第三章 憧憬の果てに⑤


 ――人間になりたかった。


 怪物だった頃から、名もない頃からヴァルトはずっとそう思っていた。

 恋をしている人間の女の子がいた。怪物が人間に恋をする。それが、どれだけ滑稽なことなのか、怪物の低い知能でも分かっていた。それでも諦められなかった。

 人間になりたいという願いが、彼に憑依能力を生み出した。

 その女の子が住む村の人間に憑依して、ヴァルトは彼女と仲良くなった。


『わたし、魔法騎士になりたいんだ』


 剣を指さして首を傾げると、彼女はそんな風に笑った。

 真剣な表情で剣を振り続けるその立ち姿は、とても恰好良いと思った。


『君も、剣に興味があるの?』


 ヴァルトが真似したいと思うのも自然なことだった。


『じゃあ、わたしと一緒に鍛錬しよう!』


 仲間を見つけて快活に笑う彼女の姿はとても愛しかった。

 彼女と剣を振っている時は、自分が人間になれたようで、気持ちが高揚した。


『わたしね、いつか大切な人を見つけて、その人を守るために戦うんだ』


 彼女曰く、剣は誰かを守るために振るうものらしい。

 ならば、ヴァルトは彼女を守るために剣を振るおうと思った。

 貧弱な体格で憑依という戦いに役立たない能力を持つヴァルトは弱かった。怪物の中でも最弱の扱いを受けていた彼は、人間の技術で強くなることを決めた。

 今思えば子供に憑依したのが幸いだったのだろう。怪物の低い知能でも、しばらく疑われなかった。言葉すらまともに解せなかったが、彼女は面白いと笑ってくれた。

 しかし、そんな状態が長く保てるはずもない。

 最初はその子供の母親が疑い始める。病気か何かではないだろうか、と。

 息子の様子が急に変わったのだ。気にかかるのも当然だろう。

 子供に憑依したヴァルトは母親に連れていかれるままに、魔法使いのもとを訪れる。

 そこで怪物が憑依していたと気づかれてしまう。

 周囲の視線が急に変わる。

 恐怖と憎悪が入り混じった不快なものへ。

 当時のヴァルトの知能で分かったことは、明らかな扱いの変化だけだった。だけど、彼女だけはヴァルトを怖がらなかった。


『――大丈夫だよ』


 それどころか人間の悪意を受けて怯えるヴァルトを慰めてくれた。


『君は怪物なのかもしれないけど、でも悪い人じゃないでしょ? ……あ、人じゃないんだっけ? じゃあ、ええっと、悪い怪物じゃないって、わたしは信じてるから』


 人間の言葉をきちんと理解することはできなかったけど、何となく分かった。

 だからヴァルトは安心した。

 きっと彼女が何とかしてくれるのだと頼ってしまった。

 それが間違いだった。

 ヴァルトを擁護した彼女は、怪物に騙されたと思われた。


『わたしね、いつか大切な人を見つけて、その人を守るために戦うんだ』


 今思えばあの言葉は、彼女がひとりぼっちであることの証明に他ならない。

 大切な人を見つけるなんて工程は、本来なら必要ないはずだから。

 ヴァルトの味方は彼女がしてくれたのに、村に彼女の味方は誰もいなかった。

 魔法騎士を名乗る連中が群れをなして現れた。

 彼女が憧れていたはずの存在は、ヴァルトだけじゃなく彼女にまで斬りかかった。ヴァルトは彼女から教わった剣で、彼女を守るために戦った。

 本当は、戦いたくなんてなかったのに。

 それだけで、やはり怪物なのかと敵意のこもった目を向けられる理不尽を嘆いた。

 やがて剣を折られて敗北した。

 付け焼き刃の剣術で本職の魔法騎士に及ぶはずもなかった。

 そして。

 ヴァルトの仲間だとみなされた初恋の少女は、目の前で殺された。


 ――なんで、あの子がこんな目に?


 ヴァルトには分からなかった。

 自分はどうなってもいい。

 自分は怪物だ。

 人間社会に混じろうとしたことが間違いだったのだと分かる。

 殺されても構わない。

 だが、彼女は何もしていないはずだ。


『俺は、ただ、あの子と、仲良くなりたかっただけなのに……!!』


 覚えたての人間の言葉は、誰も聞いてはくれなかった。

 やがて延々と追ってくる魔法騎士に殺されかけ、死ぬ寸前に声をかけられる。

 そこにいたのはすべてを惑わす魔女だった。


『――君、人間になりたいんだろう?』


 その問いに、違うと答えた。

 もう、それを願う意味すら消えてなくなった。

 怪物のままでいい。そもそも彼女がいない世界なんて消えてしまっても構わなかった。

 そう思っていたのに、魔女は見透かしたような目で告げる。


『なるほど。知能が足りなくて自分の願いすら理解できないか。いいかい、君はね、彼女の遺志を継ぎたいと思っているんだよ。だから、まだその剣を手放さないんだ』


 彼女の遺志。

 そう言われて、ヴァルトはようやく自分の気持ちを理解した。


『わたしね、いつか大切な人を見つけて、その人を守るために戦うんだ』


 あの願いを、叶える。

 ヴァルトは魔女が差し伸べた手を取った。

 怪物は怪人に進化し、知能を手に入れた。手に入れてしまった。


 ――だから絶望した。


 自分がどれだけ無謀な真似をしていたのか、ようやく理解した。


 人間になる? 

 馬鹿が。無理に決まっている。


 大切な人を見つける? 

 彼女のような人が二人もいるとは思えない。


 誰かを守るために戦う? 

 魔法騎士は怪人の敵だ。その理念には従えない。


『どうした、ヴァルト。何か不満でもあるのか?』

『……いえ』


 ひとまずヴァルトは命を救ってくれた魔女に従うことにした。

 それが最も合理的かつ最も現実的な選択肢の中で、彼女の遺志に近いと考えた。

 本心では違うと分かっていたのに。


 今回も、怪人としての仕事の一環で王国に潜入した。

 それは魔女が求める実験体を確保するため。

 魔女は、優秀な魔力的素養を持つ若い人間を求めていた。その指示を受けて、ヴァルトの進化した頭脳は騎士学園の学生をまとめて攫うのが最も効率が良いと結論付けた。

 そこでルナという少女を見つけた。

 彼女は騎士学園の内情を探るため、無作為に選んだ憑依対象の一人に過ぎなかった。

 しかし。


『馬鹿な……これほどの人間が、いていいのか……?』


 桁違いの才能だった。

 神など信じてはいないが、神に愛されているとしか表現できなかった。

 あまりにも巨大な才能。だが、なぜか無意識に蓋をしている。

 だからヴァルトとしてもノーマークだった。

 憑依対象に選ぶまで、その体に眠る才能に気づかなかった。


『仮に作戦が失敗しても、こいつさえ連れて帰れるなら構わない……』


 そう思って、ほくそ笑んだ。


 ――それが、作戦に失敗したヴァルトが戦い続ける理由だ。


 少なくともヴァルトはそう思い込んでいた。

 でも、違う。

 それだけならここまでこだわったりしない。

 そもそもここまで追い詰められた時点で、逃げ帰った方がいいに決まっている。こんな仕事で数少ない怪人を失う方が、《掃滅会》にとってはよほどの損失だ。

 分かっている。

 ヴァルトは心の奥底で、そんな理屈はとっくに理解している。

 だけど、とヴァルトは思う。

 この二人を見ていると、なぜ人間になりたかったのかを思い出してしまう。

 ルナはヴァルトを怖がらなかった。


『どうして、剣を選んだの?』


ブラムは、かつての自分に似ている少年だった。


『届くさ。必ず助ける。僕とお前は似ているけど違う。一度失って、傷ついて、今度こそ誰かを守りたくて剣を鍛えて――結局、諦めた奴なんかに負けない』


 だから倒さなければならない。

 どんなことをしてでも倒さなければ、今の生き方を否定することになる。


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