第三章 憧憬の果てに③


 ――初めて剣を取った日のことを、今でも覚えている。


 大好きな少女がいた。

 海のように青い髪をたなびかせる少女だった。

 ただ彼女を守る力が欲しかった。

 似合わないことは分かっていて、滑稽に見えることも知っていた。

 それでも、弱くて、ちっぽけで、戦いには何の役にも立たない能力を持つ怪物にそれ以外の手段なんて思いつかなくて、何より人間の意志を謳うそれが、とても眩しかったから。


「……ねえ、ヴァルト」

「あん?」


 たき火の向こうで、青髪の少女がこちらを見つめていた。


 ――あいつとは違う。


 分かってはいるが、ルナは彼女に似すぎていた。

 夜。暗がりが辺りを支配し、この炎だけがルナの顔を照らす光源だった。


「どうして、剣を選んだの?」


 その言葉を聞いて、思わず舌打ちをした。


「俺の過去をどこまで見た?」


 憑依能力の弊害とはいえ、ここまでヴァルト側の意識や記憶がルナに流れ込んでいるのは、一重に彼女の強靭な精神ゆえだろう。


「その問いに答えるのは、難しいな。断片的に流れ込んできてるだけだから。あなたが怪人になる前……怪物だった頃の記憶と、守りたかった人間の少女のこと、とか」

「そうかよ」


 吐き捨てるように答えて、しばらく沈黙があった。

 ぱちぱちと、燃える焚き木の音が響く。

 やがてヴァルトはゆっくりと答えた。


「あの頃の俺は怪物だった。今ほどの知能もねえ。考えてたことなんて分かんねえよ」


 怪人は怪物を基盤としている。

 例外はあるが、ヴァルトは単純に怪物から進化した典型だった。

 両者を分ける最大の違いは、人型ではない。人間並みの知能を持つことだ。

 当時のヴァルトはひどく単純な思考回路しか持っていなかった。


「そっか」

「どうしてそんなことを聞く?」

「何となく、ブラムに似てると思ったから」

「あんな腑抜けた野郎と一緒にするな。殺すぞ」


 ヴァルトが殺気をぶつけても、ルナは動じなかった。

 それどころか、物憂げな表情でじっとヴァルトを見つめてくる。


「あなた……本当に、これでいいの?」

「何が言いたい」

「――人間に、なりたかったんでしょう?」

「俺は怪人で、テメェら人間を超えた存在だ。下等種族に憧れる理由がどこにある?」


 違うとは言えなかった。


「じゃあ、どうして剣を選んだの?」


 あえて無視をしたはずの質問だと分かっているくせに、ルナは言う。


「剣は古来より怪物と戦ってきた人の武器。人であることの意志を示すもの」

「怪人は人と怪物が融合した上位存在だ。人間の技術を扱っても不思議じゃねえ」

「あなたが怪人になってから剣を手に取ったならそうだと思うけど、違うでしょ。あなたは怪物だった頃から、ただひたすらに剣の鍛錬を続けていたんだから」


 見透かすような瞳がひどく癇に障る。


「テメェ、自分の立場が分かってねえようだな」


 ヴァルトは鞘から引き抜いた剣を、ルナの喉元に突きつけた。

「自覚はねえだろうが、テメェは人類最高峰の魔力的素養の持ち主だ。だからこの俺が直々に憑依した。他の学生どもは捕獲できずとも、テメェだけは逃さねえように」

「わたしが……?」

「ああ。だからテメェはこれからあらゆる実験で使い倒され、最終的には俺と同じ怪人に進化するか、適合に失敗して死ぬだろう。そのすべての権限を持つのは俺たちだ。この先、テメェに何一つとして自由はねえ。嫌だと嘆いても何の意味もねえ。分かってんのか?」

「……分かってるつもりだよ。だから、聞いてる」

「何を」

「――本当に、これでいいのって」


 剣の切っ先は、いまだルナの喉元にある。

 だが、ルナは怖がらない。

 それどころか、痛ましそうな表情を浮かべる。

 まるで自分にも同じ問いかけをしているかのようだった。


「……これ以外に、どうしろってんだ」


 ルナは殺されることを受け入れているわけではない。

 ヴァルトがルナを殺さないと分かっている。

 その姿が初恋の少女と重なる。


 ――お前も、俺を怖がらないのか。


「俺は怪人だぞ。テメェら人間を越えた存在だ。俺を怪人に進化させてくれたあいつに恩を返すために働く。それだけだ」

「そうやって、自分を納得させるの? 嘘だよね? わたしには分かる。怪人に進化したはずなのに、あなたは誰よりも自分を怪物だと思ってる。あなたは人類の敵だから」


 怪人は怪物を配下に人類と敵対している。

 それはヴァルトのように、怪人の基盤があくまで怪物にあるから。


『君、人間になりたいんだろう? もし私に協力してくれるなら、君を助けてあげるよ』


 かつて、あの言葉を聞いて喜んで受け入れた。

 しかし結果は、思っていたようなものではなかった。

 それをどうにか誤魔化して自分を騙して生きてきたのに――この少女はそれを許さない。

 だってこの少女は今、その厳しい問いを自分にも投げかけている。


「まだ手遅れじゃないと思うんだ。だって、あなたはまだ誰も殺してないでしょ?」


 その言葉で。

 滅ぼした村の光景が脳裏を過った。


「くくく……」


 思わず笑ってしまう。


 ――馬鹿か、俺は。

 なぜ、まともに聞いているんだ。

 なぜ、まともに答えている。

 こんな少女に、何を縋ろうとしている。

 とっくの昔に手遅れなのだ。今更ヴァルトの望みが叶うようなことはない。今のヴァルトにできるのは、あの女に恩を返すことだけだ。分かっていたはずだろう。


「ヴァルト……?」

「――口を開くな、下等種族が」


 鈍い音が響く。剣の切っ先を喉元から離し、峰を体に叩きつけた。

 軽く叩いただけのつもりだったが、怪人の膂力は軽いルナの体を吹き飛ばす。


「ぐ、あ、うう……っ!?」


 地面を転がりうずくまる少女。

 苦悶に顔を歪め、ヴァルトを見る目に恐怖の色が浮かぶ。

 ちくりと胸の奥が痛む。

 ――これでいい、とヴァルトは自分を言い聞かせた。

 ヴァルトは怪人。怪物の上位存在だ。

 決して人間ではない。

 人間とは、違う。

 剣を使っているのは、人間の技術も使えるからに過ぎない。

 それ以外の理由なんてない。

 だから別に、剣を捨てたっていいのだ。

 ――怪物に戻っても、構いやしない。

 そう自分を納得させた。


 その時。

 遠くから、怪物の鳴き声が届いた。


 それが意味しているのは。


「……来たか」


 ヴァルトは夜闇の奥深くに、一人の少年を幻視した。

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