋を抜け出した。


寮母の監視の目の届かない秘密の裏道から寄宿舎を抜け出し、広大なこの学園の敷地の片隅に向かい走っていく。

雨上がりの湿気を含んだ9月の空気が肌を撫でていく。

待っているはずだ。彼女はもうきっとそこに待っている……。


小走りで10分ほどの場所にそれはある。

校舎へ向かう並木道を抜け、チャペルの裏にある小道をさらに入っていく。

暫く行くと三角屋根に全面ガラス張りの温室が見えてくる。

その中で草花に囲まれて立つ、凛とした彼女の後ろ姿があった。 


淡いピンク色のネグリジェとはちぐはぐに、足元はよく磨かれた黒のローファーだ。

長い黒髪が華奢な肩を覆う。

傍らの花をつまらなさそうに見つめている彼女の退屈気な表情が思い浮かび、知らず、顔がほころぶ。

そんな私のはしゃぐ気持ちがきっと彼女にはバレているのだろうと思うと恥ずかしく、少し悔しくもあった。

なぜなら彼女はこちらの気配に気づいているに違いないのに、振り向くこともせず、まるで興味がないかのように背中を見せ続けているからだ。

けれどそれすら私の心を高ぶらせる。

本当の彼女がどれほど表情豊かなのか、弾けるように笑い、瞳を輝かせ、私に縋ってくるのか、その変貌を私は誰よりも知っているからだ。

鍵の壊れた扉を開ける。


「おまたせ」


言うと、ようやく彼女が振り向いた。

私を射抜く、冷ややかなまなざし――だがそう思わせたのはほんの一瞬だった。

緊張をほどいたのか、瞳は柔らかくたわめられ、咲き誇る花が終わりの時を迎え花びらを散らすように、彼女は艶やかに笑った。

こちらへ向き治ると両の腕を差し出す。

それを絡め取る勢いで、私は彼女を抱きしめた。

私よりも頭一つ分小柄な彼女がクスクスと笑う、その吐息が鎖骨をかすめる。私の背に、彼女の腕が回された。


「ちゃんと来るのね」


からかおうとしているのだろうが、隠しきれない安堵がにじむその声色に胸を締め付けられる。


「来ないと泣くくせに」


そう返すと、うん、と素直に頷き、


「大好きなの」


彼女の腕に力がこもる。二人の体は隙間も許さないようにぴたりと寄り添い合う。

泣くくせにと指摘したその舌の根も乾かぬうちに、なぜか私のほうが泣きたくなってしまう。


「私も」


声が震えたことを知ってか知らずか、彼女が腕の中から私を見上げた。

待ちきれず、小さく背伸びをするようないつものその姿勢。

彼女の要求に答えるように、私は少し身をかがめ、唇をそっと触れ合わせた。

ちゅ、と湿った音を立て、彼女の唇が角度を変える。

彼女の舌はほんの少し私の唇をなぞると、どこか名残惜しそうに離れた。


私を見つめる潤んだ目が、キスに溺れまいとするように視線を逸らした。


「アマリリスって、羊飼いの名前なのよ」


私の背後の何かを見つめ、彼女は言う。

振り返った私は、すぐに彼女が何をいわんとしているのか理解する。

入り口のすぐそばの花壇にそれは咲いていた。いくつもの植物が並ぶ温室にあって、主役は自分だと主張するような、真っ赤な大振りの花。その隣には、真っ白であるにもかかわらず、清楚というにはやはり主張の強すぎる、同じ形状の花が咲き乱れている。

アマリリスだ。


「羊?」 


しかし、私にはアマリリスと羊の関連性がまるでピンと来ない。


「そう。アマリリスはね、恋する女羊飼いだったの」


彼女は話し始めると、軽やかな足取りで温室の片隅に置かれた木のベンチへ向かい腰掛ける。私も促されるまま隣に座った。


「恋の相手は、自分と同じ羊飼いのアルテオっていう男の子。でもアルテオはね、花が好きで、きれいな花を持ってきてくれる別の女の子のことが好きだったの。アルテオの欲しい物は、この世で一番美しい花。それを知った内気なアマリリスは、ただ神様に祈った。この恋を叶えて下さいってね。そしたらね、神様はアマリリスにある物をプレゼントしてくれたの」


彼女はそこで話を止め、


「――なんだと思う?」


もったいをつけて私の顔を覗き込んだ。


「えー、なに? 世界一美しい花じゃないの?」


私はその挑発に乗っかってやる。正直そこまでこの話に興味があるわけではなかったが、彼女とこうしてたわいもない話をしている時間がとても好きだった。話の題材などなんでも構わない。


「矢、よ」

「や? ……弓矢の、矢?」

「そう」


彼女は頷くと、私に思考の続きを促すように間を置いた。

神様が矢をくれた、と聞いても私にはその絵面が想像できない。どうやってくれたのだろう。神様が目の前に立っていて「どうぞ」と渡してくれたのか、それとも天から降ってきたのか。後者の場合、危険過ぎるよね?

しかしそんなことを言って話の腰を折っては彼女の機嫌を損ねてしまう。

ここで問われているのは、その矢で何をしたのか、だろう。


「ライバルの女の子を矢で射ったの?」

「違うわよ、野蛮ね」


クスクスと彼女が笑う。


「じゃあ、そのアルマジロ君だかなんだかを射った?」

「違う! 名前も! アルテオ!」

「えー、分かんないよ」


そうすねて見せると、満足気に彼女は口を開いた。 


「自分に突き立てたのよ」

「えぇ? 失恋の悲しみで?」

「違う、突き立てろっていうのは神様のお告げなの」

「へえ」


彼女の話は説明不足なことがままあるが今ここでそれを指摘するのはやめておこう。


「アマリリスが自分の体に矢を突き立てる。血が流れます」

「うん」

「その血が流れた地面から、それはそれは美しい花が咲いたの」

「ああ、なるほどね!」


それが「世界一美しい花」というわけだ。ようやく話の全容が分かった。


「それで、アマリリスちゃんはアルテオ君と結ばれました、めでたしめでたし、ってことなんだね」


アルテオとやらはその様子を見ていたのだろうか。

思いつめた少女が自分への恋心のために我が身を傷つけ、痛みに耐え、血を流す様を。

どこに突き立てたのか、この話を聞くだけでは分からないが、それなりに血が出る部位だろう。

その後もアマリリスが生きていたということは、心臓ど真ん中ではないだろうが、それに近い場所かもしれない。

想像してみる。


恋に身を焦がす内気な少女。

思いつめ、神に祈り、授かった矢。

それを手に意を決し、少女は深呼吸する。

目を閉じる。

息を止める。

そうしてから、ひとおもいに、自らの胸に矢を突き立てる――彼女の洋服に赤い染みが広がり、それはみるみる溢れ出す。地面に滴り落ちていく。


彼女は痛みで朦朧とし、堪え切れずその場に崩れ落ちる。

苦痛から逃げるように、ただ彼女が思い描くのは愛しい人の顔だけだ。

愛しい相手への一途な想いだけが彼女を支配している。


どうにかして、あの人を私のものに。この痛みと引き換えに。

神様、あの人のすべてを私に下さい。

他の女になんて、渡さない――。


ああ、アルテオ。

あなたが花を見つめるように、情熱的に私を見つめてくれたなら。


好き。好き。好きなの。好きなの。あなたが。あなただけが。

あなたが、好き――。


地面に横たわった彼女は目を見開く。

その瞳に宿るのは愛情だろうか?

いや。狂気だ。

正気を失った瞳に映るのは、自らの流した血を養分に咲き誇る花。

彼女は安堵しただろう。

ああ、こんなに美しい花ならば、きっとあの人に振り向いてもらえる、と――。

血で染まったアマリリスの真紅の花弁は怪物の口のようにも見える……。


「怖い」

知らず、私はつぶやいていた。

「自分に恋をする者が流した血から咲く花を世界一美しいと思う人間だなんて、自己愛が強すぎてとても好きになれそうにないし」


「そうね」

と彼女も同意しつつ、続ける。

「でも、私はアマリリスに少し憧れもあるかな」


「ふふ。ロマンチストだもんね」

私のからかいも意に介さず、彼女は思いつめた表情で私をじっと見つめた。


「私も、絶対に想いは叶えるもの」


ふふ、と笑った彼女の美しい唇からちらりと舌が覗く。

真っ赤な花弁を連想させるそれは、再び私の唇を奪った。

食われる、と思った。

彼女の唇はさっきキスをしたときとはまるで別物のように、激しく、私を貪って――。





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